熱の冷めた日

シンカー・ワン

十代男女の性的欲求について。 つまりはヴァージニティの問題。

 頭にガンガンと響く呼び出し音が枕元で鳴っている。

 受け狙いで古い電話のベルになんかしとかないで着メロか着うたにしとけばよかった。

 出るのも億劫なんだが、このままコールされ続けられるのも面倒なんで呼び出しに答える。

「――ふぁい、こちら達川たつかわです。どちら様ですか~?」

「よぉ、よしき。俺だよ、俺」

「……オレオレ詐欺なら間に合ってます」

 通話を切り携帯を置こうとすると、すぐまた呼び出し音が鳴った。

 液晶に表示される名を見ると先ほどと同じ名前。

「……はい?」

 やれやれと思いながら出る。あーめんどくせぇ。

「いきなり切るのはないんじゃないかなー? 失礼ですよー?」

「――名のらん奴に失礼だと云われても、説得力がないと思うが?」

 そりゃそーだ、なんて笑いを含んだ声がむこうから聞こえてくる。にゃろう……。

「……で、何の用だ杉原すぎはら? 俺、寝込んでんですけど」

「いや、悪い悪い。そのひどい声からすると、風邪ひいたってーのはホントみたいだな」

 ほぅ、一応は心配してくれてるみたいだな。

「あぁ、体がだるくてよ~、かなりしんどい。聞こえてのとおり咽やられてて、あと熱だな」 

 自分でもかすれたひどい声だなと思いいつつ、もっかの状態を杉原に伝える。

「んー、昨日別れるまではピンピンしてたから、てっきりサボる方便なんかと思ってたんだが、その様子だとマジもんなんだなー」

 なんでサボりとか思ったんだよ?と聞いてみれば

音川おとかわがなんか不機嫌だったからな。きっと顔合わせ辛い事でもしたんだろうと」

 なんて、しれっと云いやがった。あぁもう名推理だよ、杉原くん。

 しかし、ここで音川の名前が出るか……。

「……う~」

「その反応は当たらずとも遠からじってところか。ま、なにがあったか知らんが、機嫌損ねる真似したんなら、さっさと謝っとくんだな」

「……俺が悪いこと前提の云い方だな」

 云われっ放しなのは癪なんで、少し抵抗したら、

「違わんのだろ?」

 即答かよ。……まぁ、そのとおりなんですけどね。

「――いいか、よしき」

 杉原はそれまでの軽い口調から一転、めったにならない真面目モードで。

「女となんかあったら謝れ。たとえお前の方が悪くなくっても、とりあえず謝っとけ。文句は云わん方がいい、云ったら余計怒らせることになる。女は感情の生きもんだからな、口では男は勝てん。いや口だけじゃなく大体において男は女には勝てんのだが。なんにせよとにかく謝れ、謝り倒せ。謝り続けていれば、そのうち向こうの機嫌も直る。ソースは俺」

 なんかに憑かれたように捲くし立てる杉原。苦労してんだなお前……。

「――んんっ、それはそれとして。どうせヒマしてんだろ、学校終わったら見舞いに行こうか? なんなら音川も連れて」

 マジになった照れ隠しか、また元の軽い喋りに戻って、からかい調子で云ってくる。

「……あー、それは……え、遠慮したいかな~、とか云ったりして」

 寝ているだけで時間を持て余しているのは確かだし、暇つぶしの相手が来てくれるのはありがたいのだけど、現状で音川の訪問は、どう接すればいいのかわかんないので正直困る。

 仮に杉原の云うとおり謝り倒すとしても、そうするのは二人だけのときにしたい。ダチ連中のいる前でそんなことやったら、散々からかわれた挙句たぶん女子たちから吊るし上げ食らうに決まっているし、第一恥ずい。

「いや、見舞いに来てもらって、それで風邪をうつしたりしたら悪いしよ」

 というわけでそれっぽい理由つけて丁重にお断りするんだが、

「フッ、まぁ、そういうことにしといてやろう。」

 なんてこっちの思惑見透かしたように云ってきやがる。

「で、どう? 明日は出てこれそうか?」

「んー、熱しだいかな? 下がってくれれば何とかなりそう」

「そっか。じゃ、お大事に。あ~仲裁が必要なら引き受けるからな」

「お心遣い、感謝」

 通話を終え、携帯を枕元へ捨て置く。

 それほど長い会話ではなかったかのだが、体がまいっているからか、はたまた音川の話が出たせいで精神的に堪えたのか、疲労感が圧し掛かる。

 しばらく突っ伏したままでいたがノソノソと体を起こすと、すぐ上の兄貴、壮平そうへいが出かける前に用意してくれていたペットボトルのスポーツ飲料を一口飲んでのどを潤し、改めて時間を確かめる。

 そろそろ午後一時を回ろうかというところだった。

 杉原は昼休憩のときに電話してきたってことか。

 寝床から抜け出し、台所まで行き、これまた兄貴が用意してくれていた昼食を済まし、薬を飲み、そしてまた寝床へと戻る。

 兄貴が仕事から帰ってくるにはまだ四時間ほどある。特に何かする気力も失せていたので俺はまた眠りについた。

 

 俺の名は達川よしき。十七歳の高校二年生。

 賑やかしのお調子者として校内でそれなりに名を知られている、変な意味でだが一端の人気者だ。

 彼女もいる。音川千種おとかわちぐさって、同じクラスの副委員長だ。

 『ザ・委員長』って見た目で性格もお堅い、お約束のようにメガネをかけたカワイコちゃんだ。

 出会った当初は反発しあってたんだけど、ちょっとした出来事で付き合うようになった。

 まぁ、俺がこうやって風邪で寝込んでいるのも、彼女が原因なんだけどね。


 事の起こりは昨日の放課後。

 正門を抜けると杉原たち悪友どもに別れを告げ、俺はいつものように音川と一緒に、途中で分かれるまで小川沿いの道を並んで歩いていく。

 俺と音川の付き合いってのは幾分プラトニックすぎるところがあり、そのことを友人たちにはよくからかわれていた。

 特に杉原とかの彼女持ち暦の長い奴等に。

 いわく『肩すら抱いたことがない』と。

 いや、さすがに手ぇくらいはつないだことありますよ、そこから先の進展がないだけで……ハイ。

 俺も健康な男子高校生ですので、彼氏彼女としてのウレシハズカシ経験はしたいわけで、それっぽいムードになったときなんか、がっつかない程度にはアプローチするんだけど、上手いことすかされてる。

 音川はあまりそーゆー方面のことは好きでないらしく、乙女の純情と云うか潔癖性でさり気なく抵抗を示していた。

 ま、それが音川らしいといえば聞こえはいいんだけどさ……。


 この日の昼休み、いつもの男連中といつもの様にバカ話をしている中、桃色なネタになり、流れからそれぞれの相方とどこまで進んでる? って話になった。

 それなりに進展のある奴等から、おまいらまだかよ、だらしねーな、等々からかわれる様な煽られる様なそんな風にいじられ、もてあそばれていた。

 この帰り道であんなこと云い出したのは、それが頭の片隅に残っていたからだと今となって思う。

「……達川くん、なにか考え事? さっきから黙り込んでるけど……」

 いつもなら何かしらしゃべくる俺が静かなんで珍しいもんでも見るように音川が覗ってくる。

「んー、音川ぁ、あのさ俺たち付き合いだしてからどれくらいになる?」

 音川は一瞬 "何を訊いているんだろ?" って顔をしたが、すぐに返事が来る。

「えっと、確か夏になる少し前だったから……かれこれ、ん、半年くらいじゃないかな、今十二月だし。それがどうかしたの?」

「半年かぁ……なぁ音川、俺たちの付き合いってどっか不自然じゃないか?」

「なにが? あたしはそんな風に感じたことないけど」

 きょとんとした顔で首をかしげる音川。ちくしょう、可愛いしぐさしやがって。

「いやな、俺は音川を好いてて、音川も俺のこと好いてくれてる。お互いの保護者にも交際を認めてもらってる……」

「――わかんないなぁ、達川くんの云いたいこと……」

 可愛い眉を八の字にし、難しい顔して音川が俺を見つめる。

「つまりだ、付き合って半年もの間、腕も組まず、肩も抱かない、ましてや抱擁なんてしたことない、健全健全ド健全な関係でいることがさ、不自然だと思わねぇ?」

「あ、つまり、達川くんはあたしと腕組んだりしたいんだ。――それなら組む? はいっ」

 なにかわかったという顔になって音川は右腕を軽く曲げ俺へと突き出した。

 そんな行動も可愛いんだけど、俺が云いたいのはそーゆーことじゃなくてさぁ。

「――!! あーわかってないっ、わかってないっ! 俺はね、音川と……」

 俺はここで言葉に詰まってしまった。ええぃ、どう云やいいんだ、まぁったく!

「……あたしと、それから、なに?」

 何かを察したのか、少し口調を硬くして音川が云う。心なしか表情も硬くなってる気もする。

 それを見て俺の頭の中で警戒警報アラートが鳴り出したけど、ええいままよ、男には行かなきゃならないときがある!

「そ、その……なんだ……。音川と男と女の関係になりたい!」

 俺がそう云った途端、音川は立ち止まる。

 並んで歩いていたので追い越した形の俺が振り返ると、冬の寒波にも負けない氷点下の視線をこっちへ静かに向けていた。

「……そう……そうなんだ。達川くんはあたしのこと、そんな目で見てたんだ……。あたしと肉体関係を持ちたい、そういう風に思ってたわけ!?」

 冷めた目で俺を睨みつけたまま、音川が言葉を突きつけてくる。

 理知的な顔で無表情なまま睨みつけられていると、異様な迫力があって怖い……。

「……そ、そうだよ。そうしたいって思ってた……」

 それに押されて搾り出すように答える。

 音川の云った事は充分に的を得ていたので俺にはこれだけしか云えなかった。

「……今日はここでお別れしましょう」

 音川は抑揚無く云い放ち、彼女の帰るべき道へと歩を進めようとする。

 俺は引き止めるべく声をかけようとするが、

「――達川くん、あたしはまだ・・あなたとそういう事したいなんて思ってない。あなたがあたしに対してそういった気持ちでいるのなら、……あたしの身体だけ・・が欲しいって云うのなら、あなたとのお付き合い、考えさせてもらいます」

 心まで凍ってしまいそうな冷たい声で先を取られた。

 音川の云ってることはもっともなんだけど、俺としてもあきらめきれない、引き下がれない。

 何より音川の身体だけが目当てだなんて、そんな風に思われてちゃたまらねぇ。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ。五分、五分だけでもいいから、俺の話を聞いてよ!」

 女々しいとは思ったけどなりふり構わず、音川の手を取りながらそういった。

 けど音川は、

「どっかで聞いたような文句だけれど、今のあなたと話すことなんてあたしにはありません」

 怒りを含んだ冷たい口調のまま俺の手を払いのけ、背を向けて足早にこの場から離れていった。

 残された俺はといえば、音川に手を払われた勢いでバランスを崩してしまい、道の横を流れる小川へ飛び込むことに。

 普段ならふくらはぎまで浸かればいいくらいの穏やかな流れなんだが、数日前の大雨の影響で水かさが増していて、盛大に濡れる羽目になった。

 川の水は音川の態度に負けず劣らず冷たかった。

 十二月の寒空の下、ずぶ濡れのままで家に帰り、急いで風呂を沸かし冷え切った体を温めたが、兄貴とふたり夕飯を食っているとき、

「ぐぇっしょんっ!!」

 と、えぐいくしゃみを一発。背中に悪寒が走る。熱を測ると、

「――三十九度八分か。……風邪だなよしき。さぁ寝ろ、すぐ寝ろ」

 兄貴が優しく云い捨てた。

 それからは、もう地獄。

 一晩経っても熱は一向に下がらず、学校は休むことになり、布団の中でうなされる今に至る。


 思い切り熟睡していたらしく、目が覚めたのは、仕事から帰ってきた兄貴が夕飯の支度やら何やら全部済ませてから、俺を起こしに来たときだった。

 夕飯は昼飯と同じく胃に負担をかけず消化もよさげでさらに栄養価も高そうなものだった。

 まったく兄貴は出来る男だ。

 高校生になった俺が転がり込んでくるまで一人暮らしをしていたからか、その手の知識と実践はやたらと豊富なので、こーゆー時はとても頼りになる。ありがてえ、ありがてえ。

 食事を終え、薬を飲み、寝汗をたっぷりと吸い込んだ下着を取り替え、再び床へ就く。

 朝になったらいろんなことが良くなってるといいなーなんて夢見つつ寝入る。

 実際は夢も見ないくらいどっぷりと深い眠りだった。


 翌朝、俺の渡した体温計の表示を見て兄貴が云ったのは

「まだ高いな。大事を取って今日も休んどけ。連絡はしとく」だった。

 体はまだだるい気もするが、動けないってほどじゃないし、別に学校行ってもいいんだけどな。

 ……音川と会うのはまだちょっと怖い気もするんだけど。

「ピンピンしているときはサボろうとするくせに病人のときは行きたがるなんてな。そんなに独りでいるのは嫌なのか? 小学生か、お前は」

 ブツブツと小声で文句たれながら渋る俺を見て兄貴は意地悪く笑いながら云う。

「独りが嫌って……、暇なのが嫌なんだよ」

「テレビを見る、ラジオや音楽を聞く、本を読む。寝床にいても体動かさなきゃこれくらいは出来る。暇を潰す方法なんていくらでもある」

 からかわれたのにこぼしたら間髪いれず返された。

「病人は治すことだけ考えてりゃいい。起きてるから暇だの何だの思うんだ、寝てろ」

「……はい」

 ぐうの音も出ません。大人しく従い寝床へ戻る。

 しばらくして兄貴が出かけて行く音が玄関から聞こえた。それを合図に俺はまた眠りに就いた。


「よしき、起きろ。よしき」

 眠りが破られたのは、体を揺さぶられる感覚と兄貴の声によってだった。

 って、兄貴? 帰ってきてるって、もう夕方? オイオイずいぶん寝てたなぁ、俺。

「よく寝てたのに悪い。急な仕事が入ってな、今夜は帰れそうになくなった」

 えっ、今夜って? まだ寝ぼけている頭をめぐらせて時計を確認してみるとまだ昼を回ったあたりだった。

「病人がいるからって抜けさせてもらってきた。すぐに戻らにゃならん。食事の用意はしといたから、腹が減ったら適当に食っとけ。あと急に具合が悪くなったりしたら湯浅ゆあさに連絡しろ、話はつけといた。番号はこれだ。大人しくしとけよ、それじゃ行くから」

 一気にまくし立て、携帯の番号の書かれたメモを俺に渡すと兄貴は風のように去っていった。

「……お仕事、ごくろー様……」

 壮平兄貴はわりと大手の興信所に勤めている。

 特別なことでもなければ普通の会社のように九時から五時までなんだけど、なにかあれば今回のように駆り出され朝も夜もなくなる。

 話に出てきた湯浅というのは兄貴の恋人。フルネームを湯浅麻美ゆあさあさみさんという。

 均整のとれた身体つきでパンツルックのよく似合う気風のいい別嬪さんだ。

 兄貴とは学生時代からの付き合いらしくて結構長い。

 うちの実家の方にも何回か連れて来た事があるんで初めて会ったのは小坊の時だったっけ。

 ゴールインは近いんだろうけど、俺が兄貴のところへ転がり込んだことでそれが遅れたと三人で晩飯食ってたとき怖い笑顔で云われた事がある。

 ……麻美さん、ごめんなさい。


 陽が沈んでから独り寂しく夕食を済ませ、自室には戻らず額に冷えピタ貼って居間のコタツに潜り込んだまま、なんとはなしにテレビ見たり、杉原たちからのメールの返信とかやっていくらかの時間が過ぎたころ、玄関の呼び鈴が鳴った。

 出るのめんどくせーと思ってほっといたら、しばらくしてまた鳴った。今度は続けて二回。

 こりゃ出てくるまで鳴らし続けそうだなー、仕方ない。

 コタツからのそのそと這い出し玄関へ赴く。その間にも呼び鈴は鳴っていた。

「ハイハーイ、今出ますよー。どちら様ですかー?」

 とか云いながら、ドアスコープを覗くと、そこには、そこには――

「今晩は。――中に入れてもらえますか?」

 予期せぬ訪問者、音川千種の姿があった。

 あまりのことに思考が飛び、動きの止まってしまった俺へと玄関の扉越しに声がかかる。

「――達川くん?」

「あ、ハイィ。ど、どうぞ……」

 ドギマギしながら鍵を外し扉を開け招き入れる。

 かって知ったるなんとやら。音川は我が家には何度か来たことがあるので迷いなく居間へと進む。

 音川はこんな時間なのに私服ではなく、なぜか学校指定のコートを纏っており、居間についてからそれを脱いだその下は当たり前のように制服で、手荷物は学生鞄にサブバッグといった、まるで学校帰りにそのまま立ち寄ったって風なのが気にかかったが、特に追求せずコタツへ入ることを促す。

「……壮平さんは?」

「急な仕事で徹夜だってさ」

「そう……なんだ」

 兄貴の不在を知ると音川は首を傾げ少し考え込むような顔をした。

 俺とふたりきりの状況になるのは嫌ですか、そうですか。……うん、普通に考えればそのとおりだよな。

「…………」

「…………」

 会話は途切れ、コタツで向かい合ったまま、しばらく沈黙が続く。

 音川はこちらを見つめているみたいなんだけど、俺は顔が合わせ辛くて視線を外してた。

 向こうからため息が聞こえた。それにつられて視線を少し向けるとサブバッグをごそごそ漁っているのが見えた。

 目的のものを探り当てたのだろう、取りだしたそれをコタツの天板の上へ置く。

「――お見舞い」

 そういって先ほど取り出したコンビニの袋に入った何かを俺へと差し出す。

「あー、これは、ご丁寧にどうも……」

 そんなことを云ってそれを受け取り、中の品を確かめる、ちょっとお高いプリンだった。

「……小川に落ちたのは見えてたけど、あれくらいで風邪ひくとは思ってなかった。なのにそれで欠席っていうのは、あたしと顔合わせたくないからサボるための口実だと思ってた」

 見舞いの品のプリンを冷蔵庫に入れにいこうかとか考えてると、音川が淡々と喋りだした。

 え? なにその感想、杉原と同じじゃん。俺ってそんなに情けなく見えてんの?

「昨日の放課後、帰り際に杉原くん達が話してた中にあなたの風邪が本当だってのが聞こえてね、その時は "あぁそう" ってくらいにしか思わなかったんだけど、今日も休んだからもしかしたらひどいのかなって、少し気になって」

 音川の独白は続く。でも、ああそうって……その程度?

「――だから、一応責任感じて。過程がどうあれ、達川くんを川へ落として風邪ひかせたのはあたしだから。お見舞いくらいは、って思って……ね」

 少しだけ、バツが悪そうに、上目遣いで音川は俺を見る。

 うっ、可愛い。

 お互いを包む空気がちょっとだけ優しくなってる、そんな風に思えた。

 音川は視線を落として口を閉ざしてる。

 勝手な思い込みかもしれないけど、俺が何か云うのを待っているみたいな気がした。

 何か云いたいんだけど何を云うべきか、テンパリかけていた俺の頭の中で、杉原の経験則に溢れたあの言葉が浮かび上がる。

『女となんかあったら、とにかく謝れ、謝り倒せ!』

 そうだ、謝り倒すチャンスじゃないか、これは!

 ふたりっきり、希望的観測だが音川は少し優しくなってて、今なら謝罪を受け入れてくれる可能性は高そう。 

 ここで行かなきゃいつ行くの? 今でしょ!

「音川ッ!」

「は、はい!?」

 突然声を張り上げた俺に驚いて顔を上げ反射的に音川が答える。

 俺はコタツの天板の両端をつかみ、そのまま上半身を起こすと勢いよく頭を下げ叫んだ。

「ごめんなさいっ!!」

 鈍い音がして額に痛みが走る。天板に思い切り頭突きをかましたのだった。

 額に貼ってた冷えピタのおかげで衝撃は多少緩和されたが、眼の裏側で派手に火花が散ったのが見えた……様な気がした。おおぅ痛ぇ。

「ちょっ、ちょっと達川くん、なにしてるのよ、大丈夫!?」

 あまりの痛さに額を押さえうずくまる俺にあわてた音川が、コタツを出て横に回りこみ心配そうに覗き込む。

 それを片手を上げ制し、半歩ほどずり下がり、また両手をついて頭を下げる。

 許しを請うときの定番の姿勢、土下座である。

 そしてそのまま思いのたけを伝える。

「こないだの俺は大バカ者でした! 音川の気持ちを考えもせず自分の欲望に正直すぎてました! 全面的に俺が悪いです。だからごめんなさい!!」

 とにかく下手に下手に、これでもかというくらい謝り倒す。

 杉原センセイ、俺、あなたの尊い教えを実行してます!

「どれくらい頭下げればいいかわかんないけど、音川の気が済むまで謝ります! 謝り続けます。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ」

 コメツキバッタの様にへこへこと頭を下げ、ごめんなさいを連発する。その度に床に頭を打ち痛みが走るが、構ってなんていられない。そんな俺の上から、

「――達川くん、やめて」

 音川の抑揚のない声が降ってきた。

 ……声の冷たさに、俺の上下運動が止まる。

「顔、上げて」

 その言葉に恐る恐る従うと、先日見た、あの感情を殺した顔をした音川と目が合った。

 しばらく見つめ合ったまま沈黙が続いたが、音川は眉をしかめ瞼を閉じて絡まってた視線を断ち、

「――達川くん、ウソっぽい」

 そう云って、俺の謝罪を斬って捨てた。

「う……ウソっぽいって……」

 勢いで押し切ろうとしたことを云っているのか? 

 いや、でも、謝ろうとしたのはその気があるからで……。

「謝ろうとしてくれているのはわかるよ。でも、……本当に悪いって思ってる? あたしにはそうは感じられなかった……。形だけでも謝っておいてこの話を終わらせられればいい、そんな風に、みえた」

 云いながら音川の表情が崩れだし、声が震えてきて――

「そんなんじゃ……そんなんじゃ、あたし、達川くんのこと信じれない。信じられないよぉ……」

 音川は泣いた。

 今まで何度か小さな諍いや衝突はあった。俺が強く出ても音川はいつもそれを怒って返してた。

 涙なんて見せたのは笑いすぎて苦しんでるときくらいだった。

 そんな音川が泣いている。悲しくて泣いている。

 俺が、泣かせてしまった。

 さっきとは逆で、うずくまる音川を上から見つめる俺。

 口元を押さえ、嗚咽をこらえて背を震わせている音川に俺は何も云えず、傍らでただ突っ立てるだけだった。


 ひとしきり泣いたあと、音川はやおらに立ち上がり、

「お手洗い借ります」

 と、洗面所へ直行し、派手に水音させたあと、さっぱりした顔して居間へと戻ってきた。

「――御見苦しいとこ、見せました」

 元いた場所へ腰を下ろすと一礼し、開口一番こう云った。

 前髪やサイドに水滴を残し、まだ目を赤くしたまま、羞恥から頬を染め、少し照れくさそうに。

 その言葉と表情に俺が何も返せずにいると

「ホントはね、あんなに感情的になるつもりなかった。もっと理性的にお話しするつもりだったんだけど、バカみたいにただ謝罪の言葉並べてるだけの達川くん見てたら、なんか、悲しくなっちゃって」

 音川は明るめの口調で云いながら、そしたら泣いちゃった、と最後に小さくつぶやいた。

 そんな自分のつぶやきを誤魔化すかのように姿勢を正し、真正面から俺を見つめて、

「ね、達川くん」

 改めた口調で、 

「あたしは口先だけの百万回の謝罪より、心のこもった一言の "ごめんなさい" の方が嬉しい」

 そう云った。

 あぁ、グランドマスター杉原。あんたの教えてくれたことは大半間違ってたけど、ひとつだけ大正解があったよ。

『男は女に勝てない』――この世の心理だね。

 俺は居住まいを正してから音川に向き直り、頭を下げて心から、

「ごめんなさい」

 を云った。

 顔を上げ直すと音川は少し難しい顔してたが、フゥッと息を吐いて表情を崩して、

「うん、今回は許してあげます」

 と云ってくれた。

 俺達は仲直りをした。出来た。

 

 しばらくは何事もない時間が過ぎた。

 音川が持ってきてくれた三個一組の高級プリンを食べたり――ひとつは兄貴の分にと残した――昨日今日のクラスの様子を訊いたりとか他愛のないお喋りなんかしてまったりと過ごしていた。

 あぁ、なんかいいな。こーゆーの。ふわふわしてる。

 音川との優しい空間とまだ下がりきってない熱の相乗効果で頭の中が夢見心地だ。それプラス何度かぶつけたことで脳が揺れていたもの関係していたと思う。

 つまり正常な判断が出来なくなりかけてた俺は一度収まった話を蒸し返そうとしていた。

「……なぁ音川~」

 少し惚けた感じの俺が云うと「なに?」と音川が返す。

「ついでと云ったらなんなんだけど、もうひとつ謝っていいかなぁ……?」

「誠心誠意でなら聞かないこともないけど……」

 訝し気に音川。

「うーん、さっきのアレに関係してる話なんだけどね」

「あ……うん……」

 俺の態度から何か感じたらしく、音川は表情を少し硬くして身構える。

「――俺さ、音川オカズに、何度もしてんだよね自家発電。そーゆー対象にしちゃっててごめんなさい」

 ぶっちゃける。いろんな意味で酔った頭であったが、それでも気持ちこめて謝った。

「音川は潔癖だから、知らぬところでそんなことされてんの嫌だよな。だから謝る、これからはそんなことに使いません」

 音川は顔真っ赤にして目を見開き憤慨寸前だった。

 それはそうだろう。いくら好きあった相手だからといって、自分を慰みのネタにされていると直接聞かされれば、そうなるのも仕方ないことだ。

 天板の縁に手をかけ、今にも立ち上がらんとする音川だったが、堪えきり、ゆっくり顔を伏せた。

「え~っと、音川~?」

 返事はない。小さく肩が震えていた。

 やっちまったなー。いい雰囲気だったのに自分からぶっ壊してしまうなんて、残念な自爆体質だ。

 しかしやってしまったことは戻らない、覆水盆に返らず。

 今日はもう、これまでか。

 ちらと時計を見れば二十時過ぎ、帰宅を促すには十分な時間になっていた。

「……まだ熱があるみたいで自分でもひどいこと云ったと思ってる。この先まだ何かとんでもないこと口走るかも知れないからさ、そろそろ帰った方がいいと思う」

 音川は何も答えない。さすがにけーべつされたか。ま、しょうがねーな、そうされるくらいのこと云ったんだし。

「……ほら、立ちなよ。音川ん家までってのは無理だけど、玄関先くらいまでは送れるからさ」

 先に立ち上がり、音川を促そうとしたら――

「!?」

 俺は立ちくらみを起こしかけ、足元から力無く崩れかける。

「危ないっ!」

 危うくひっくり返るところだったのを、音川が寸でのところで抱きとめてくれ倒れこまずに済んだ。

「わりぃ……助かった」

「……大丈夫?」

 音川が心配そうに正面から俺を覗き込む。

 その視線を受けると抑えときたい何かが気持ちの底から湧き上がって来そうになる。

 熱でなけなしの理性がパンクしかけてる。

 これ以上くっついてたらどうにかなりそうなので、音川から離れようとする。

 だのに音川は俺の体を受け止めた姿勢のまま、そっと手のひらを俺の額に当て、

「熱、かなり出てるみたいね。体も熱いし、もう横になった方がいいわ」

 なんて云ってくる。

 近い、近いってば。

「あ~、じゃあ部屋に戻るわ。……コタツと居間の電気お願いできるかな?」

 そう云って、また体を離そうとするんだけど、足元がおぼつかない。

「あとでやっとくから、逃げないで支えられてなさい」

 音川に支えられたまま自室へと戻り、寝床へ倒れこむ。

 俺が布団に潜り込むのを見届けると音川は部屋をいったん出て行き、しばらくして手荷物を抱えて戻ってきた。

「居間の電気と台所とかの火の元確かめてきたわ。……大丈夫?」

 手荷物を部屋の隅に置き、寝床の枕元に座り、俺を覗き込みながら云う音川。

「あ~あんがと。助かるわ。んー横になったらだいぶ楽になった」

 居間だけでなく他のところも見てくれるとはさすが音川、抜かりがないね。 

「――も、いいからさ、帰んなさいよ。うちの人心配するぞ」

 そう改めて促すが、音川は俺から視線を外しはしたが立とうとはしなかった。

「鍵は外からかけて新聞入れから突っ込んでくれてりゃいいからさ」

 そう云って俺が枕の下へ置いといた家の鍵を渡そうとするが、受け取ろうとはしなかった。

「……音川、まだなんかあるのか? ないんなら帰んなって……」

「――家の方はいいの。……真由美んとこへ泊まるって云って出てきたから」

 真由美こと斉藤真由美さいとうまゆみは俺らの同級生で、音川とは中学からの親友だ。

 ついでに云うと、悪友のひとりである妹尾秀せのおひでの彼女でもある。

「じゃ、早く斉藤んに行きなよ。きっと待ってんぜ、斉藤」

 頼む音川、早いとこ俺の前から消えてくれ。でないと、理性保てる自信ないよ俺……。

「……方便よ。真由美のとこ泊まるっていうのは……」

 え? 方便? なに云ってんだ、いったい?

 吐き出すようにそう云ったあと、音川は小さく深呼吸すると、

「あっ……あたしだって達川くんとおんなじよ、そういうことに興味が無いわけじゃないっ。あなたに抱きしめられる夢だって見てるっ、身体が火照って眠れなかった夜だって二回や三回じゃない!」

 堰を切ったように捲くし立てた。

「あ……あなたに求められて、本当は、嬉しかったっ」

 あまりに突然な告白に俺は思考がどっか行き、あっけに取られて見上げるだけだった。

「えっ……とぉ……音川さん?」

 呆けたように呼ぶ俺。

「――まだ、わからないのっ、このっ、鈍感!」

 そんな俺の態度に我慢ならなくなったか、顔を真っ赤にしてそう怒鳴るなり、立ち上がって部屋の灯りを落とす音川。

 急な闇の中、衣擦れの音が聞こえる。

 閉めたカーテンの隙間から入る外からの弱い光、薄い暗闇の中に浮かぶ淑やかな音川の姿態。

「……熱って、暖めあえば……下がるわ……」

 少し上ずった、音川の震える声。

 なに云ってんだよ、優等生がそんなウソっぽいことを。

 ――俺はやっと彼女が伝えようとしていたことを理解して、掛け布団を少し持ち上げた。



 丑三つ時、他愛なく言葉を交わし合う。

「……熱、下がった……?」

「ん? あぁ、下がったみたい、かな? 体が軽く感じるし……」

「そ……よかった」

「うん、俺も良かった、すごく♪」

「たっ、達川くんっ。も、もう……」

「て! あーアレのことじゃないの? 俺てっきりそっちのことかと……」

「――バカっ」

「……でもさ、後悔してない? 初めてがこんなで、相手が俺って……」

「うー、ん。少し、してるかな。――あ、そういう意味じゃないわ。初めては達川くんって決めてたから。……ただね、そうなるのは卒業してからって思ってたから……」

「じゃあ、悪いことしちまったわけか、俺……」

「そんな風にとらないでよ……本当に後悔しちゃいそう……」

「うっ、ゴメン」

「うん、許す」

「ところでさ、音川」

「なぁに?」

「今夜はさ偶然居なかったわけだけど、兄貴がいたらどうしてたの?」

「そのときは真由美のとこへ行ってたわ。元々そう話しつけてたから」

「用意周到だな……」

「女の子にとっての一大事ですから、準備は万全です。……達川くん気づいてないみたいだけど、一応大丈夫な日なの確認して来てるんだからね」

「あ、避妊……」

しようって思っているのなら、にも気を配ってください。男の子でしょ?」

「心しときます。……ん、それってまたさせてくれるってこと?」

「――うっ」

「お~と~か~わ~?」

「――え、えーと。あー、明日は学校行くんでしょ? は、早く眠らないと、ね?」

「誤魔化したなこいつめ」

「えっ、ちょっ、んー、んー、……ん……」



 朝、

「よぉーーしぃきーーぃーーっ! この不埒者がぁっ!」

 兄貴の怒声が響く。

 俺は反射的に目を覚ました。音川も同じらしい。

「こぉのバカタレがぁっ、よそ様の娘さん傷物にしくさりおってぇっーー!」

 布団の中から左腕一本でパンツ一丁の俺を引きずり出し正面に据える。

「あっ、あの壮平さん。こ、こうなっちゃってるのには訳がありまして、そ、そのぉ」

 音川が半裸のまま体を起こし、兄貴を制しようとするのだが、

「問答無用ッ! まぁだ早いっ。歯ぁくいしばれぇ、よしきぃッ!」

 兄貴のセリフに体が反応した瞬間、星がきらめいた。

 必殺の右ロングフックが俺の左顔面を捉えたのだと理解した。

 そのあと俺の意識は闇に落ちた。



 朝、午前八時少し前。

 俺は制服をきっちり着込んだ音川の膝枕の上で意識を取り戻した。

「気がついた? 大丈夫?」

 俺を覗き込む優しい瞳がそこにはあった。

「あー、兄貴は……?」

 後頭部に触れる柔らかな感触は名残惜しいが、ゆっくりと体を起こしながら訊く。

「部屋に戻って眠っちゃってる」

 音川の横に座り込む俺も制服姿だった。

 どうやら気を失ってる間に着せてくれたようだ。たぶん、兄貴が。

「……なにか、云ってた?」

 そう聞くと、音川は顔を赤らめながら、

「責任、取らせなさいって……」

 えー、あー、うん。そうだよね、普通そうなるよな。

「音川は……それでいいのか……?」

 上目遣いで下からうかがうと、

「……正直云うと、このまま続けていけるかわかんない」

 音川は少し考えてから、まだ知れぬ先を見つめるように言葉を選びながら云う。

「今のこの気持ちが変わらずにいられるって保証はないし」

 それは、たぶん俺も同じだ。

 今、音川に向けてるこの気持ちが絶対だなんて思ってない。

「でもね、それでも、この先もあたしの隣には達川くんが居てほしい、そう思ってる」

 思いきりの照れ顔で微笑む音川。

 あぁ、そーだ。そうだな。

「俺もおんなじだ」

 じっと見つめたまま、そっと手を伸ばし、音川の頬に添える。

 その手でやさしく音川を引き寄せ、互いの唇を重ねた。


 午前九時少し前、ホームルーム寸前の二年の教室。

 遅刻寸前で教室に入った俺の顔を見るなり、杉原の野郎はこう叫んだ。

「どうした、よしきぃっ? なんだぁ、その片面パンダは?」

 兄貴の見事なパンチにより、俺の左目の周りには綺麗な青タンが出来ていたのだった。

 クラス中が笑っていた、隣にいる音川すら苦笑いを浮かべている。

 笑っていないのは俺くらいだった。

「おまえさぁ、ホントは風邪なんかじゃなくて、その青タン隠すために休んでたんじゃねーか?」

 杉原ぁーっ、てめぇとの友情もこれまでのようだな……このやろう。

「おーこらこら、ホームルーム始まるってのになに騒いでるんだー? うるさいぞー」

 担任の高城たかぎがやってきた。よし、これでやっと静かになる……。

「おぉ、達川。今日は出席か……ってなんだぁ、その片面パンダはっ?」

 クラス大爆笑。

 こ、このーーーーっ、あーもう好きにしてくれ。

 笑いの渦の中、自分の席に着き、そっぽを向く。

 一瞬、同じように席に着いた音川と、視線が絡む。

 何もかも包み込んでしまいそうな、やさしい笑みが浮かんでいた。


 これからどうなっていくかはわからない。

 けど、音川と一緒なら何とかやっていけるだろう。

 そう思いながら俺も精一杯の笑みを返した。

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熱の冷めた日 シンカー・ワン @sinker

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