ターミナル駅と猫

ツル・ヒゲ雄

ターミナル駅と猫

 私は西から、彼女は東からターミナル駅にやって来た。

 多くの人が行き交う、改札内の商業施設。天に昇るような長いエスカレーターで二階にあがり、すぐ目の前のバーに入った。バーは程よい明るさで、黄色みを帯びた照明が柔らかかった。

 予約していたカウンター席のすみに、彼女と並んで座った。彼女と会うのは、実に数ヶ月ぶりのことだった。


「髪を切ろうと思うの」彼女は髪をかきあげ、潤いを欠きつつある毛先を揺らした。

「髪を?」

「うん。ばっさりと」

「いいと思うよ」私は曖昧に頷いた。「夏だしね」

 私の顔を覗き込む彼女の視線が宙を泳ぎ、それから静かに言った。「猫だ」

「猫?」

 彼女の視線の先を追って、私は振り返った。バーの壁際、十分な灯りが届かない暗がりに、一匹の三毛猫が佇んでいた。

「たしかに猫だ」

 遠目で見ると、その猫は混ざりかけのミルクティーのようだった。猫は背筋を伸ばし、礼儀正しく座っていた。

「改札をくぐって来たのかしら?」彼女は小首をかしげた。

「そうかもね」私はビールを一口飲んでから言った。「あるいは裏口から来たのかも」

「裏口?」

「商業施設のスタッフ用の通用口があるでしょ? たぶん」

 彼女は理解を示すように頷いてから、あらためて言った。「どこから来たんだろう」

 よく見ると、猫は濡れそぼっていた。雫が滴るほど水気を帯びた身体が、薄暗い照明で鈍く光っている。猫は身震い一つせず、耐え忍ぶ地蔵のように正面の一点を見つめていた。

「あの猫、身体が濡れてる」私はつぶやいた。「雨が降ってきたのかな」

「ひょっとして、水をかけられたのかも」彼女は顎に手をあてて言った。

「水を?」

「この泥棒猫! って」彼女はバケツで水をかける身振りをした。「お店の魚かなんかを、くわえちゃって」

 私は笑った。彼女は真剣な眼差しだった。

 周囲の会話に耳をそばだて、人々の視線の先をうかがった。猫に気がついた人は、どうやら私たちの他にはいないようだった。

 彼女は薄くため息をついた。目の端と、唇の脇に刻まれた皺が、にじんだように濃く見えた。

「連れて帰りたい」


 私たちは二時間くらいをバーで過ごした。いつの間にか猫はいなくなっていた。猫がいつバーを立ち去ったのか、私にはわからなかった。猫がいることに気がついた人は、やはり私たちだけのようだった。

 別れるときに彼女は言った。「連れて帰りたかったのよ、あの猫。ほんとうに」

 私と彼女は別々のプラットフォームに降りた。駅に来たときとは反対に、私は東に、彼女は西に向かう電車に乗り込み、それぞれの帰路についた。

 両手でつり革を掴み、電車に揺られた。身体に伝わる振動は心地よく、さざ波に身をゆだねるような気分になった。

 目の前の窓から、ぼんやりと街を眺めた。街は濃い夜に包まれ、高層ビルや、自動車や、ネオンが煌めいていた。雨は降っていなかった。

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