ターミナル駅と猫
ツル・ヒゲ雄
ターミナル駅と猫
私は西から、彼女は東からターミナル駅にやって来た。
多くの人が行き交う、改札内の商業施設。天に昇るような長いエスカレーターで二階にあがり、すぐ目の前のバーに入った。バーは程よい明るさで、黄色みを帯びた照明が柔らかかった。
予約していたカウンター席の
「髪を切ろうと思うの」彼女は髪をかきあげ、潤いを欠きつつある毛先を揺らした。
「髪を?」
「うん。ばっさりと」
「いいと思うよ」私は曖昧に頷いた。「夏だしね」
私の顔を覗き込む彼女の視線が宙を泳ぎ、それから静かに言った。「猫だ」
「猫?」
彼女の視線の先を追って、私は振り返った。バーの壁際、十分な灯りが届かない暗がりに、一匹の三毛猫が佇んでいた。
「たしかに猫だ」
遠目で見ると、その猫は混ざりかけのミルクティーのようだった。猫は背筋を伸ばし、礼儀正しく座っていた。
「改札をくぐって来たのかしら?」彼女は小首をかしげた。
「そうかもね」私はビールを一口飲んでから言った。「あるいは裏口から来たのかも」
「裏口?」
「商業施設のスタッフ用の通用口があるでしょ? たぶん」
彼女は理解を示すように頷いてから、あらためて言った。「どこから来たんだろう」
よく見ると、猫は濡れそぼっていた。雫が滴るほど水気を帯びた身体が、薄暗い照明で鈍く光っている。猫は身震い一つせず、耐え忍ぶ地蔵のように正面の一点を見つめていた。
「あの猫、身体が濡れてる」私はつぶやいた。「雨が降ってきたのかな」
「ひょっとして、水をかけられたのかも」彼女は顎に手をあてて言った。
「水を?」
「この泥棒猫! って」彼女はバケツで水をかける身振りをした。「お店の魚かなんかを、くわえちゃって」
私は笑った。彼女は真剣な眼差しだった。
周囲の会話に耳をそばだて、人々の視線の先をうかがった。猫に気がついた人は、どうやら私たちの他にはいないようだった。
彼女は薄くため息をついた。目の端と、唇の脇に刻まれた皺が、
「連れて帰りたい」
私たちは二時間くらいをバーで過ごした。いつの間にか猫はいなくなっていた。猫がいつバーを立ち去ったのか、私にはわからなかった。猫がいることに気がついた人は、やはり私たちだけのようだった。
別れるときに彼女は言った。「連れて帰りたかったのよ、あの猫。ほんとうに」
私と彼女は別々のプラットフォームに降りた。駅に来たときとは反対に、私は東に、彼女は西に向かう電車に乗り込み、それぞれの帰路についた。
両手でつり革を掴み、電車に揺られた。身体に伝わる振動は心地よく、さざ波に身をゆだねるような気分になった。
目の前の窓から、ぼんやりと街を眺めた。街は濃い夜に包まれ、高層ビルや、自動車や、ネオンが煌めいていた。雨は降っていなかった。
ターミナル駅と猫 ツル・ヒゲ雄 @pon_a_k_a_dm
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