100年後のあなたへ
ゴールデンウィーク目前の平日。
石造りの倉庫と、石畳の広場がマッチする観光案内所『運河プラザ』の中に、弥生はいた。
音羽と待ち合わせをするためだ。
晴天に恵まれた広場には、ケバブサンドやチュロスのキッチンカーが並び、美味しそうな匂いにつられた観光客がちらほらいる。
今日はこれから、運河周辺のスポットを、音羽と一緒に歩いて回る。
ただの散歩ではなく、歴史や建物の謂れを、弥生が説明しながら歩くのだ。
ちょっとした街歩きツアーである。
だが肝心の、エスコートする音羽が現れない。
「音羽さん、お店抜けられないのかな…」
約束の時間からは、既に10分近く経過した。
埃っぽい冷たい風とともに、一抹の不安も吹き付けてくる。
博臣に電話しようかとも思うが、こちらは休日なので、仕事中の相手にかけるのは気が引ける。
もう少し待ってみようと思いなおした瞬間。
ふっ、と耳の中に生暖かい空気が吹き込まれた。
変な声が出てしまうと同時に、すぐ隣に濃密な空気の塊が現れる。
微かに香る、枯れ木と砂のにおい。
塊は熱を発し、人の形を作っていく。
「まぁ弥生ったら。驚きすぎですよ」
むず痒くなった耳と恥ずかしさで、開いた口が塞がらない弥生に、突如現れた音羽は楽しげに笑いかけた。
「や…やめてくださいよー!あー、びっくりしたぁ…」
「あなたがあまりにぽーっとしていたものだから、悪戯したくなってしまいました」
音羽は自分の意思で、姿を消したり現れたりができるが、それは瞬きするほどの一瞬だ。正直気を付けようがない。
だが博臣に、悪戯されたと抗議したところで、仕方ないだろ猫なんだから、と一蹴されそうである。
「あら弥生。隣の像は、ぶんですか?」
「え?はい…そうですけど」
運河プラザの前には、精悍な顔つきでおすわりをした、犬の銅像がある。
首には白い水玉模様の赤いスカーフが巻かれており、春らしい装いだ。この衣装は、観光協会が季節ごとに替えているそうだ。
台座には、『消防犬ぶん公』と書いてある。
ぶん公は、大正から昭和の初めにかけて、小樽の消防組に住み着き、隊員たちに可愛がられていた。
火事の際は隊員たちと現場に出動し、絡まったホースを咥えて解いたり、集まった野次馬を吠えて整理したりと、まるで人間の隊員のように活躍した。その出動回数は、実に千回を超えたという。
「ふふっ。こんな立派な像を作ってもらって、今も愛されているのですね」
「最近移住したのに、ぶん公を知っているなんて凄いですね」
「でも、少々美化しすぎでは?あいつはここまで細くありませんでしたよ。デザイン上仕方ないのでしょうか…」
「あいつ?」
昔近所に住んでいた友達の事を話すような言い方だ。
弥生の疑問に気づいたのか、音羽は小さく笑った。
「私は、大正末期から15年ほど小樽にいた事があるのですよ。ぶんは、ちょっとした知り合いのようなものです」
言われた事を理解するのに、ややしばらくかかってしまった。
「えっと…音羽さんって、一体何歳…?」
「生まれたのは、平安と呼ばれていた時代です」
聞き間違えではない。音羽は『平安』と口にした。
やんごとなき方々が、ホホホと言いながら蹴鞠をする光景が思い浮かぶ。
「平安…って、鳴くよウグイス平安京の、あの平安時代!?」
思わず声がトーンアップしてしまうが、広場の喧騒が上手くかき消してくれたようだ。
「えぇ。ざっと1000年前ですわね。だいぶ終わりの平安時代だったようですので」
ふと空を仰ぐと、カモメの群れが悠々と飛んでいる。青空と白いシルエットが美しい。
諸行無常。盛者必衰。
国語は得意だったので、そのような言葉が浮かんだ。
「弥生、大丈夫ですか?魂を抜かれたような顔をしていますよ」
「え!?あ、はい…大丈夫です」
忘れがちだが、音羽は人間ではない。尻尾が分かれた、猫又だ。
お化けは、死なない。
博臣の好きな妖怪アニメの歌の一説だが、ある程度は本当らしい。
音羽曰く、『死』の意味合いが人間と少し違うそうだ。
ともかく、何百年と生きられるのは、あやかしにとっては通常スペックなのだろうと、片づけた。
『そういうもの』だと受け入れる。それが、博臣や音羽の世界を知るコツなのだ。
「…とりあえず行きましょうか」
「よろしくお願いしますね、ガイドさん」
気を取り直し、弥生は小樽運河に沿って走る幹線道路を渡り、音羽を先導する。
横断歩道の先は、浅草橋広場だ。
広場から見える、緩やかにカーブした水路とガス灯。
水路を挟んで立ち並ぶ、石やレンガの倉庫群。
全長1400メートル。どこを切り取っても絵になる小樽運河は、名実共に小樽のシンボルだ。スタート地点は、やはりここが相応しい。
「運河が完成したのは、大正12年…今から95年ほど前ですね。当時は、札幌より小樽の方が物流と経済の中心だったんです」
「そうでしたわね。私がいた頃に、ちょうど運河が完成したと思います。磯の匂いが強くて、あまり近づけませんでしたね」
それにしても、ノスタルジックな運河には、着物がよく映える。
何人かの外国人観光客が、音羽に関心の眼差しを向けていた。
今日の音羽は、白い小さな花を全体にあしらった、淡い青色の小紋に、薄物を羽織っている。
いつものエプロンとカチューシャがないからか、妙に艶っぽい。
「音羽さんは、本当に着物が似合いますね」
「弥生は着ないのですか?」
「うーん…興味はありますけど、自分じゃ着られないですから」
ソーキュート!と手を振る観光客に手を振り返しながら、今度着せてあげましょうか?と音羽は笑った。
「え!?いいんですか?」
「弥生は、いかにも日本人という顔立ちですからね。きっと似合いますよ」
「ぜひ!お願いします!」
そのような会話をしながら、2人は石畳の道を進んだ。
「音羽さんは、ずっと北海道にいたんですか?」
「いいえ。猫として生まれたのは京ですが、その後は各地を放浪していました」
京都ではなく京、という辺りに妙なリアリティを感じる。
大正末期から15年ほどという事は、太平洋戦争開戦の数年前だ。
それなら、終戦後の出来事はあまり知らないかもしれない、と弥生は思った。
2人は、運河の北側にやってきた。
まず目につくのは、水路を挟んでそびえたつ、北海製缶第三倉庫の建物だ。
その要塞のような風貌から、某特撮ヒーロー番組で、悪の組織の基地として、撮影に使われた事もあるらしい。
「弥生、あの建物は記憶にありますが、一体何の施設なのですか?」
「カニや魚の缶詰に使う缶を、保管していたんですよ」
鉄筋コンクリート4階建て、床面積は7200平方メートルもある。
壁はボロボロ、手すりは錆びて老朽化が著しいが、建物に外付けされた荷物用エレベーターやシューターなど、歴史を伝える遺産としての価値も大きい。
「音羽さん、このエリアはちょっと雰囲気が違うの分かりますか?」
「…船が、何艘も停泊していますね」
「今歩いてきた南側は、観光用に残された運河で、北側は本来の姿のままなんです」
音羽はしきりに頷いた。
「なるほど…どうりであちらは、水路の幅が狭いと感じたわけですね」
「南側は20メートルで、こちらは40メートルあるんですよ」
昭和40年代。高度経済成長期の小樽は、運河を埋め立てるか保存するかで、真っ二つに割れた。10年に及ぶ論争の結果が今の姿だ。
古い建物は、保存するにも多額の費用がかかる。管理しきれず、崩壊の危険が出てくると、やむなく取り壊してしまう。
課題は多いが、新旧の建物がせめぎ合い、肩を寄せ合って生き永らえている、この不思議な街並みは守られてほしい。
一市民として、弥生はそう思っている。
遊歩道も終わりに近づいた頃。
運河の一番端に、それは浮かんでいた。
錆に覆われたその姿は、巨大な難破船のようだ。
「あれ、何だかわかりますか?」
「
やはり記憶に残っていたようだ。はしゃぐ音羽を見て、ホッとする。
当時はまだ埠頭が整備されておらず、運河は過密状態だった。
そこで登場したのが、この艀という、エンジンのない巨大なボートだ。
その機動性を活かし、沖合で積み荷や乗客を乗せて運河に入り、陸に運ぶ役目だった。
ここにあるものは、全長24メートル、幅8メートルある。
「現存する最後の艀だそうです。昭和64年に市に寄贈されて、ずっとここに浮いてます」
「昭和64年というと、平成元年ですか…博臣様の年齢と同じくらいですね」
博臣は平成2年生まれだそうだが、いつから音羽と一緒にいるのだろうか。
改めて考えると、不思議な関係だ。
今日の街歩きは、先週かかってきた、博臣からの電話がきっかけで実現した。
だが博臣の意図が、いまいち分からない。
楽しいのは良しとしても、弥生自身、未だにそこを図りかねていた。
「じゃあここから、Uターンして街中に戻りますね」
「弥生はやはり、市内の事に詳しいのですね」
「いやいや、私なんか全然です。おたる案内人検定に毎年挑戦してるんですけど、幅が広くて深くて、なかなか合格できなくて…」
鞄には、資料として持ってきた検定講座の分厚いテキストが入っている。
その厚みは、小樽の歴史の厚みに他ならない。
「質問しても?」
「どうぞ」
「ガラス工場だった建物で、残っているものはありますか?」
出し抜けにどうしたのだろうか。音羽の表情が神妙で、少し違和感がある。
『ガラスの街、小樽』というイメージは、意外と近年になってからのものだ。
明治から大正は、電気設備が増加する人口に追いついておらず、明かりといえば石油ランプが主流だった。
また小樽は古くから漁業が盛んであり、当時は漁具として、ガラス製の浮き球が使われていた。
そのような背景から、市内にガラス屋は多かったようだが、今のような食器や雑貨が登場するのは、ランプや浮き玉が、電気やプラスチック製品に取って代わられてからなのだ。
「…きっとあると思いますけど、ごめんなさいすぐに思い出せなくて。そこがどうしたんですか?」
「私の思い出の場所なんです」
だがインターネットを調べても、画像検索にかけても、出てくるのは製作体験をしている工房や、色とりどりのグラスの写真しか出てこない。
音羽は少し落胆していたが、歩いていたら場所を思い出すかもしれません、と言うので、いったん街歩きに戻ることにした。
噴水のある公園を抜け、旧日本郵船小樽支店の重厚な建物を横目に通り過ぎると、その裏は、旧手宮線に沿って整備された、遊歩道が伸びている。
「ここは分かります!弥生が呪詛に追いかけられた線路ですね」
「ここよりはもっと市街地寄りですけどね」
数か月前に怖い思いをした場所も、すっかり雪が溶け、草花が生い茂っている。
明治13年。北海道最初の鉄道として開通した旧手宮線は、ここから札幌に繋がっていた。
昭和60年に廃線となるまでの約100年間、多くの石炭や荷物、行き交う人々を運んだ。
今では遮断機や踏切を活かした遊歩道が整備され、人気のスポットとなっている。
本物の線路は入れないが、ここならレールの上を歩いたりできるからだ。
「弥生は、ずっと小樽に住んでいるのですか?」
「はい。施設にいたので、ブランクはありますけど」
「そうでしたわね。何歳からそこに入ったのですか?」
弥生達の少し先を、幼い女の子が、両親らしき男女と手を繋いで、線路を歩いていた。
スキップしたり、高く持ち上げてもらったりして、歓声をあげはしゃいでいる。
「…10歳からです」
前は私もああやって笑っていたのに。
あの子に嫉妬しても仕方ないのに。
胸がもやもやしてきて、弥生は親子から目を背けた。
その年の夏の夜。
両親は交通事故で、帰らぬ人となった。
居眠り運転をした対向車の軽トラックが、正面から突っ込んでくるという、大きな事故だった。
後部座席にいた弥生だけが、何故か軽傷で生き残った。
両親の葬儀の後、弥生は道央の旭川市に住む、父方の叔父一家と祖父母が二世帯で暮らす家に預けられた。
だが、今日からお世話になります、と宣言したところで、家族になれるはずもない。
弥生の存在は戸惑いと軋轢を生み、弥生は最終的に、札幌の児童養護施設に入所した。
叔父だけは、最後まで弥生に寄り添おうとしてくれていた。
だから、捨てられたとは当時も今も思っていない。
あそこには弥生の居場所など、最初からなかったのだから。
「弥生?」
「あ…ごめんんさい。ぼーっとしちゃって…」
笑ってごまかそうとしても、どうしても顔が引きつってしまう。
「ごめんなさい…人間の触れてほしくない部分には、簡単には踏み込んでいけないと、博臣様から言われていたのに…」
「…大丈夫です。気にしないでください」
音羽は気を遣ってくれたのか、しばらく声をかけてこなかった。
あの時の経験から、他者とのかかわり方に自信が持てなくなってしまった。
学生の頃のいじめも然り、社会人になってからも、人間関係で躓いてばかりだ。
どうすればいいのか。ボタンの掛け違えは、未だに解消できていない。
「そういえば移動販売の件、連絡は行きましたか?あなたに手伝いを頼むつもりだと博臣様から聞きましたが」
音羽は笑顔だった。重い空気を変えようとしてくれたのだろう。
「…はい、来てましたよ。行きますって返事しました」
弥生も笑顔で答えた。気を使わせてしまうのは、申し訳ない。
件のメールは、今朝届いた。
猫の手だけだと心許ないから、人間の手も借りたい、というジョーク交じりのメールによると、来月の土曜日限定で、天狗山公園の広場に焼き菓子の販売に行くそうだ。
行ける日だけで構わないので、音羽と一緒に、売り子や雑用を手伝ってほしいらしい。
天狗山は、スキーがメインの冬季と打って変わり、夏季営業ではジップラインやスライダー、シマリス公園などがスタートする。
天狗山も、両親によく連れて行ってもらったが、ずっと足を運んでいない。
行くのが楽しみだ。
そういえば、学校の遠足でも行った記憶がある。
小学一年生の時だったか。
男の子と藪に分け入って、森の中でかくれんぼをした。
そういえば、不思議な子だったな。
その子がいたところだけ、花の香りがしていた。
辺りには、花なんか咲いてなかったのに。
秘密基地に行こうって言われてついていったら…いつの間にその子がいなくなって…。
…?あれ、何でその後の事思い出せないんだろう…。
鼻腔の奥で、植物の甘い香りがぶわっと広がった気がした。
「弥生!もしやあそこは酒屋ですか!?」
肩を叩かれて我に返ると、音羽が興奮気味に、道路の反対側の酒屋を見ている。
「え?あぁ…そうですね。あそこも老舗ですよ」
咄嗟に記憶が引き出せなかったが、創業は明治だったはずだ。
趣のある木造の店先には、地酒、と書かれた赤い大きなのぼりがはためいている。
入口の横にある紫色の看板は、小樽市から認定を受けた、歴史的建造物である印だ。
「音羽さん、まさかお酒飲むんですか?」
「はい!寄って行ってもいいですか!?」
店内では試飲もできると知って、音羽はますます上機嫌になっていった。
天井には、右から左に読む昔の看板が展示されており、長い歴史を感じる。
弥生はあまり日本酒が得意ではないので、この店には入った事がなかったが、店内には日本酒以外にも、梅酒やゆず酒、甘酒もあった。
ニセコで育てた好適米と、天狗山の伏流水で酒造りをしているという事を初めて知り、次はこの企業を取材してみたくなる。
音羽は勧められるがままに試飲を繰り返し、店員が若干引き始めていたので、一番人気の酒を決めさせ、そそくさと店を後にした。
「はぁ…どれも美味でした」
「音羽さん、何で猫なのに日本酒飲めるんですか?」
「あやかしの中には、神のように崇められている者もいます。そういう連中とつるむ中で覚えたのですよ」
「なるほど…お供えの酒って、ちゃんと神様に届いていたんですね」
あれだけ飲んだのに、音羽の顔は完全に素面のままだ。
酒はどこに消えたのだろう…と思うが、聞かないでおこう、と弥生は思った。
古い商店や社屋が残る色内大通では、喋る事が多い。
見どころは、『うだつが上がらない』という慣用句の語源である、『うだつ』の現物が残っている塀だ。
昔は街が大火に見舞われる事が多く、巻き込まれたら全財産を失ってしまう。
そこで防火壁で延焼を防ぐ必要があるが、なかなか出世できない者は、その壁を高く上げられない。高くできなければ、また大火事で財を失ってしまう。
それ故、仕事が上手くいかない者を『うだつが上がらない』という、という一説だ。
音羽は面白そうに、弥生の解説を聞いてくれた。
カンニングペーパーを見てしまっても、笑って流してくれた。
くさくさしていた気分は、いつの間にか彼方へ消えていた。
やがて二人は、小樽駅と小樽運河を繋ぐ、緩やかで広い坂道、中央通に出る。
ここが、今日の終着点だ。
どこかで休憩しませんか?と音羽に促され、弥生はある店を思いついた。
中央通を駅に向かって歩くと、アーケード街の出入り口が見えてくる。
もうすぐ百周年を迎える、都通商店街だ。
弥生が音羽を連れて来たのは、その中にある、老舗の菓子店だった。
一階は物販で、階段を上った2階はカフェとなっており、深紅の布張りのソファや、暗めの照明がレトロで、観光客もよく来る。
もちろん地元のマダムやママさん達の社交場でもある。
奥のソファに腰を下ろすと、お尻と背中が吸い込まれるようで心地よい。
「お疲れ様でした。実を言うと、弥生がここまで勉強熱心だとは思いませんでした」
「えぇ?それ褒めてるんですか?」
音羽に言われると、少しも嫌味に聞こえないのが、不思議だ。
おみそれしましたわ、と言いながら、音羽はメニュー表を弥生に向けて来た。
「さ、好きなものを頼んでくださいね。今日のお礼です」
「音羽さんは食べないんですか?」
「先ほど酒も飲みましたし、お腹に余裕があるなら2つ頼んでもらえますか?」
「いいんですか!?甘いものならいくらでも入りますよー」
張り切って注文したクリームぜんざいとケーキセットが運ばれてきてから、2人は仕事の話や、家では何をして過ごしているかなど、色々な雑談をした。
音羽は、家では博臣の食事を作ったり、掃除や洗濯をしたりしているそうだ。
それに博臣は映画が好きで、時々2人で映画のDVDを観たりもするらしい。
「へぇ…本当に夫婦みたいですね」
「やはりそう見えます!?私を妻かと人に聞かれたら、博臣様はいつも否定なさるのですよ」
いや実際妻じゃないんだし…と新妻のように頬を赤らめている本人に言うのは、野暮だろう。
たまに、博臣と音羽の間には、割って入るのが憚られるような空気が漂う時がある。
それは恋人や家族に近いが、微妙に違う。だが、互いに背中を預けられるパートナーとして、深く慕い合っているのが、伝わってくるのだ。
『音羽には、1つでも多くの可能性を残してやりたいんだ』
博臣から来た電話を思い出す。
何の事か尋ねると、『100年後の世界でも生きていける可能性』と返ってきた。
「…ちょっと聞きにくいんですけど…あやかしは、死なないんですよね」
「そうですね」
「でも、博臣さんは…その…」
『俺だって、いつまでも一緒にいてやれないからな』
その言葉に、頭を殴られた気がした。
音羽はあやかしだと忘れがちだが、博臣も人間だとつい忘れそうになる。
日本人男性の平均寿命は、おおよそ80歳。
科学の力で、今後も寿命は延びていくのだろうが、音羽の生きた年月など、人間には無理だ。
いつか博臣はいなくなる。
別れがくる。
それが真実だとしても、そのような言葉は出せなかった。
「…その時がきたら、音羽さんはどうするんですか?」
音羽の目元から、すっと笑みが消えた。
精一杯のオブラートに包んだ意図を、汲み取られたようだ。
口元は微笑んだままなので、余計に怖い。
BGMのクラシック音楽が、二人の間を通り抜ける。曲名を知らない音の羅列が、弥生の気まずさを募らせていく。
だが音羽は微笑んだまま、食べ終わったようですね、と立ち上がった。
「…弥生も明日は仕事でしょう?帰って足を休めないと、筋肉痛で大変ですよ?」
その真意が分からぬまま、弥生はレジに向かう音羽についていくしかなかった。
確かに時刻は午後4時を回った。音羽も店に戻りたいのだろうが、これは完全に地雷を踏んだようだ。
音羽は宣言通り、率先してレジで会計を済ませてくれた。
ご馳走様です、と横から恐る恐る声をかけるが、音羽の反応がない。
顔を上げると音羽は、レジの背後の壁に貼られた一枚の紙を見て、固まっていた。
何ということはない、この近くのカフェバーで開かれる、ライブの告知ポスターだ。
A4のコピー用紙に印刷された、簡素なものである。
「あの…その貼り紙、よく見せて頂けませんか!?」
必死の音羽に、レジの女性は不審な顔をしながらも、画鋲を外して渡してくれた。
舐めるように紙を見つめた音羽の視線は、店の外観を移した画像に注がれている。
その目から、みるみるうちに涙が溢れて来た。
「音羽さん…?」
店員と、それから客たちの視線が集まっているのを感じる。
弥生は貼り紙を返して礼を言うと、音羽の手を引いて店を出た。
初めて触れた指先は、人間と同じ温もりがした。
移動しながら、画像の店の場所を思い出した。
確かあそこは、歴史的建造物を改装してカフェに転用した物件だ。
店の前のベンチに音羽を座らせ、店の歴史を検索してみると、元々は、小樽の古いガラス商店の、工場だったらしい。
どうやら、見つけたようだ。
「…あの場所は、ここから遠いのですか?」
音羽はもう泣き止んでいたが、潤んだ目の周りはうっすらと赤い。
「いえ。隣の通りですから、五分もかからないですよ」
二人は、どちらともなく歩き出した。
アーケードと表通を繋ぐ脇道を抜けると、目的地はもうすぐそこだった。
そこは、2階建ての小さな民家だった。洋風な造りで、当時の屋号の看板がまだ残っている。
正面の壁には、『板硝子』『洋食器』と掲げられており、ここがガラス工場だった時代を示していた。
「懐かしいです…まだ残っていたのですね。私はここで、飼い猫として過ごしたんです」
「名前はどうしていたんですか?」
「喋られませんからね。『チャコ』と呼ばれていたので、それに合わせていました」
「なるほど。茶白だからチャコですか」
音羽は少しの間、建物を見上げたり、一歩近づいて、窓から中を覗き込んだりしていた。
その後ろ姿を見て、弥生は昔両親と暮らした今の家に戻れた日を、思い出していた。
込み上げたのは懐かしさだけではない。
古ぼけた壁や、埃っぽくなった窓を見て、お父さんとお母さんが死んでから、そんなに時間が経っていたのかと、感嘆と空しさが胸を塞いだ。
「互いに、あまり触れられたくない部分に触れてしまった。これで、おあいこですね」
振り返った音羽は、何かを吹っ切ったような、初めて見る顔をしていた。
「…ごめんなさい」
「あなただからいいです。ですから、私の事をお話ししますわ。どこか、ベンチのある所はありませんか?」
それなら、旧手宮線の遊歩道に、ベンチがたくさんある。
銀行街だった十字街にほど近い、旧色内駅を模した小さな休憩ブースは、呪詛に追いかけられた弥生を、音羽が介抱してくれた場所だ。
引き戸を閉めると、外界の音も鎮まる。
「私は、以前小樽にいた時は、身売りをしていました」
ベンチにハンカチを広げて腰かけると、音羽はそう切り出してきた。
「身売り…?」
「…娼婦ですよ。早い話が」
音羽は江戸時代の末期、身を潜めていた富山県で、ある陰陽師に調伏された。
だがその直後、時代が明治となり、事情が大きく変わる。
「陰陽寮が廃止されて、彼らは陰陽師と名乗れなくなってしまったのです」
「そうだ…その辺りの話、この前博臣さんからちょっと聞きました」
天社禁止令、と歴史の授業で聞いたようなワードが思い出される。
明治政府は、日本の近代化を成し遂げるため、これまで道徳的支柱となっていた神道により、国民の意識を統合しようと考えた。
だがそれは、神道以外は異端とする、という命令に他ならなかった。
奈良時代から続いた陰陽寮は廃止され、先祖代々宮仕えをしてきた陰陽師達は、身分をはく奪され平民になった。
その後彼らがどうなったのかは、多くは記録が残っていないという。
身を崩し、闇堕ちした者もいただろうな、と博臣は残念そうに言っていた。
先達の心情を思っていたのだろうが、音羽の元主の事を聞いたからなのかもしれない。
「そいつは底意地が悪く、守銭奴で、乱暴者で…私は、道具以下の扱いを受けました」
その人物は、音羽の霊力を使って怪しげな薬を精製し、精力剤と謳って販売したり、遊女を指定した場所に派遣する…今でいうデリバリーヘルスのような事業で財を築いたらしい。
「でも、主である以上、命じられたら私は動くしかありません。それが式神ですから」
嫌な記憶を思い出したのか、音羽はふと言葉を失った。
一瞬虚ろになった目は、『命じられるままに働いた』日々そのものを表しているようだった。
「そいつは更なる財を求めて小樽にやってきました。奴の予想通り、人の集まるところでは、『そういう』需要があった。あの頃は、遊郭もありましたからね」
それは事実だ。
小樽の遊郭は明治期に始まり、終戦後も数十年にわたり、存続し続けた。
最近まで、というと語弊があるが、それほど大昔でもないのが驚きだ。
「でもそいつは結局、部下に殺されました。金を持ち逃げされそうになって、揉み合いになっているうちに。他人を金儲けの道具としか見ていなかった、報いですわね」
「……」
「現場に居合わせた私も襲われましたが、猫の姿で何とか逃げ出しました。そいつが死んだ事で調伏が解け、自由になれたからです」
救急車のサイレンが、小さなブースの中に響く。
「でも…調伏されているからって、あやかしが人間に敵わないなんて…」
音羽は首を振った。
「あやかしだって、無敵ではありません。我々には肉体がありませんから、人間よりも、悪意や邪気の影響を受けやすいのですよ」
「影響を受けたら、どうなるんですか?」
「力は衰え、魂が濁ります。やがて魔物になり、人間に害をなしてしまうモノもいます」
「音羽さんは、大丈夫だったんですか?」
「えぇ。でも弱ってはいましたね。本来の姿に戻れないほどに」
つまり、ガラス工場に居ついたのは、力の回復を待つための手段だった。
だが家猫としての日々は、当初の目的を忘れそうになるほど、楽しかったのだろう。
先ほどの様子が、それを物語っていた。
「…しかし、別れの時は必ず訪れます。私を一番可愛がってくれた社長夫妻も、おやつをくれたり遊んでくれた工員たちも…私を知る人間は、少しずついなくなってしまいました」
弥生は息を呑んだ。
置いていかれる感覚は、身に覚えがあったからだ。
「生き物は皆、輪廻の
「……」
「…ですが、彼らの死と接するたびに、色々な感情が襲ってきました。寂しさに耐えられなくなって、最後にぶんを見送って…私は小樽を去りました…私の話は、これで仕舞いですわ」
音羽はいつものように笑っていた。
本当に、人間ではないのだと忘れそうになってしまう。
弥生は、えも言われぬ心持ちだった。
「今でも時々、自分が分からなくなるんです。死は悲しいものではないと分かっているのに、寂しいと思うなんて」
「…変じゃないと思います」
蓋が閉じられた2つの白い棺が。
血だらけの母の腕が。
レンズの割れた父の眼鏡を握った手触りが。
脳裏に、鮮やかに、蘇る。
「だって…死を迎えた人達とは、2度と会えないんですから。悲しいって思う事は、ちっとも変じゃないです」
弥生は、音羽の顔を見られなかった。
そちらを見たら、絶対に涙を止められない。
「…そうですね」
弥生のすぐ隣で、空気が微かに震える。
見ると、音羽は通常の猫の姿になっていた。
どうしたのかと聞く間もなく、音羽は弥生の膝の上に飛び乗ってきた。
「音羽さん、もしかして甘えたい気分になったんですか?」
「…弥生こそ、こんな可愛い猫がいるのに、何もしないのですか?」
「それ、構ってほしいって言ってるのと、同じじゃないですか」
「……」
「ツンデレなんですね、音羽さん」
望み通り、頭や背中をゆっくりと撫でていくと、音羽は
艶やかな毛並みは、博臣から大切にされている証だ。
「博臣様がいつか今世を離れても、私は忘れません。私の魂に、記憶させていきますから」
「…そうですね」
「それしかできませんし…きっと、それでいいのですね」
ブースの外はもう薄暗い。
パティスリーシノノメも、閉店時間のはずだ。
「そろそろ行きましょうか。だいぶ道草を食ってしまいましたね」
「そうですね。博臣さん、きっとクタクタになってますよ」
すると、弥生のスマートフォンが鳴る。
その博臣だ。
「はい、もしもし」
「…音羽、そこにいるか?」
低く不機嫌そうな声に、一気に緊張が走る。
音羽の帰りが遅いから、しびれを切らして電話してきたに違いない。
「どうしよう…博臣さん、激おこですよ!音羽さんに替われって」
「あら、それは大変ですね」
人間の姿に戻った音羽に、スマートフォンを手渡した。
「お疲れ様です、博臣様……申し訳ございません。弥生とのお喋りが楽しくって、つい……えぇ……」
ぼそぼそと声が漏れ聞こえてくる。
何かおしおきでもするつもりなのだろうか。
博臣に限ってそれはないだろうが、弥生は固唾を飲んで見守った。
「……ふふっ、だいぶお疲れのようですね。お土産の酒がありますから、機嫌を直して頂けますか?……はい、おかげ様でゆっくり休めました」
この流れは、どうやら大丈夫のようだ。
今度はあなたと話したいそうですよ、とスマートフォンを返された。
「…はい、弥生です」
「今日は付き合ってもらって悪かったな」
先ほどと変わって、博臣の声のトーンはいつも通りになっていた。
日本酒のお土産が効いたようだ。
「いえ!私も楽しかったですから。音羽さんとたくさん話せましたし、小樽の新しい発見もありました」
「…そうか。なら良かった」
穏やかに話す博臣を想像すると、何故かドキドキしてしまう。
「音羽さんの事、怒ってないんですか?」
「猫は気まぐれだからな。怒ったって仕方ないだろ」
昼間に予想した通りだったので、思わず笑いが漏れる。
「…何だよ、今の笑いは」
「いえ何でもないです!そろそろ解散しますね」
「あぁ。道草せず帰って来いと音羽に言っておいてくれ」
2人はブースを出て、すぐ近くのバス停に向かった。
音羽は徒歩で帰れるが、見送りますとついてきてくれた。
「…音羽さん」
「何ですか?」
「白状しますとね…博臣さんに、音羽さんの友達になってほしい、って頼まれました」
音羽のために何かしたい。
だから、博臣から告げられた思いは、伝えなければと思った。
「自分は仕事柄、多くの人間と接してきたけれど、友達と呼べる人間は少ないから、って」
あの方らしいですね、と音羽は嬉しそうにした。
「ケーキの作り方や、電子機器の使い方だけではなく、映画の楽しみ方や、日本の歌に込められた意味…博臣様は、本当にたくさんの事を教えて下さいました」
「そうか…可能性って、人間として生きていける可能性って事だったんですね」
電話で言われた時はピンと来なかったが、今の話で腑に落ちた。
100年後の世界に、博臣はいない。
そこで音羽が、孤独を抱えて生きていたとしたら。
それは、虚無の穴に落ちていくようなものだ。
徐々に感情が消え失せ、ただ生存するだけの日々。
かつて娼婦だった音羽が、そうだったように。
もう、そのような思いをしてほしくない。
だから弥生を友達にして、より人間を理解できるように、と博臣は考えたのかもしれない。
―そこまで想い合える関係、ちょっと羨ましいな。
また涙が出そうになるのを、持ち歩いていた水稲のお茶を飲んで誤魔化す。
氷で薄まっているが、お茶の風味はまだ残っていた。
「…今思いついたんですけど、音羽さんって観光ガイドとか、学芸員とかになれるんじゃないですか?」
「ガイド…ですか?」
怪訝そうな音羽に続けた。
「だって、資料だけじゃイメージしにくいものを知っているじゃないですか。磯の匂いがきつい運河とか、実物のぶんがもっとがっちりしていたとか」
きっと、小樽の唯一無二の町並みを守りたい、という思いは、連綿と受け継がれていく。
フランスのモンサンミッシェルや、イタリアのフィレンツェのように100年後には街が遺跡のようになるかもしれない。
そうなれば、歴史への造詣が深いガイドの需要は、ますます高まるだろう。
「なるほど…そのような生き方は、考えた事もありませんでした」
「しかも着物ですよ?間違いなく人気者になれますよ!」
我ながら、悪くないと思う。
まんざらでもなさそうに笑う音羽の肩越しに、近づいてくるバスが見えた。
「…ありがとう。弥生」
そうして、二人は別れた。
手を振って、またね、と言いながら。
100年前の建物が大切に保存され、そこに息づいた数々の記憶は、時を超えていく。
小樽は、そういう街だ。
博臣の思いと記憶。
それを継承する音羽は、遠い未来で、きっとまた誰かと巡り会えるだろう。
オレンジの街灯が照らす車窓を眺めながら、弥生はそのように思った。
めぐる季節は呪詛の味~パティスリーシノノメの事件録 望月ひなた @moonlight_walk
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