君に捧げる君のギター
手宮佐久人
君に捧げる君のギター
「いってきまーす」
バタンと家の玄関を閉めてランニングを始める。いつもは散歩コースとしている場所を少しだけ走って帰ろうと歩きなじみのある道へと進む。ただ、いつも通っている散歩コースを走るだけではかなり短いので、俺が通っている中学校の周辺まで遠回りして帰ることにした。
「ふぅ、そろそろ帰ろうかな」
いつもは自転車で通っている通学路を通って帰ろうとする。通学路には、野外ステージと、図書館が併設されている文化センターが近くにあり、そこで飲み物を買って帰ろうかと寄り道をする。
「ん?誰かいる」
文化センターに寄り道をしようと近くを通ると、野外ステージに一人の女性がギターらしきものを持って座っているのが見えた。
「おや、お客さんかな?」
野外ステージの前方にはかなりの面積量の芝生があり、そこまで近づくとやっと気づいたのか、そう言った。
「なにしてんの?」
「野外ライブ、かな。聴いてくかい?」
まあ、せっかくだしと俺が言うと、彼女はギターを構えなおして、ジャラーンと一度流して弾いたそのギターの音色に、俺は心を奪われてしまった。
「リクエストは?」
「えっ、あぁ、おまかせで」
りょーかい、と女性は言いコンコン、とギターの顔にあたる部分をたたいて拍をとり、弾き始めた。その瞬間、ギターに心を奪われてしまった僕はさらに心を奪われた。われを忘れて聴き入ってしまうほどに。
ジャカジャカと慣れた手つきでギターを弾く彼女は楽しそうにはしゃいでいるようで、それでいてとても静かに感じてしまう大人な雰囲気を漂わせていた。
ギターに心を奪われた俺は、さらに彼女にも心をひかれそうになっていた。
心を奪ったギターを弾く心をひかれそうになっている女性、これほどまでに最高な組み合わせはないのではなからろうか。
そんなことを考えれば考えるほどにどんどん胸が高鳴り、ギターと女性に心ひかれ、肝心のギターが聴こえなくなってしまう。いけないけないとギターを聴くことに集中すると、それはそれでギターの音色に心を奪われ、振り出しに戻る。
きっと今の俺は何を言われても動かないだろう。
「ご清聴ありがとうございました」
胸を高鳴らせギターを聴いていると、ギターの公演が終わってしまった。この時の俺は公演が終わったことにすら気づいていなかったが。
「じゃあ、私はこれで」
女性はギターを大きなバッグに仕舞い、帰り支度を始めた。
このままではまた彼女に会えなくなってしまうのではないだろうか、一回きりで彼女のギターを聴く機会がなくなってしまうのではないのだろうか。
「な、なあ!またギターを聴かせてよ」
考えるよりも体が先に動いていたとはこのことだろう。考えがついたころにはすでに言葉にしていた。俺の言葉を聞いた彼女は、フフッと笑った。
「次の日曜日、同じ時間にまたおいで」
そう言って女性は立ち去ってしまった。次の日曜日に約束をしてから。
日曜日、俺は約束の時間にあの場所へと行った。
「やぁ、来たかい少年よ。曲は何がいい?」
じゃあおまかせで。そう言うとギターを構え、彼女は前回のように弾き始めた。
おまかせでといった俺はまた前回と同じ曲ではないかと思っていたが、前回とは違う激しめの曲ではなく、しっとりとした、静かな曲を弾き始めた。その曲を弾く彼女も前回とは変わり、寂しそうな、はかない雰囲気を漂わせていた。
前とは正反対な彼女にも僕はひかれてしまった。もちろんギターにも。きっとこれは、心がひかれた人だからそう感じたのだろう。
俺も前回とは違って冷静で、それ以上考えることはなく、彼女の演奏に集中することができた。前に聴いたときはあまり聴けず、その分今回のを聴いてみると、音楽のおの字も知らない俺でも分かるぐらい上手で、きっとこういう人がプロになるのだろう、そう思えるほどだった。
その演奏をやっと聴き入り始めたところで、彼女は最後に弾いた弦を指で抑え、演奏を終了した。
「ご清聴ありがとうございました」
彼女のその一言を添えて。
「もう一曲してよ!」
「それはできない相談だね」
えぇ〜、とその返答を聞いて俺はガッカリしてしまった。あんなに素晴らしい演奏をまた一度しか聴くことができないなんて、という褒め言葉は口にはせずつい駄々をこねてしまう。
「じゃあ、少年こうしようじゃないか、私は毎週日曜日、この時間にここにいる。そして、君にその時一曲だけ演奏しよう、これでどうだい?」
駄々をこねてしまった子供な俺に毎週日曜日に一曲だけ演奏してくれるという約束を大人な彼女はしてくれた。
「ま、マジで!?よっしゃぁ!」
思わずそう喜んでしまい、少し恥ずかしさを覚える。
「じゃあ、また来週会おう、少年よ」
そう言って大きなギターが入ったバッグを彼女は肩にかけて、去っていってしまった。
それからというもの、俺は毎週日曜日に同じ時間、同じ場所へと彼女のギターを聴きに行った。
毎週聴きに行っていると、自然に彼女との仲が深まり、いつの間にかギターを教えてもらえるまでになっていた。しかも彼女が持っていたあの輝かしいギターを使わせてもらって。
出会ったばかりの頃にもギターを貸してほしいと言ったことはあったが、その時は見るだけと断られていたのに、今はそのギターを君にならいいよと貸してもらえる程の仲になったのだ。
そうするにつれて俺の心はさらにギターに奪われ、とりこになってしまった。それは彼女に対してもそうだった。最初のうちは憧れが強かったのだが、今では強い恋心を抱いている。
それに、彼女には感謝している。俺に音楽の道をひらいてくれたこと、俺に青春をさせてくれたことに。まだ出会ってから半年で、彼女の名前もまだ聞けていないのだが、いつかは下の名前で呼び合えるほどの仲になって、お付き合いをしたいと考えている。きっと俺には生涯でこの人しかいないのだから。
「…ちゃんと聞いてるかい?少年」
考え事をして彼女の話が全く耳に入っていなかった俺に聞いているかを確認すると同時に、思わず彼女の顔がほぼゼロ距離のところまで詰まる。
「うわぁ!び、びっくりしたぁ…」
「それはすまない、でもちゃんと話は聞いてくれないと困るよ少年」
いきなりのことで顔を真っ赤に赤らめた俺を気にもせず、注意をしてまた教えてくれ始めた。
俺も今度は真剣に彼女の話を聞く。
きっと、彼女には俺のように特別な気持ちは抱いていないのだろう。最初は観客と奏者から始まったこの関係だ。そうであってもまるでおかしなことではない。それでも、俺はいつかこの人とお付き合いできるために頑張ろう、そう自然と思えた。そう思えるのにもちゃんと根拠があり、この半年間デニムわかったことなのだが、彼女は他人に自分の私物を貸すことを嫌う性格で、そんな彼女が現に他人の俺へ自分の大切なギターを貸してくれている。
その点に至っては彼女にとって俺は心を許せる存在へなっているに違いない。だからこそ頑張ろうと思えたのだ。
彼女と出会ってから一年後。俺は中学三年生、立派な受験生になっていた。受験勉強が忙しくなって彼女と会えなくなってしまうと思っていたけれど、日曜日のこの時間だけは絶対に約束した場所で出会うことにした。
それに、覚えてから実践できるようになるまでがかなり早かったようで、彼女のようにとまではいかないが、一曲演奏できるほどには上達してきて、ギターをするのがますます楽しくなってきた。そのこともあって会わないという選択を取ることは絶対にしたくなかった。
「だいぶ上達したんじゃないかな、少年」
「へへッ、才能があったのかもな!」
調子に乗ったように言った俺に対して、彼女はははっ、そうかもしれないね、と答えた。
やはり彼女は大人だ。歳は二つしか変わらないというのに。
「なぁ、俺は二人でギター弾きたいんだけどさ、ダメかな?」
ギターを教えてもらい始めてからずっとやりたかったことを俺はここで提案してみた。俺もギターがそこそこ上達してきて、彼女と演奏できるぐらいにはなっているはずだ。それに、ギターを買ってほしいと親に言えばきっと買ってくれるだろう。
こちらとしては二人でギターをする準備は整っているのだ。
「そうだねぇ、じゃあ、君が私と同じ高校に入れたら一緒にやってあげよう。」
無理だと思うがね、と見下すようにして彼女はいった。
一年で仲が深まって、いろいろと知ることができたが、彼女が通っている高校までは知らなかった。そこで、俺は聞いてみることにした。
「どこの高校行ってんの?」
「桜ノ橋高校」
桜ノ橋高校。そこはここら辺で一番頭がいいと言っても過言ではないほどの難関校で、同級生でもこの高校を目指す人は40人中3人といったところで、受験する人はここでギターを弾いている場合じゃない。そんなに頭のいい高校へ通っていたことに驚きを隠せなかった。
「えっ、そんな頭のいいとこ行ってんの?」
「あぁ、そうだよ?だから無理だろうね」
彼女の顔は今まで見た事のないいやらしい笑顔をしていた。
俺は彼女とギターをしたい。そのためには難関校である桜ノ橋高校に合格しなければならない。
だが、俺にとっては難関校なんて関係なかった。彼女とギターができるという最高のご褒美が待っている、そう思うだけで不思議とできる気がしてきた。
「そろそろ時間だね、今日は解散としよう」
彼女はいつものように帰り支度を始めた。彼女が行ってしまう前にここで彼女に決意を示さなければ、きっと現実にはできないのだろう、そう直感的に俺は感じた。
彼女は背を向けてしまった。早く言わなければ。
「俺、絶対合格するからさ、そこで待っててくれよ!」
そう思った頃には前と同じように俺は考えるようにも先に動いていた。
「そうかいそうかい、私は
彼女は今まで教えてくれなかった名前を教えてくれた。
「お、俺は
俺も同じように名前を言う。
「それじゃあ、せいぜい頑張りたまえ鳴海くん」
去り際に粟根が自分の名前を初めて言ってくれたことに思わずドキッとしてしまう。一年もたっているのに、今まで名前を教えてもくれなかったのにやっと教えてくれて、さらには自分の名前を呼んでくれた。こんなに嬉しいことはあっただろうか。
きっと粟根と二人でギターができた時にはこれ以上の嬉しさがあるのだろう。一生に一度のチャンスを逃すわけにはいかない。
今の俺には高校入学よりも、粟根とギターを演奏することが目標になっていた。
それからの日々はまるで地獄だった。あれまでは学校から帰ったら勉強なんてそっちのけでギターのことばかり調べていたのに、あの日からは学校に帰ったら寝るまで勉強。塾には行っていないからなんの気分転換もできないし、全身が悲鳴をあげていた。最初の一週間は親も応援してくれていて、粟根と会えることが楽しみで頑張れたが、あと少しで受験だという期間まで来ると、親と目を合わせる度に高校へ行けるのかという心配をされて申し訳ない気持ちになってしまう。もともと志望していた高校ならば難なく行ける学力は定着しているのだろうが、今更志望校を変えて諦める訳にはいかない。絶対に桜ノ橋高校へ入学し、粟根とギターをする。この夢だけは譲れない。とりあえずは明日粟根に会えるから、それを目標に頑張ろう。それにあと一カ月もすれば受験で、もう少しの辛抱なのだ。もうとっくに限界はきているが、やるしかない。やるしか…ないん…だ…。
疲れがたまりすぎていた俺は、息絶えたように机の上で突っ伏して寝てしまったようで、起きた時にはすでに日が昇っていた。さすがにこの状態で粟根と会う時間まで勉強をすると今度こそ息絶えてしまう。だから時間まで休もうと今度は布団に転び、時間まで寝ることにした。
「君には失望したよ鳴海くん」
「え、ど、どういうことだよ?」
気がつくと、俺はいつもの場所で粟根と会っていたのだが、なぜか粟根があきれた目でこちらを見ていた。今まで自分が何をしていたのかを思い出せない。思い出そうとゆっくり記憶をさかのぼってみると、昨日合格発表があり、自分が桜ノ橋高校に落ちてしまったという記憶があった。
あんなに地獄のような日々を過ごしてまで勉強をしたのに、最難関の壁を突破することはできなかった。しょせんそこまでだったということだろう。
「じゃあね、鳴海くんとはもう会わないから」
粟根がいつものように背中を向けて去っていってしまった。
「ま、待って!粟根ッ!」
ガバッと布団の上で跳ね起きた。ダラダラと冷や汗をかいて、はぁはぁと息を切らしている。
良かった、夢だった、とあんどの声を漏らしつつスマホの電源をつけて時間を見ると、約束の時間まであと三十分だった。
「やっべッ!準備しないと!」
急いで身支度をし、粟根と会うために家を飛び出した。
あの夢のようになってしまわないようにちゃんとこれからも勉強を頑張ろうと思った。
数カ月後、凍てついた空気の中大勢の人が厚着をして、桜ノ橋高校の合否を確認しに掲示板へ群がっていた。俺もその群れの中へ合否を確認するためにかき分けて入っていく。
「やったァ!私のあるよ!良かったぁ...」「またダメだったかぁ...」「ねぇねぇ、写真撮ろうよ!二人で!」
合格した人の歓喜の声や、落ちてしまって絶望したような声でとぼとぼと帰る人までさまざまな群れだった。自分も今からあのどちらかになると思うと結果を見るのがただ恐怖だった。
「えぇっと0389、0389っと…」
自分の番号は0389番で、その辺りを上から順に確認していく。だが、0385の辺りに来たところで下を見るのを少しためらってしまった。
ここで自分の番号がなければ、粟根とギターができなくなってしまう。きっとあの日見た夢と同じように粟根からあきれられてしまうのだろう。それが嫌だという気持ちが今までで一番大きくなった。だが、ここで自分の番号があれば晴れて最難関の桜ノ橋高校に入学でき、粟根と二人でギターができる。それはきっとこの人生で一番と言っても過言ではない喜びがあるに違いない。それならば早くみてしまおうという自分と、このままみずに現実から逃げてしまおうという二人の俺がいた。
そんな長いようで短い葛藤があったのち、腹を括って一気に目線を下に送った。その先には、
0385
0386
0387
0389
と掲示板に書いてあった。
「良かっ、たぁ…」
無事に合格できた喜びや感動よりも安心が勝り、その場で腰が抜けて座り込んでしまった。
あの桜ノ橋高校へ入学することが決まった。その喜びよりも粟根とギターが弾ける、という嬉しさが自分の中で勝っていた。それは今に限ったことではなく、受験生の頃からずっとそうだった。だが、その時は夢を語っていただけだったが、それがなんと、たった今現実になった。
その喜び、安心、嬉しいが混ざりに混ざったよく分からないものをかみしめていると、ポケットに入れていたスマホにピコンッと通知が一件入った。誰からかと見てみると、粟根からだった。
粟根とは名前を教えあってからだが、連絡先を交換していた。二人の間で何かあった時用にとの事で。だが、そんなことは起こりもせず、特に使うことがなかった。だが、きっと合否の結果が気になりすぎて連絡してきたのだろう。本当は明日まで待っていてほしいところだが、仕方ないからと連絡先を開く。
「…は?ど、どういうことだよ」
俺はそこに書いてある内容を見て思わず顔を青くし、声を震わせて言った。その内容は、
『こんにちは、鳴海さん。夏音の父です。娘のスマホを借りて連絡しています。娘からは聞いていないかもしれませんが、今朝娘の病気が悪化してしまいました。場所を教えますので、娘に会いに来てください。』
と、書いてあり、その下には入院している病院の場所が記されたURLが貼ってあった。
粟根の病気が悪化して入院することになった?あんなに元気だった粟根が?どういうことだ?なにかのサプライズか?疑いたくはないが、思わず疑ってしまう。
と、とりあえず行かないと、と重い足を無理やり上げて言われた病院へと向かう。
入院しているという病院はここら辺で一番大きな総合病院を示していた。
総合病院に入院しなければならないほどの病気を患っていたのだとすると、なぜ今まで俺に隠していたのだろうか。言ってくれればいいものを。
きっとそこまでは信用できなかったのだろう。
そう思うと心が締め付けられて痛くなる。
考えたくはないが、もしこのまま良くなることがなく、粟根が…そう考えるだけで胸が張り裂けそうになって、呼吸ができなくなってしまいそうだった。
普段は来ることのない総合病院に着いた頃にはもう何もかも考えることをやめていたのだろう。
俺の中でそれほどまでに粟根のことがショックだったのだ。
外部からの情報はほとんどなくなっていた。ある人物と出会うまでは。
「君が、鳴海くんだね?」
粟根夏音と名前が書かれたプレートを壁に貼ってある病室へと入ると、そこには呼吸器をつけて意識不明な状態の粟根と粟根の父親が二人きりでいた。その病室へ入るやいなや粟根の父親は俺に向かってそう聞いてきた。
「はい、鳴海です、粟根さんはどういう状態なんですか」
恐る恐る聞くと、その人は暗い顔をして口を開いた。
「娘は、夏音は小さい頃から病気があってね、それが最近は安定していたんだが、今朝になってそれが急に悪化してしまったんだ。それで、今はこのような状態で何とか保っているんだが...」
もしかしたら今日が山かもしれないと医者にも言われた、と今にも泣き出しそうな声で俺に説明してくれた。
「で、でも!これから良くなっていくかもしれませんよ!そうしたら…」
「やめてくれ、鳴海くん。もうそんな希望はどこにもないんだよ、医者にはここで見届けてやってくれと、そういわれたんだ」
「そんな…」
もう人生の何もかもを失ってしまい、絶望の崖っぷちにいるような父親は、粟根の方へと向いて、椅子に座った。
もう粟根が助からない?どうして、どうしてなんだ?
もしかしたら自分の行いが悪かったせい?
自分があの時、あの場所へ立ち寄らなければこんなことにはなっていなかったのでは?
そういった自分を責める言葉しか頭には浮かんでこなかった。いっその事、粟根と一緒に旅立ってしまおうかとも考えてしまったが、粟根はきっとそんなことを望んではいないと立ち止まった。
とにかくとんでもない絶望感に襲われた。
嫌だった。
認めたくなかった。
粟根が今日でいなくなってしまうという事実を。
それを事実だと思いたくなかった。
またこれがあの時と同じよに夢ならいいのにと思った。
でもダメだった。許されることではなかった。現に意識がない粟根がこの場にいて、生きる気力を失った人が自分を含め二人いる。それがこのことを現実だと証明するには十分すぎる証拠だった。
「お父さん、俺は、俺はどうしたらいいんですか…?」
もうそれを言葉と言っていいのかすら分からないほどかすれた声で聞いた。
「君も、娘と一緒にいてやってくれ、娘が心を許せたたった一人の人間なんだ」
心を許せたたった一人の人間、その言葉を聞いて、俺は泣き出してしまった。
小さな小さな子供のように、わんわんと。それからどれだけ泣いたかは分からない。気がついたら涙が枯れていて、粟根の病室は大変なことになっていた。
ピー、ピー、と部屋中に鳴り響くベッドサイトモニターがゆっくりと機械音を出していて、画面を見ると波形がとても生きている人間とは思えなかった。
ベッド横にはお父さんとさっきまで居なかったお母さんが一緒に粟根の手を握っていて、一生懸命声をかけていた。
「夏音!夏音!俺たちがわかるか?大丈夫だからな、お父さんとお母さんがついてるからな!」
そう何度も何度も粟根の手を強く握りしめ、涙を流しながら同じ言葉をかけ続けていた。
俺もそれに続いて真似をした。
「粟根!俺だよ、鳴海だよ!ほら、起きろよ!またギターしようよ!ほら、俺合格したんだよ!だからさ、だから…死ぬんじゃねぇよ…」
枯れたはずの涙が、さらに目からこぼれ、もう言葉が出なくなってしまった。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
そんな言葉で全身が満ちていく。粟根の今を全否定する言葉が頭の中でずっと回り続ける。
せっかく合格して、やっと粟根とギターができると何も知らずにいたあの自分に言ってやりたい。そんな希望は持つなと。
けれども、それが出来ないのが現実で、無力な自分が心の底から嫌いになった。
このまま何もできずにただ粟根が旅立ってしまうのを見るだけの自分が嫌いになった。
でも、そんなことはもうどうでもいい。今は粟根と一緒にいなければ。
粟根が生きているうちにこれだけは伝えたい。
粟根夏音さん、僕は、佐東鳴海は、あなたのことがずっと、ずっと好きでした。
ピーーーーー
ベッドサイドモニターが長い長い機械音をたてて、画面に波はなくなった。
今日、この日をもって粟根夏音という一人の人生が、幕を閉じたのだった。
粟根がこの世を旅立ってから一カ月、俺は葬式に呼ばれたり、いろいろと忙しい日々を送っていた。ありがくたいことに。葬儀や火葬、さまざまなことに特別に呼ばれて、その中で粟根のご両親とも仲良くなった。
「ありがとう鳴海くん、きっと娘も楽しかったと思うよ実際、君に合うようになってから娘はいつも楽しそうだったんだ」
「そう、だったんですね…」
俺も最近は生きる意味を失ってしまい、こんな感じで話していても場を暗くするだけだった。
「あ、そうだ、良ければ今からうちに来てくれないか。渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの?わかりました」
俺に渡したいものとはなんだろうか。もしかしたらなにか粟根から預かっていたのかもしれない。そういうことなら是非とも受け取りたい。
俺はお父さんの車に乗せてもらい、粟根家へと向かった。
到着した場所は俺が通っていた小学校の近くに建てられたアパートで、俺の家からもそこまで距離はなかった。
「どうぞ、せまい場所なんだがね」
「お邪魔します」
アパートの一部屋へと案内され、俺はリビングにある食卓を囲うようにして置かれた椅子に腰を落とした。
「少し、待っていてくれるかな持ってくるよ」
そう言ってお父さんは他の部屋に消えていってしまった。
それから少し待っていると、お父さんが黒い見慣れたバッグを持って戻ってきた。
「鳴海くんはよく娘にギターを教えてもらっていたそうだね、それで私が亡くなった時には合格祝いにこのギターを彼にと言われたんだ」
お父さんは悲しげな顔をしてそう言った。それは、粟根が俺にくれた最初で最後のプレゼントだった。
両手でしっかりと受け取り、そのギターを胸で抱きしめた。
粟根がくれた物、人に私物を貸すことを嫌っていた粟根がくれた、粟根の大切なギター。そう考えただけで、俺は胸が苦しくなって、涙を流してしまった。
「お父…さん…俺…俺…このギター…一生だいじにします…!」
うまく口が回っておらず、ちゃんと言えていたかは分からないが、お父さんもありがとう…ありがとう…と泣きながら言ってくれた。
俺は粟根のことは忘れずに、これからも粟根のギターと一緒に、粟根と一緒にギターをしようと心に決めた。
もう一生、粟根を苦しめないように。
それから数十年後、俺は高校を卒業し、大学も出て、今では立派な社会人兼ギタリストになっていた。
今に至るまでのあいだで、一日たりとも粟根のことを忘れた日なんてなかった。忘れたいとも思わなかった。きっとそれが粟根にとって一番の救いになるのだろうから。
それに、粟根の存在は俺自身の希望でもあったから。
「なあ、粟根、今日はおまえからもらったギターを持ってきたんだよ。リクエストはある?なにか弾くよ」
俺は今、粟根からもらったギターを持って、『粟根家之墓』と書かれた墓の前でギターを構えていた。
高校に入ってからもギターと勉強を何とか両立し、必死に練習をした。時には指が痛くなってギターが弾けなくなったり、やめたくなったりしたけど、いつか粟根の前で演奏するんだという強い心でギターを続けてきた。そして、今やっとその練習の成果を粟根に見せる時だった。
俺は一度ジャラーンと流して弾いて、何をしようか考える。その時真っ先に浮かんだのは最初に出会った時にやってくれたあの曲だった。
辺りに誰もいないことをキョロキョロと確認する。
「よし、んじゃあお聴きください」
ギターをコンコン、とたたいて弾き始めた。
ジャカジャカとその曲を弾く度に、粟根のことを思い出す。粟根の楽しそうで、それでいてとても静かで大人な雰囲気を漂わせていた姿を。
一弦、また一弦と弾く度に思い出す。
あの粟根と過ごした一年間を。俺は涙が止まらなくなる。それでも最後まで弾くことをやめなかった。
「ご清聴、ありがとうございました...」
そう一言を添えて、俺はギターを弾くてをピタリと止めた。
成長したじゃないか、鳴海くん。
一瞬フゥ、と風が吹き、それに流されていくように粟根が俺の事を褒めてくれたような気がした。
ありがとう粟根。俺のたった一人のだいじな人。
そう心の中でつぶやいて、ギターをバッグの仲に戻した。
「それじゃあ、また会おうぜ、粟根」
そう言って俺はお墓を後にした。
きっと粟根は俺の事を見ていてくれるのだろう。だから、これからもギターを頑張ろうと思えた。
これからも俺のたった一人の大切な人にこの音色が届くことを願って、ギターを弾き続けようと、ずっと思い続けることができた。
君に捧げるためのギターを。
君に捧げる君のギター 手宮佐久人 @temiya
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