客は、混ざる

 そのカフェーの常連で、専ら違う女給と毎回言葉を交わしていた男が、或る日呼んできた。

「僕は君に感動したんだ」

 珈琲を運んで来ると、先ず最初にそんな事を彼は言ったので、女給はほんの僅かに目を丸くして、何の事だかわからないけれど、どうも有難う、と伝えた。

「まぁ、とにかく、聞いて欲しい。君が他の客の持つ曇った世界の見方を語るのを聞くのと同じ様に」

「あなたも曇った視界を持ってらっしゃるのね」

 男は珈琲の上に乗った泡立てミルクをゆっくりとかき混ぜた。

「男というのはあまり感情的なものを好かない文化なんだ」

「そうでしょうね」

 君が一定の支持を得ている理由もそれだろう、と彼は珈琲を飲んで言った。女給もそれには概ね納得していた。自分がどの程度人気を得ているのかは大した実感も無く仕事をしているが、我ながら需要は何処かにあるだろうとは考えていた。彼女自身、あまり感情的なものは肌に合わない女だった。

「ただ、男も人間であるから、そんな男にだって感情はあって然るべきだろう。少なくとも、僕はそう思っている。僕は自分の感情を事ある毎実感しないわけにはいかない。特に幼少の頃はそうだった」

「それは豊かな精神ですこと」

 彼は窓の外に目を向けた。

「幼い頃はよく泣いたものだった。父や母や兄達は、その度、男であるなら泣くもんじゃ無い、と僕を叱りました。男たるもの理路整然と生きよ、と。感情などという不確実で不安定なものを持って許されるのは女だけなのだと」

「難しい仕事に就くのは専ら殿方ですからね。そうしていて成り立つものでは無いという事なのでしょう」

 女給の放った言葉に、男は目を丸くした。そうか、そういう事だったのか、と。

「それが僕にはわからなかった。単に理不尽に男だけが押さえ付けられて居るのかと。僕はそういう事を教わったので、何とか冷静を保って理路整然と思考するように努力してきた。でも、こういう所なんだろうね。こんな理由が隠れている事すら、自分ではわからないんだ」

 男は疲れた様に身体を背凭れに預けた。女給は角砂糖を勧めた。珈琲に入れても良いですが、齧っても構いませんよ、と。

「君がそんな事を言うとは思わなかった。行儀の良さそうな人だから」

「求められる通り生きるのに疲れたなら、破っておしまいになれば良いのです。御行儀悪く振舞えばよろしいでしょう。見た所、あなたにはその素質がお有りかと」

 男は、ゆっくりした手つきで、角砂糖をひとつ取って、それを少し齧った。次に、どうしてそう思ったのかい、と彼は言った。

「あなたに見えているものは曇った視界なんかじゃありませんもの。はっきりとしたものが見えているのに、他人の視界と混ぜてしまうから、訳がわからなくなるのです。豊かな感情が理屈より勝るなら、下手な理屈を捏ねるより、感じたものに従う方が正しいでしょう」

 男は笑った。

「それじゃ、僕は君の嫌いな部類の人間になるしか無い訳だね。君は理性的な人だから。客に対する君の言葉に、僕は僕には持てない様な真の理性を見て、それで感動したんだ」

 男は齧った残りの角砂糖を口に放り込んで、珈琲を飲み干した。それから、最後にひとつだけ言わせてくれ、と彼は言った。

「君には僕の理性が貼り付けたものに見えるのかもしれない。僕に言わせれば、君のその笑顔も貼り付けたものだというのがよくわかる」

 女給はより一層微笑んでみせた。


 注文:

 エスプレッソ・マキアート 一杯

 角砂糖 一粒

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