眼鏡とイヤフォン


 パティスリーシノノメは、元々廃屋になっていた民家だった。


 この前、改装前の写真をオーナーである土門に見せてもらったが、長い廊下や、明り取りの窓がある部屋、重厚感のある書斎など、昭和の匂いが、写真越しに伝わってきた。


 平成生まれの弥生には正直ピンと来ないが、多少の無駄や不便は、寛容に受け入れる時代だったのかもしれない。


 弥生が今いる厨房は、手狭だった元の台所と、隣の和室の壁を壊して繋いだそうだ。

 今日は、そんな土門の仕事場で、オープン前の仕込みの様子を撮影させてもらっている。


 一番人気のいちごショートを作る過程を、短い動画にして、SNSにアップする目論見だ。

 機材は、弥生愛用のデジタル一眼レフ。卓上用の三脚をつけて、自撮り棒のようにしている。


 既にもう一台同じ工程を撮影しているので、今はテイク2。

 ちょうどいいところを切り貼りして、繋げていくのは弥生の得意分野である。


 今はスポンジ生地に生クリームを乗せていく、ナッペの工程だ。

 土門の目の前の回転台には、既にいちごと生クリームがサンドされた、4段重ねのスポンジケーキが乗せてある。


 ボウルの中で立てた生クリームを乗せ、回転台とパレットナイフを小刻みに動かしながら、外側の生クリームを少しずつ平らにしていく。

 時間にして50秒ほど。手早く仕上げつつも、粗が出ないよう気を付ける工程だそうだ。


 卵色の生地が、白く化粧されていく様子は、見ていて面白い。

 何より、職人技が光るところなので、わくわくする。


―…この人、ほんとにパティシエなんだな。


 などと感心している間に、なめらかな表面のホールケーキが出来上がった。


 精悍な職人の顔は、今はマスクで隠れている。

 仕事中にマスクをするかどうかは、オーナーの方針次第だそうで、土門は普段はしない派だ。

 

 映像や写真への顔出しは、様々な理由で頑なに拒否されていたが、やはりパティスリー、ケーキのできる過程は動画にしたい。

 そこで弥生は、撮影中だけ、顔が出ないようにマスクをしてもらえないかと提案した。

 土門は少し考えた末、オーナーたる者好き嫌いは言っていられないな、と了承してくれたので、この撮影が実現したのだ。


「ナッぺって、パティシエじゃないとできないんですか?」


 音声は入れないので、声は出しても問題ない。


「いや。音羽だって、練習してできるようになっていったからな」


 切り分け用の長いパレットナイフをバーナーで炙りながら、土門が答える。

 こうすると、断面が綺麗に切れるそうだ。


「コツとかあるんですか?」

「パレットナイフを沿わせる角度、それから回転台を上手く使う事」

「なるほど…」


 次は、銀紙の上でケーキフィルムを巻き、ショーケース用のトレイに並べていく。

 完成は近い。


「あと、手間取ると生クリームがぼそぼそしてくるから、できるだけ少ない回数で仕上げる事だな」

「あはは…ぶきっちょな私には難しいですね」

「そうか?」

「右手でパレットナイフ、左手で回転台って、全然違う動きじゃないですか」

「単に慣れだと思うけどな」


 会話しながらも、作業の手は止まらない。

 絞った生クリームといちご、ブルーベリー、ミントの葉を乗せて、8切れのいちごショートが完成したところで、カメラを止めた。

 これで動画の撮影は完了した。


「博臣様、少し緊張していたようですよ」


 土門がケーキをショーケースに入れに行った隙に、音羽が可笑しそうに耳打ちしてきた。


「そうなんですか?いつも通りに見えましたけど」

「弥生は手元しか見ていませんでしたからね。お顔がいつもより硬かったですわ」

「マスクしているのに分かるんですね」


 いつも彼を見ている音羽が言うのだから、きっとそうなのだろう。


 ドアが開くと同時に、音羽聞こえていたぞ、と不服そうな声が飛んでくる。

 もうマスクは外れていた。


「あら、耳がいいのですね」

「おしゃべりするなとは言わないが、手を動かしてくれ」

「はい、申し訳ございません店長」


 音羽は時々自分の主に対して、まるで姉のように振る舞う。

 もっとも、弟扱いされた本人は、呆れこそすれ、怒る様子もない。


「いいなぁ。私にも、音羽さんみたいなお姉さんがいたらいいのに」

「貸し出してやってもいいが、音羽は口うるさいから覚悟しておけよ。洗濯物の干し方も、細かくチェックされるからな」


 ギャルソンエプロンの端で眼鏡を拭きながら、ニヤッとする土門に、音羽は口をとがらせてみせた。

 これも二人の日常なのだろう。何だか微笑ましい。


 綺麗になったかレンズを透かして見る仕草に、弥生は何度か抱いた疑問を思い出した。


「そういえば、土門さんのその眼鏡って伊達ですよね?顔出しダメな事と何か関係あるんですか?」


 土門の伊達眼鏡は、フレームが太めの黒縁で、レンズは楕円に近い、オーバル型だ。

 ファッションなら似合いそうなものは他にもあるだろうに、何故同じものばかりつけるのだろうか。


「そことはあまり関係ないな。これは、余計なものを感知しないようにするものなんだ」


 土門は、次のケーキに使うバナナをカットしながら、そう答えた。


 一瞬、何を言いたいのか分からなかったが、陰陽師がもう一つの顔であるこの男の場合、答えは一つだ。


「じゃあ、それかけていたら、幽霊が見えなくなるって事ですか?」

「そういう事だ」


 あまりに真面目な顔で言われたので、中二病の中学生が考えた設定みたいだな、という感想は、とりあえず封殺する。


「こちらが見える人間だと気づかれたら、霊に寄って来られないか?」


 それはある。

 取り憑かれるというより、付きまとわれる状況に近い。

 怖いというよりは、体の奥に鉛を押し込まれたような疲労感が強い。


「だから、それをかけている間は何も見えない、という事にしたんだ」

「どういう仕組みなんですか?」

「仕組みも何もない。俺以外の人間にしたら、ただの伊達眼鏡だからな」


 土門が眼鏡を寄越してきたので、角度を変えたり、宙にかざしてみる。

 指を通して伝わるのは、プラスチックでできたフレームの、つるつるとした質感と軽さだ。


「…ほんとにただの伊達眼鏡だ」

「眼鏡にも、よく見る以外に用途があるものがあるだろ?」

「そうですね。サングラスとか、ブルーライトカットとか」

「それと似たようなものだな」

「なるほど…」


 言われてみたら確かに、土門が眼鏡を外していた時は、灰色人間に追いかけられた弥生を助けに来てくれた時や、呪詛と対峙した時…つまり、目に見えない世界のモノを相手にした時だ。


 眼鏡を返そうとしたが、次のデコレーション作業が始まっていたので、声をかけずに見守る。


 アーモンドクリームと焼いたタルト生地に、バナナと生クリームの絞り、チョコレートソースとスライスアーモンドを散らした、チョコバナナタルト。

 弥生も好きな一品である。見ているだけで、口の中が幸せだ。


 自分の霊感について色々と実験して出した結論だが、幽霊が見える仕組みは、ラジオと似ている。


 アンテナで電波を捉え、周波数を合わせて音が聞こえる。

 アンテナと、チューニングのつまみは、人体に置き換えたら脳だ。


「完全に見えなくなるんですか?幽霊」


 ケーキをショーケースに入れて戻ってきた土門に、眼鏡を返す。


「いや、例外はある」

「というと?」

「悪霊、魔物…言い方は様々だが、積極的にこちらに害をなそうとしてくる奴だ」

「できるだけ会いたくない系ですね」


 呪詛の発していた匂いを、弥生は感じ取れなかったところをみるに、土門のアンテナは、弥生より感度が鋭いようだ。


「でもそんな狙われているなら、逆に見えないと危険なのでは?」

「有事の時に疲れてしまっていたら、それこそ命とりだ。そういう奴は、眼鏡があってもなくても分かるから問題ない」

「私もおりますからね。仮に博臣様が感知できなくても、私は気が付けます」


 ロールケーキ用のスポンジを並べながら、音羽は笑った。

 とても頼もしい限りだ。


「勝手に感知しちゃうから、防ぐなんて思いつきませんでした。自分で思いついたんですか?」

「…まぁ、そんなところだな」

「すごい!やっぱりプロは発想が違いますね」


 素直にそう思ったから褒めたのだが、土門は微妙な表情だ。


「今から思うと、中二病みたいで少し恥ずかしいんだがな。長年の習慣だから、なかなか変えられない」


 許可をもらって店内の写真を撮りながら、やっぱり中二病と言わないで良かったと、弥生は胸を撫でおろしていた。


 2階のカフェスペースには、市街地を見渡せる長い窓がある。

 朝の陽光がふんだんに差し込んで爽やかだ。

 白飛びや逆行に気を付けながら、シャッターを押していく。


 どんな動画にしようかな。

 ポップな感じか、都会的でおしゃれな感じにしようか。

 音楽でも雰囲気は変わる。

 色々な構想が浮かぶのも、また楽しい。


 一通り撮影を終えて、弥生はその場で動画と写真をチェックしていた。

 ある事に気づいて、何度も何度も、チェックした。


「え…?やだ、すごい!」


 長年の『ちょっとした悩み』が、映り込んでいないのだ。


 驚きと感動を伝えたくて、弥生は1階の厨房に駆け込んだ。


「おい、そんな勢いよく入ってくるな。危ないだろ」

「あ、すみません…写真と動画に、変なものが写ってないから、感動しているんです!」

「は?何の話だ?」

「だから、心霊写真にならないんです!私がシャッターを押しているのに!」


 訝しがる土門に、弥生はカメラの中に残っている、過去の写真を見せていった。

 音羽も背後から加わってくる。


 写真を撮る趣味と、幽霊が寄ってきやすい体質。

 2つの事象が合わさると、高確率で心霊写真が撮れる、という事態になる。


 風景でも、顔や影、手や足が写るのは当たり前。

 人間を被写体にしたら、顔にモヤがかかる、腕が消える、人と人の間に知らない顔がある、など、心霊特番も真っ青な精度なのだ。


「…これは凄いな。ここまで来ると、もはや才能じゃないか」

「まるでコバエ取りですわね」


 さすがの二人も苦笑いだ。

 褒められているのかは、微妙である。


「写らなくて当然だ。浮遊霊は店の中に入って来られないように、色々工夫してあるからな」

「そうなんですか!?結界ってやつ?」


 陰陽師らしそうな話にわくわくする弥生をよそに、土門はふと、自分の手元を見た。

 ビジネスマンがつけていそうな腕時計が、ちらりと見える。


「…悪い。詳しく解説してやりたいが、そろそろ仕事に戻らないと」

「あ、そうですよね…ごめんなさい」


 忘れるところだったが、今は一番忙しい仕込みの時間なのだ。

 これ以上いたら迷惑だろう。


「弥生も、仕事に行かなくていいのか?」

「え…?」


 弥生も腕時計を確認したら、8時半を回っていた。

 出勤時間は9時。ここからオフィスまでは、10分ほどかかる。

 背筋が一気に凍った。


「やばっ!そろそろ行きますね!」


 急いで機材を片づけ、挨拶もそこそこに店を出た。

 何か引っかかるものがあったが、まずはオフィスに行かなくては。

 弥生は、ポケットからワイヤレスイヤフォンを取り出し、装着した。

 だが、音楽を聴くためではない。


 朝日の注ぐ住宅街にも、幽霊はいる。


 道の端に蹲る老婆。

 呆然と佇む老人は、病院の寝間着姿だ。

 小樽は高齢化が進んでいるせいか、市内にいる幽霊も高齢者が多い。


 今通り過ぎた7階建てのウィークリーマンションには、上から落ちてきて、地面すれすれで姿を消し、また落ちるを繰り返している、男の幽霊がいる。

 報道はされていないが、数年前に自殺があった物件だ。

飛び降りの瞬間は何度見てもどきりとするので、ここは下を見て歩く。

 

 これが弥生の日常だ。

 生きている人間も、死者も、同様に捉えてしまう。


 悲しい、寂しい、つらい。

 誰かこっちを見て。誰か気づいて。


 あちらの感情に同調すると、見えていると気づかれて、寄って来る。

 私は何もできません、ごめんなさい、と心の中で連呼して、諦めてもらうしかない。

 そこには、一抹の罪悪感もある。


 だから、一人で歩いたり撮影をしたりする時、弥生は必ずイヤフォンをつける。


 イヤフォンをつけて、足早に歩く人間には声をかけづらい。

 それは死者も同じようで、あまり弥生に注意を向けてこなくなる。


 これをつけている間は大丈夫、という事にしておくのだ。

 彼の…博臣の眼鏡と、似ていなくもない。


 霊を見続けると、脳がやられ、次に神経がやられ、最後は内臓が壊れていく。

 だから能力者は短命か、不調を抱えながら生き永らえるしかない。

 前に、何かで読んだ一説だ。


 彼は今のところ体調は悪くなさそうだが、だからこそ、全く関係のない仕事もしているのかもしれない。

 もっとも、数ある職業の中で、なぜパティシエ、しかも独立起業の道を選んだのかは、未だに謎である。


 弥生は唐突に、先程の引っ掛かりの正体に気づいた。


「あ、『弥生』って呼ばれたからか…」


 既に本人からは、好きに呼んでいいと言われていたし、弥生も同じことを言っていたのだが、実際に下の名前で呼ばれたのは、先程が初めてだった。


 音羽に至っては、御手洗さんと呼んでいたのは半月ほどで、いつの間にか弥生と呼んできていた。


「まぁいいか。別に違和感はないし…」


 本音を言えば、ちょっとだけ嬉しい。


 公言する事でもないので黙っているが、弥生は眼鏡フェチだ。

 もっと言うなら、着脱の『脱』の仕草が好きだ。

 眼鏡にも色々な形があるから、他の眼鏡もしないのかな…などと妄想してしまう。

 気づかれたら憤死しそうだ。


 変な妄想を追い払いながら、弥生は雪解けの進んだ道を歩いた。

 ここ数日は、五月並みの気温だと予報が出ていた。

 道端の黒ずんだ雪山も、だいぶ小さくなるだろう。


―そういえば、博臣さんはきょうだいいるのかな。


 先ほどの音羽とのやり取りを思い出して、そのような疑問が湧いてきた。


 眼鏡みたいに、そのうち聞いてみよう。

 そう考えながら、弥生は土手の下の、堺町通商店街に繋がる、急な坂道を下りていった。




 

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