幻と現の眼

 或る日の閉店後の事だった。女給は仕事を終えて仕事着から私服に戻り、帰ろうとした際に支配人に呼び止められた。

「トミさんが嫁入りするらしくてね。店を辞めるんだと」

「まぁ、そうですか」

「同僚なのに聞いていないのか。何度目だろうね、このやり取りは」

 あまり話しませんから、と女給は淡々と答えた。それから、つまり新しい方が来るまで忙しくなるという事ですね、と彼女は言った。

「君はそういう話は無いのかい」

「あったらお仕事はしていません」

 支配人は困った様に笑った。女給は次の言葉をただ待っていたが、待っていても何も無さそうだったので、付け加えた。

「もしも私にそういう事があったら、その日はきっと雨が降るでしょうね。ただの雨じゃありません……御天気雨でしょうか」

 支配人は、今度は面白そうな顔をした。

「自分の事を狐か何かと思っているのかい」

「目で見たものが現実であるとは限りませんから……それは、自分自身の事でさえ」

 女給は冷えて曇ってしまった何も見えない窓の外を眺めていた。

「そうか、でも、僕の目にはしっかり君は君として見えているよ、霧羽さん」


 霧の何処から何処までを見えるとするのでしょう。

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霧羽さんに聞いてもらう 麻比奈こごめ @Spiraea

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