答え合わせ

真花

答え合わせ

 遠くに光が見える。上から何かを照らしているようだ。

 右も左も線で塗りつぶしたように真っ暗で、音がしない。何も分からない。だが、光があるからそっちに足を踏み出す。歩いても音は鳴らない。

 近付くにつれ、光の下にあるものが形になる。

 赤いベンチの右端に誰かが座っている。……人がいる。僕の胸が少しだけ弛緩する。すぐに、安全な人物かは分からない、と締め直す。それでもベンチに向かって足を止めない。

 男のようだ。白いスーツにシルクハットで、顔は見えない。杖をついている。

 僕がもう少し近寄ると、男は顔を上げた。初めて見る顔のはずなのに、懐かしい感じがした。男は会釈する。

「お待ちしておりました」

 光に照らされた僕は普段着で、靴下は履いているが靴はなかった。

「僕をですか?」

 男は柔らかい顔をする。

「そうです。さ、お掛けになって」

 危険そうではなかった。僕は男の隣に座る。そこから見る景色は闇だけだった。

「ここは、どこですか」

 僕は男に言うように、闇に向かって言うように、声を放った。男が頷く気配がする。

「この世とあの世の境目です」

「すると、僕は死んだのですか」

「そうです」

 まだ三十五歳だ。

「どうして死んだのか思い出せないです。……本当に、死んだのですか?」

「そのうち思い出しますよ。それよりも、ここですべきことをしましょう」

 男は杖をコツン、と突く。僕は首を傾げる。男が続ける。

「答え合わせですよ」

「何の、ですか」

 僕が男を見たら、男も僕を見ていた。

「生まれるときにですね、誰もが人生のテーマを決めるんですよ。課題とも言えます。そして死んだらここに来て、そのテーマが達成されたかどうかをはかるんです」

 僕は頭の中をさらってみるが、そんなものの記憶はない。

「テーマなんてわかりません」

「必ずあります。すぐに思い出しますよ」

 男は口元を締める。

「それで、達成されたらどうなるんです?」

「もう一度生まれ変われます」

「されなかったら?」

「魂の元になる広大なスープに放り込まれます」

 男は調子を変えずに言った。ともすれば、この闇こそがそのスープであって、僕は取り込まれる寸前にいるのかも知れない。冷や汗が流れた。

「僕は、どっちなのでしょう」

「さて、どちらでしょう。そろそろ思い出しましょうか」

 男の声が急に遠ざかって、めまいに揺れる闇――


 急に秋に落ちた空に、ため息を放った。

 孝子たかこのアパートは二階で、階段を上る前に郵便受けを覗く。宅配便の不在票が入っていた。僕は部屋に入るとすぐに宅配業者に電話をかけ、数時間以内に持って来てくれることになった。部屋は生活の匂いがする。かと言って片付けはしない。

 最後に役をやった台本がベッドの下に転がっているのを見付けて、手を伸ばして取る。

『俺の人生には感謝、感動、金の3Kだけが重要なんだ。お前のような半端者と一緒にするんじゃねぇ!』

 役どころはまさに半端者で、それが粋がって言うセリフだ。

――それをお前が言うからいいんだよ。

 演出家が僕に言ったときの目は、僕がその役そのものだと断定していた。僕の胸の中にうずきが巻いたが、役をもらえたことだけでも言い返せない理由は十分だった。僕は視線を徐々に下ろして、演出家のバックルを見た後に、がんばります、と言った。

 公演にはどの日もまばらな客しか来なかった。だが、僕は短い出番に全てを叩き付けた。興行として失敗だったとしても、僕は役者として問題はなかった。

――辞めてもらいたい。

 演出家は千秋楽の後、片付けをしている舞台の袖に僕を呼び出して言った。どうしてですか。僕は反射的に声を出した。鋭い声だった。言いながら、今回の公演で金銭的に行き詰まったとか、劇団の縮小をするとか、理由を自分で考えた。

――役者に向いてないよ。そんな人をうちで飼い続けられない。

 演出家の目は、僕を殺した。僕は俯いて、そうですか、と言い置いて孝子のアパートに帰った。クビになったことを孝子に言えないまま、今日が来た。

 僕は台本を投げ捨てる。台本は滑って、再びベッドの下に潜り込んだ。

 何度同じことをしただろう。何度読んだって、僕そのものだ。

 握り締めた拳が痛い。その指を一本ずつ開いていく。もういい、そう決めたじゃないか。

 鍵を開ける音がする。小さく深呼吸をして、普通の顔をする。

「ただいま」

 孝子は手にスーパーの袋を持って部屋に入って来た。スーツを脱ぐ。

「おかえり」

「今日は稽古はどうだった?」

「ん。いつも通り」

「そっか。お疲れ様。すぐご飯作るからね」

「ありがとう」

 孝子の動きが止まる。

「どうしたの? いつも『ありがとう』なんて言わないよ?」

「いや、別に」

 孝子は嬉しさを顔に照射したみたいに笑う。

「そっか。まあ、いいけど」

 孝子が調理をしている間、テレビをつけた。観たかった訳じゃない。いつもそうしているから、そうした。

 生姜焼きをメインにした食事を食べ終わる頃、チャイムが鳴った。連絡していた宅配便だった。

「何、それ?」

 僕は小包みから視線を力で持ち上げて、孝子の目を真っ直ぐに見る。

「ごめん。……本当は劇団をクビになってたんだ」

 孝子は柔らかい顔をする。悲しみなど知らないかのような。

「薄々気付いてたよ」

「もう、どうしようもないから、死のうと思って、薬を買ったんだ」

「それが、その宅配便なんだね」

「今夜、薬を飲んで、死ぬ」

「分かった」

 止めない。孝子にとって僕はその程度だった。

「いいの?」

「いいよ。でも私も一緒に死ぬ。二人分くらい、あるでしょ?」

 僕は砂漠の像のように固まる。剥離させるように声を出す。

「孝子は死んではダメだよ。それは違う。別の話だ」

「じゃあ、悠太ゆうたも死なないで。どっちかだよ。二人とも死ぬか、二人とも生きるか」

 孝子は脅しで言っているのではない。静かな覚悟がある。だが僕にだってそれはある。僕は孝子の顔を見る。ずっと僕が役者として大成すると信じて支えてくれた。僕は半端者から抜け出すことが出来ないまま、半端ですらなくなってしまった。それでも僕がいなくなったら辛い毎日を送るだろう。そんな思いをさせたくない。違う。僕は、僕がいなくなった後に生きていく孝子が嫌だ。新しい幸せを見付けるなんて耐えられない。

「一緒に死のう」

「分かった。……夕食の片付けをしてからね」

 シンクの前に立つ孝子の背中を見る。これが最後になる。小包みを開ける。大きなビンに錠剤が詰まっている。

 きれいに死にたいと、孝子はシャワーを浴びた。僕は普段着のまま待つ。

「お待たせ。じゃあ、死のう」

 僕から薬を飲む。たっぷり三十錠を飲んだら、ベッドに横になった。しばらくしてから孝子が横に寝る。

「これで今生は終わりだね」

 孝子の声は震えてはいなかった。

「付き合わせて、ごめん」

「そんなことないよ。私の生きがいは悠太だから」

「孝子。これまでずっと、ずっとずっと、ありがとう。人生の最後に、伝えるべきことって、感謝なんだと思う。僕は一人前になれなかった。だけどずっと信じてくれた。支えてくれた。本当に、ありがとう」

「私の生きがいだもの。当然よ」

 僕は孝子の手を探して、繋ぐ。

「孝子と出会ったのは、まだ学生の頃だったね」

「大学の演劇サークル、何だっけ、サークルの名前」

「『アルファ』だよ。お客で来ていた孝子と知り合って、付き合って」

「それからずーっと役者をして」

「二流のままだった。半端だった」

「それでも役者だよ。自分の夢を貫くってすごいよ」

「孝子がいたから、出来た」

「それは、そうだね。でも私だってしたくてしていることだから」

「孝子、意識がおかしくなって来た。最後に、もう一度、……ありがとう」

「うん。大丈夫だよ」

 僕の耳にはそれ以降聞こえなくて、喋ることも出来なくて、気が付いたら闇の中にいた。


「思い出しましたか?」

 白いスーツの男の声に僕は顔を上げる。

「僕は孝子を殺した。地獄へ行くべきだ」

「地獄なんてありません。魂のスープに還るだけです。それに、判断基準はそこじゃありません」

 僕は首を振る。

「テーマですか」

「そうです」

「僕には僕の人生のテーマが分かりません」

「いや、思い出しています。心のどこかで歯止めをかけているだけです。何となく分かりませんか?」

 あの自分の言葉としか思えないセリフが浮かぶ。

「感謝、感動、金」

「そう。その内の一つです」

 金ではない。感動は求めていたかも知れないが、違和感がある。もしかしたらそここそが役者に向いていない理由だったのかも知れない。

「感謝、ですね」

「そうです。テーマは感謝です。そして、あなたはそれをちゃんとしました。一番しなくてはならない人に」

「じゃあ、テーマは達成したと言うことですか」

 男はゆっくり頷く。

「生まれ変われます」。

 僕は息を吐く。

「生まれ変わっても、孝子のいない世界じゃ意味がない」

 男が杖を突く。

「もう一つ、道があります」

「もう一つ?」

「……ここはこの世とあの世の間と言いました。テーマを達成しているのなら、この世に戻ることが出来ます」

「それだって、孝子がいなければ意味がない」

 僕の語気が荒さを含む。男は顔をしかめて考える。力を抜くように息を吐く。

「特別サービスです。孝子さんは生きています」

「生きている?」

「テーマを達成して、元の世界に戻りました。……どうしますか?」

 孝子の笑顔が浮かぶ。涙がギュッと出る。

「生きます。孝子のところに戻ります」

「では、あちらの光に向かってまっすぐに、振り返らずに。さようなら」

 闇の奥に光がある。孝子。僕は進む。


 目が覚めた。ベッドの上、横に孝子。

「孝子」

 孝子が、ううん、と反応する。

「孝子、生きてる?」

「生きてるよ」

「僕も生きてる」

「際どいところまで行ったけどね」

「僕も。でも、二人とも生きてる。ねえ、孝子、僕、死んだと思って、やり直すよ。もちろん役者だよ。惨めな思いもたくさんするかも知れない。だけど、もう一度やってみる」

 僕達は天井を見ながら少し笑って、この世とあの世の間の話をした。だが、お互いのテーマについては言わなかった。言ってはいけない気がした。次の答え合わせのときに達成するかどうかは分からない。分からなくてもいい。


(了)


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