カレイドスコープを覗くのは

石衣くもん

 境恭介は、鏡が苦手だった。小学生の時の、とある出来事が原因で、鏡がとても恐ろしいものに思えてならなかったからだ。その所為で、大人になった今でも、鏡をなるべく見ないように生活をしているのだった。

 

 自分の姿を一秒以上、鏡で確認したことはなく、ふとした拍子に鏡を見つけると、慌てて目を逸らしたり、下を向いたり、とにかく自分自身が、鏡に映っているのを見ないようにした。当然、身なりを気にして確認するということもできず、髪型も寝癖だらけだろうし、髭だって感触を確かめて剃るしかないから、あまり綺麗にできていなかっただろう。

 

 そんな自分が、よく結婚できたもんだなあと、他人事のように恭介は不思議に思う。いや、容姿だけでなく、小学校の頃からあんなに根暗で、人付き合いの苦手な自分が、女性とお付き合いできたということすら奇跡のようなものだと思っていた。況してや、我が子の成長を見守るなんて、この上ない幸せに違いなかった。

 

「あなた、そろそろ会社に行かなきゃ遅刻しちゃうわよ。ほら、真央も支度しなさい。もう四年生なんだから、ちゃんとしないと」

「はーい。パパ、ママ、いってきます!」

 

 恭介はそんな幸せが、日常になっていることが、まだ信じられなかった。

 妻の結菜は優しくてしっかり者だし、可愛い娘、真央ももう小学四年生で、すっかりお姉さんになってきた。家族三人、今、本当に恭介は幸せな毎日を送っていた。

 

 そんな恭介の幸せに影を差すように、一本の電話がかかってきた。電話口の相手は、藤林早織と名乗り、

 

「つかぬことをお伺いして申し訳ありませんが、主人が、藤林一郎がそちらにお邪魔してはおりませんでしょうか」

 

と、尋ねられたのだ。


 藤林一郎は、恭介の小学四年生の時の担任だった男だ。あの頃、すでに歳は四十前後だったから、今は定年退職している頃だろう。そんな小学校の担任の奥さんから、途中で転校してしまった自分に、どうしてそんな電話をかけてくるのか問うたら、言いにくそうに、

 

「実は、主人は少しおかしくなってしまって、突然いなくなってしまったんです。そのいなくなる前に何度かあなたの名前や連絡先なんかを探して口にしてたものですから」

 

と、歯切れの悪い返答を藤林夫人はしたのだった。


恭介自身、嫌な思い出が甦ることもあり、深入りしたくはなかったが、電話の向こうの尋常でない雰囲気と、

 

「あなたに渡したいものがあったようで、申し訳ないけれど、取りに来てもらえませんか」

 

なんて言って懇願されたからには、断れなかったのだ。

 

 かくして、恭介は、恩師の夫人に会いに行く為、生まれ育った町へと向かったのだった。

 


 ***


 

 恭介が鏡を苦手とするようになったのは、小学校四年生の時だった。恭介のクラスであるC組は、課外学習の時間に同じ県内の遊園地、ドリームポップランドへ行ったのだ。その際、恭介にとって忘れられない事件が起きた。

 

 今思えば、あまりに不可思議で、もしかしたら自分が作り出した妄想かもしれない。そんな風に思うくらいに、衝撃的で不思議な、そして悲しい出来事を体験したのだ。

 

 課外学習なので、もちろんただ単に遊びに行くわけではなかった。それぞれのクラスごとに、今まで学習した内容を元に、どこへどんなことを学びにいくのか、生徒たちが皆で話し合って場所を決める。そして実際、現地へ行って学んだことを発表する。そんな自主性と何かを計画して進めていくことを狙いとしたのが課外学習だった。

 

 C組は話し合いの結果、理科の授業で鏡の性質について学び、図工の授業でも鏡を取り扱ったことから、ドリームポップランドのミラーハウスへ、鏡の性質を利用したアトラクションの楽しさを勉強しに行くことになった。

 正直、クラス中が遠足気分で浮かれていた。他のクラスがなんとか記念館や、お寺なんかを選んだと聞いて、自分たちのずる賢さにほくそ笑んでいただろう。ただ一人、恭介を除いて。

 

 恭介はとても静かでおとなしい、そして自分に自信のない子どもだった。同級生の男子からは「つまらない奴」と言われ、女の子からは「暗くてなんだか怖い、気持ち悪い奴」だと思われていたのだ。担任の藤林先生からも、

 

「境はもう少し、自分から積極的にならないとだめだぞ」

 

と、叱られたものだった。そんな友達一人いない恭介にとって、遊園地もミラーハウスも憂鬱なものでしかなかった。

 

 C組は生徒が全員で二十四人のクラスだ。課外学習では、二十四人が六班に別れて、実際ミラーハウスに入って学んだことや思ったことをまとめて発表しないといけない。

 しかし、恭介は班のメンバーの四人の中に自分を入れてほしいと、クラスメイトに言い出すことすら苦痛だったのだ。

 

 藤林先生は少しお節介な熱血漢で、

 

「自分自身で僕も班に入れてって言いなさい」

 

なんて言って、恭介を班に入れるよう、クラスメイトに呼び掛けてくれることはなかった。

 そんな時、恭介に声をかけて来てくれたのが、クラス委員長の加賀翠だったのだ。彼女は優しく、面倒見が良くて、クラスの人気者だった。この班決め前の時間の図工の授業でも、恭介を気にかけてくれていて、

 

「良かったら、わたしたちの班においでよ、境くん」

 

と、驚いて何も言えない恭介に、にっこり微笑んでくれたのだった。

 

「いいの?」

 

 震える声で問うた恭介に、翠は少しはにかんで、

 

「さっきのビーズのお礼だよ」

 

と、言った。


 

 ***


 

 ドリームポップランドは、こじんまりした遊園地で、森の中にあるからか、薄暗い感じがした。くれぐれも遊びに来たんじゃないと先生から釘をさされても、恭介以外の二十三人の子どもたちはそわそわと落ち着きがない様子だった。

 

 遊園地に入ってすぐのところに、何かよくわからない卵みたいに白くて丸い着ぐるみが立っていて


「ようこそ~! 僕はドリームポップの案内人、ポップンだよ! みんな、ドリームポップランドでずーっとずっと、こころゆくまで遊んでいってね!」 

 

と、少し聞き苦しいダミ声でそう言った。恭介はそのキャラクターも、そして遊園地自体も、自分の憂鬱な気分につられて不気味に思えた。そんな恭介と打って変わって、翠を含めた女子たちは

 

「ポップンかわいい~!」


などと言うものだから、恭介は信じられないものを見るような目で彼女たちを見つめたが、本当に嬉しそうな翠の顔を見ると、なんだか憂鬱な気持ちも、怖いという感情も少し和らいだ気がした。

 

 マスコットキャラクターのポップンは、丸くてかわいらしい見た目とは裏腹に、ガラガラのダミ声で、不気味可愛いという名誉か不名誉かわからない評価をされていた。そんなポップンを可愛いと言っていた女子たちのところにゆっくりと着ぐるみは歩み寄り、翠の前に立って

 

「君は、『見る』のが好きな子だね。きっと、ミラーハウスに行ったら、楽しいよ!」

 

と、よくわからないことを言った。

 どういう意味か確認する間もなく、藤林先生が

 

「遊んでないで行くぞ」

 

と号令をかけたので、誰もその意味がわからないままポップンと別れた。

 ポップンは生徒たちが見えなくなるまでずっと、両手を大きく振っていた。

 


 ***


  

 ジェットコースター、メリーゴーラウンドなど、子どもたちの心を奪う遊具を通り過ぎて、遊園地の一番奥にミラーハウスは建っていた。

 西洋風の館の前には、ポップンのパネルが立っていて、そこからあのダミ声が聞こえてきた。

 

「ここは鏡の館『カレイドスコープ』だよ~! キラキラ綺麗な鏡の世界に夢中になって、迷いこんだらさあ大変! 一生出られなくなっちゃっても知らないよ」

 

 恭介の和らいだ恐怖心は再び頭を擡げ、さっきは「可愛い」と騒いでいた女子たちも、しんとおし黙ってしまっている。

 その状況に、一人ずつミラーハウスの中に入らせて、遊ばせないようにしようとしていた藤林先生も

 

「入る時は、班の二人ずつで入りなさい」

 

と、言った。その一言にほっとしたように子どもたちは、班の四人の中でどう二人ずつに分けるかを相談し始めた。

 恭介の班は、委員長の翠と、運動神経抜群で女子から好かれている飯田冬馬、翠の友達で少し気の強い榊めぐみの四人だった。

 

「なあ、男男、女女だとつまんないじゃん。男女混合ペアにしようぜ」

「えー! 飯田君、翠と一緒に入りたいからそんなこと言ってるんじゃないの」

 

 冬馬とめぐみが言い争っているのを翠は困った顔をして見ていたが、

 

「それならグーとパーで決めましょうよ」

 

 ね、と翠が二人を嗜めるようにそう言うと、しぶしぶ二人は了承した。

 

「いいよね? 境君」

「う、うん」

 

 急に話を振られて慌てながら、頷いた恭介を冬馬とめぐみは白けた目で見ていた。二人とも、どうやら翠と組みたいというより、恭介と組みたくないという気持ちが強いようだった。

 掛け声とともに恭介はグーを出し、同じく翠もグーを出した。そして、冬馬とめぐみは揃ってパーを出したので、恭介と翠、冬馬とめぐみのペアでミラーハウスの中に入ることになった。

 

「よろしくね、境君」

「こちらこそ……」

 

 おどおどと返事をする恭介は、内心ほっとしていた。冬馬もめぐみも、恭介のことをよく思っていないことはわかっていたからだ。

 翠は優しいから、嫌な顔をせずに恭介にも接してくれる。そんな翠のことを、恭介は無意識に好きになっていたのだ。

 

 順番に二人ずつ入り、暫くすると二人揃って子どもたちは出てきた。恭介たちの班は第六班で、冬馬とめぐみが先に入ると言ったので、恭介と翠は一番最後にミラーハウスに入ることになった。

 

 順番が回ってきた恭介と翠はゆっくりと館の扉を開けて中に入った。中は迷路になっていて、その途中に色々な鏡の仕掛けがあり、それを一つ一つ翠は熱心にメモをとっていた。恭介はそんな翠の後ろをついていくしかできなかった。

 

 最後の仕掛けは、上下左右すべて鏡張りで作られた迷路だった。

 

「すごいね、境君とわたしがいっぱいだ」

「そうだね」

「なんだか、こうやって鏡が合わさってたら、こないだ作った万華鏡みたいじゃない? わたしたちがビーズの代わりだよ」

 

 スカートを翻しながら、翠がその場でくるりと一回転したら、鏡に映る翠たちも回る。彼女が言っているのは、先日、図工の授業で作った万華鏡のことだった。

 


 ***

 


 このドリームポップランドに来る理由の一つとして挙げられた、図工の授業の鏡を使った万華鏡作りは、簡単にオリジナル万華鏡を作るという授業だった。

 三つの細長い長方形の鏡を三角形になるよう合わせて、アクリルケースが底についている筒の中に入れ、そのアクリルケースの中にビーズを詰める。するとケースに入れたビーズの形や色によって、見える模様が違うので、一人一人オリジナル万華鏡を作れるというものだった。

 

 藤林先生は、二十四人の生徒たちに二十四粒の同じ色と形のビーズを渡した。恭介のビーズは丸くて緑色のビーズだった。

 

「いいかい、今から授業が終わる十分前までに、できるだけたくさんの友達とビーズを交換して回ってご覧。できるだけ色々なビーズを集めた方が、より素敵な万華鏡が完成するよ」

 

 その言葉を皮切りに、生徒たちは仲の良い友達のところへ移動してビーズを交換し始めた。しかしながら、恭介にはそんな風にクラスメイトに声をかける勇気はなく、また恭介に声をかけるようなクラスメイトもおらず、とても空しく苦しい嫌な気持ちになった。

 まったく席を立たない恭介に、藤林先生が

 

「ほら、境も誰かに声をかけに行かないと」

 

なんて、半強制的に席を動くように立たされて、途方もなく教室の隅で一人立っていた。緑色のビーズを二十四粒が入ったケースを握り締めて。

 そこに声をかけてきたのが、翠だったのだ。彼女は残り三分になった時、

 

「境君はビーズ、交換しないの?」

 

と、話しかけてきたのだ。

  

「えっ、いや、僕は」

「わたし、赤くて細長いビーズなの。もし良かったら、境君の緑色のビーズと交換してほしいな。わたし、緑色好きなの、名前が翠だから」

 

 恭介は上手く喋れなくて、震える手で一粒ビーズを摘まんで、彼女の色とりどりのビーズが入ったケースへ新たに緑色を足した。

 翠は嬉しそうに笑って、

 

「ありがとう! はい、お返し」

 

と、そっと恭介の掌に赤いビーズを乗せたのだった。それは間違いなく安い玩具だったけれど、恭介にとってその赤いビーズは、ルビーの宝石のように尊い大切なものに思えた。

 こうして、恭介の緑色のビーズ二十三粒と、赤いビーズ一粒の万華鏡は完成したが、あまりの結果に藤林先生が

 

「境、これはさすがに酷すぎるから、先生が一旦預かる。どうしたら境が友達と仲良くできるか、話し合おう。その時に返すから」

 

と、取り上げられてしまった。


 

 ***


 

 恭介は、たくさんの自分と翠に囲まれたミラーハウスの空間で一つの決心をした。翠に、ただ一言、

 

「ありがとう」

 

と伝えたい。臆病で口下手な恭介にとっては、それはとても勇気の要る行動だった。けれど、こうやって何度も恭介の気持ちを救ってくれた翠に、どうしても感謝の気持ちを伝えたかったのだ。

 

「あれ、行き止まりだ」

 

 先を歩いていた翠が、迷路の行き止まりになっているところで立ち止まった。恭介からは、翠の後ろ姿と、行き止まりの三面鏡のように広がる鏡に映った、同じ表情の三人の翠が見えていた。その瞬間、恭介は勇気を振り絞り

 

「かっ加賀さん! いつも僕なんかまで気にかけてくれて、本当にありがとう!」 


と、言ったのだ。 

 やっぱり目と目を合わせて、面と向かって感謝の意を述べるなんて、恭介にはハードルが高過ぎた。だから、この、鏡越しの翠に向かって叫んだのだった。怖くて、目は瞑ってしまったが。

 

「……はぁ?」

 

 暫くの沈黙を破って聞こえたそれは、この世のものとは思えない程、冷めきった声だった。

 

「いやもう、何なの。なんで私があんたなんかと一緒にこんなとこ入らないといけないわけ。あーあ、飯田君とちょっとでもいい感じになれるかもと思って班組んで、余計な女を入れないようにあんたのこと誘ったのに。

 

 ありがとうじゃないわよ。あんたが言うべきことは、すいません、生きててごめんなさいよ」

 

 呆然と立ち尽くす恭介に、翠本体は振り向かないまま、一番右の鏡に映った翠が鬼のような表情で罵詈雑言を浴びせるのだ。

 

「ていうか、本当境君って根暗だよねぇ、あたしの他のクラスメイトで、境君の声聞いたことある奴なんていないんじゃなーい?」

 

 今度は左の鏡に映る翠が嘲笑うような表情で言った。

 恭介は震えながら、その言葉を聞いていたが、最後に真ん中の鏡に映る、無表情な翠の言った言葉に、思わず一人で逃げ出してしまった。

 

「死ね」

 

 耳に残る冷た過ぎる声と、生気のない無表情な顔。いつも生気に満ちた眩しい笑顔を浮かべていた翠が、あんな顔で発した

 

「死ね」

 

という言葉が、恐ろしくて、ひたすらに走った。時には鏡に激突してよろめき、そこにあの翠の無表情な顔が映っては


「死ね」

 

と、恭介を追い詰めるのだった。

 

 無我夢中でミラーハウスから一人で飛び出してきた恭介に、慌てて藤林先生は駆け寄って

 

「どうしたんだ!? 落ち着きなさい、境! 加賀は? どうしたんだ、一人で中に残ってるのか!?」

「あんな、あんなの! 加賀さんじゃない、あんなの加賀さんじゃない!」

 

 ぶるぶると震えて泣きながら訴える恭介に、クラスメイトもびっくりして

 

「大丈夫?」

 

なんて心配そうに聞いてきた。

 恭介はパニックで過呼吸になり、藤林先生が慌てて呼んだ救急車で運ばれた。その後、何事もなかったように、翠は一人でミラーハウスの中から出てきた。誰に何を聞かれても

 

「何の話? わたし、境君とはぐれて、ずっと探してたの。境君が外に出られたなら良かったわ」

 

なんて、少女特有のあどけない笑みを浮かべて答えたのだった。

 

 恭介は、この事件以来、怖くて鏡を見ることができなくなった。そして、そんな環境では恭介が不安がって生活できないだろうと、両親は暫く恭介に学校を休ませ、そのまま違う土地へと引っ越したのだった。


 

 *** 


 

 藤林家に到着した恭介を迎えたのは、窶れて元気がなく、老婆と言ってもおかしくない女性だった。恭介は何と声をかけたものか迷ってしまったが、

 

「どうぞ、お入りください」

 

と促され、恐る恐る中に入っていった。

 

 恭介が案内されたのは客間だったが、そこへ到着するまでに、靴箱の扉に新聞紙が貼りつけてたったり、廊下の壁に一部日焼けしておらず色が違う部分があったり、どこかおかしいと違和感を覚える家だった。

 そして、その違和感の正体はお手洗いを借りた時に通った、洗面所でふと気がついた。

 

 この家には、鏡がない。いや、鏡が隠されて見えないようにしてあるのだ。

 通常洗面台の前には鏡があることが多い。しかし、この家は鏡があったであろう場所は、日に焼けず色が違う壁紙がみえているか、新聞紙や布で覆い隠されているようだった。

 

「あの、藤林先生が僕に渡したかったものって」

 

 どこか異常で、嫌な感じのするこの家から早く立ち去りたい恭介は、お手洗いから戻り、お茶を運んできてくれた藤林夫人に、不躾ながら早速本題に入った。夫人は色褪せた細長い筒をそっと机の上に置き、話始めた。

 

「主人は、藤林一郎は、今年定年退職いたしました。小学校の先生というのは、もちろん大切なお子さんを教育する場ですから、ストレスも、たまに相性の悪いお子さんも、残念ながらいたんだと思います。

 けれど、それはある程度割りきってしまわないと、教師をやっている者の精神がもたないとよく言っておりました。

 

 そんな藤林が、定年退職しても腑に落ちなかったのが、あなたの四年生のクラスのことだったんです」

 

 恭介の耳には、夫人の言葉は届いているが、それよりも置かれた筒を凝視して固まってしまっていた。

 それは、図工の授業で作って、後で返すと取り上げられた万華鏡だった。思えば、万華鏡を作って、すぐに課外学習に行き、そのまま転校してしまったから、返してもらわず仕舞いだったが、まさかまだ藤林先生が、持っていたなんて。驚く恭介を余所に、夫人は話を続ける。

 

「あなた、境君は主人の話によく登場する子どもでした。大人しくて自信がないところが心配で、少し厳しく接していると。

 そんなあなたが、課外学習でミラーハウスから出てきてそのまま転校してしまったこと、主人は大層悔やんでいました。

 でも、その後、妙なことが起き始めたというのです」

「妙なこと?」

「ええ。まず、あなたと一緒にミラーハウスに入った加賀翠さんという女の子が、時折まるで別人のような振る舞いをするようになったと」

 

 夫人の口にした加賀翠という言葉に、益々恭介の身体は固くなったが、お構い無く話は続いていく。

 

「それまでは優しいクラスの人気者だった彼女が、時折手がつけられないくらい凶暴になったみたいでね。言葉で、暴力で、クラスメイトを傷つけるようなことをするようになって。

 

 段々クラスメイトも彼女を敬遠するようになっていって、とうとう学校に来なくなった。そして、そのまま行方不明になってしまったようなの」

「加賀さんが、行方不明だなんて……知らなかった」

 

 漏れるように呟いた恭介の言葉に、夫人は力なく首を振って

 

「加賀さんだけじゃないわ。その後も、あなたのクラス、四年C組の子どもたちは、一人、また一人と姿を消したの。

 五年生になってから一人、六年生になってからは三人も、C組の生徒だった子どもたちがどこかへ消えてしまったの」

 

 中学校に入って消息不明と噂を聞いたのは四人。ただそれだって聞き知った範囲の話でしかない。本当は、もっといなくなった子がいるのかもしれないし、高校、大学、そして恭介のような大人になってからだって、もしかしたら行方知らずになった生徒がいるのかもしれない。

 

 そう、夫人は続けて俯いた。恭介も、何と返せばいいのかわからず、重たい沈黙に包まれたが、夫人は一つ溜め息を吐いて

 

「主人は、それが教師生活の中で、ずっと引っ掛かっていたんです。退職してすぐに、あのドリームポップランドの跡地に行ったんです」

「跡地……あそこは、もう廃園になったんですか」

「ええ、あなたが転校してから一年と経たず、廃園になりました。閉まった後も変なことが起きると、良くない噂ばかりが立つようになって。

 

 そんなところに一人で行くのは危ないからと、引き留めるのも聞かず、主人はドリームポップランドへ行きました」

 

 夫人はぎゅっと両手を握り締めて、再び深く息を吐いた。いつの間にか、恭介も手に汗握る程、拳を固くして話を聞いていた。

 

「戻ってきた主人は、まるで……別人になったように、覇気がなく、何かに怯えるようになりました。


 何か見たのか、恐ろしいことが起きたのか、私が何を聞いても青い顔のまま答えずに、譫言のように『万華鏡……境の、万華鏡……返さないと』って繰り返して、部屋の中をひっくり返す勢いでこれを探したんです」

 

 これ、と夫人が、そっと机に置かれた万華鏡に、手を重ねて言った。

 

「その日から、殆どご飯も食べなくなって、家にある鏡という鏡を外したり、隠したり、時には半狂乱になった壊したりするようになって。


 そうして、一週間前、とうとう主人もいなくなってしまったんです。警察にも届け出ましたが、依然行方はわかりません。


 ただ、いなくなる直前まであなたに連絡を取ろうとして、色々調べていたようでしたから、もしかしたらあなたのところに訪れているのではないかと思って」

「僕の居場所を、探してたんですか」

「あの……少し言いにくいけれど、探偵とかそういう機関も使っていたみたいで、あなたの電話番号もその調査結果に載っていたから」

 

 恭介は背筋が冷えて、血の気が引いていくような気持ちがした。何故、今さら自分にそこまで執着するのか、理由がわからなかった。それが、廃園になったとは言え、あのミラーハウスへ行った後だというのだ。


 どうして、自分を探していたのか。本当に、藤林先生自身が、自分を探していたのか。

 恭介は段々と気分が悪くなって、

 

「お力になれず、申し訳ありません。そろそろ失礼します」

 

と、立ち上がり、そそくさと帰ろうとした。夫人はそんな恭介を暗い目で見詰めていたけれど、諦めたように

 

「遠いところ、ありがとうございました。これだけ、持って帰ってやってください。せめて、あの人の無念を晴らしてやりたいんです」

 

と言って、万華鏡を差し出したのだった。恭介は、本当は受け取りたくなかったが、有無を言わせぬ夫人の様子に渋々、万華鏡を持ち帰った。


 

 ***


 

「パパおかえりー!」

「ただいま、真央。ママは?」

 

 家に帰った恭介を出迎えてくれたのは、娘の真央だった。妻の結菜は買い物に行ったと真央は元気よく答えた。

 

「パパ、これなぁに?」

「それは万華鏡だよ、穴から覗いて回してご覧」

 

 真央が興味津々で、恭介の持ち帰った万華鏡を見ていたので、恭介が覗き穴から見るように促すと、真央から感嘆の声が漏れた。

 

「すごいね! 絵がくるくる変わるよ、パパ!」

「それ、パパが作ったんだよ」


 嬉しそうな真央の姿に、藤林家での嫌な気持ちをすっかり忘れて、恭介は言った。

 真央はさらに興奮した様子で、

 

「パパ、すごい! きれい……緑色、赤色、ピンク、紫、黄色、オレンジ!」

 

と、万華鏡から見える模様を実況していた。はじめは微笑ましく見守っていた恭介は、はたと気付く。藤林先生が持っていた自分の万華鏡は、緑色のビーズと一粒の赤いビーズで構成されているはずだ。

 それでは、今、真央が覗いている万華鏡は、一体誰の万華鏡なのか。

 

「真央、それパパにも見せてほしいな」

「いいよ、はい!」

 

 真央から受け取った万華鏡を、恐る恐る恭介が覗いたら、やはり緑色の模様に一部分だけ赤が混じったものであった。真央は、勘違いしたのだろうか。

 やっぱりこれは、自分の万華鏡だったんだと、恭介がどこか安堵した瞬間だった。

 

「やっと、鏡を見たわね」

 

 底冷えするような声色は、あの日絶えず自分に

 

「死ね」

 

と言い続けた、加賀翠の声だった。


 その声を聞いた瞬間、緑と赤が作っていた模様は、段々と人の顔になっていって、クラスメイトの顔を、次々と写し出していった。その中には、あの頃のままのめぐみの顔や、少し大人になった冬馬、そして、藤林先生の顔も写っていた。


 恭介が呆然と立ち尽くし、思わず落とした万華鏡が転がって、娘の真央の足元で止まった。何も知らない真央が、不思議そうに

 

「パパ?」

 

と言って、万華鏡を拾った瞬間、恭介は弾かれたように顔を上げて、真央に

 

「それを離しなさい!」

 

と、言おうとしたが、ひゅっと息が詰まり、その言葉が音になることはなかった。

 万華鏡を拾い上げた少女は、真央ではなく、翠の顔をしていたのだ。

 

「境君、久しぶり」

「加賀さん……どうして……」

 

 上手く声を出せない恭介に、翠はあの頃と同じ、あどけない少女の笑みで、

 

「迎えにきたの」

 

と言った。


 ガタガタと震えて、尻餅をついた恭介に、スカートを翻しながら、翠はくるくると回って

 

「ビーズはね、二十四個必要なの。藤林先生が言ってた。『できるだけ色々なビーズを集めた方が、より素敵な万華鏡が完成するよ』って。この前、先生も含めてやっと、二十三個のビーズが集まった。後一つ、ねえ、境君。境君で、後一つなの、わかるでしょ」

 

 くるくる、くるくる。楽しげに回る翠が、ぴたりと止まった。

 微笑みながら、ゆっくりと恭介に近付いてきて、逃げることができない恭介の前で止まって目線を合わせるように屈んだ。


「やっと、完成する。わたしの万華鏡。私の、あたしの万華鏡。だから境君、ねえ、パパ、お願い」

 

 甘く優しい、少女の声が、恭介の鼓膜を震わせて、そっと、頬に小さな手が触れた。

 

「おね、お願い、します、やめて……」

 

 泣きながら、懇願する恭介に、翠は言った。

 

「死ね」

 

 あの時と同じ、冷たい、この世のものとは思えない声で

 

「死ね」

 

 顔は翠と、娘の真央にくるくる変わりながら、


「死ね」 

  

と、何度も、何度も、繰り返し言った。



 ***


 

 買い物から帰った結菜は、まだ夫の恭介が帰っておらず、真央が一人で家にいることに首をかしげた。

 今日は遅くならないと言っていたのに、もう帰って来てもおかしくない時間なのに。

 

「あれ、パパは?」

「万華鏡の中に入っちゃった」

 

 念のため娘の真央に確認しても、意味のわからない冗談を言うだけで、やっぱりまだ家に帰ってないのかと思った結菜は、

   

「馬鹿なこと言ってないで、ちゃんと玩具も片付けなさい」

 

と、娘が何か床に落としている筒を指して言った。

 そんな母親に聞こえないくらい小さな声で、真央は、

  

「ほんとだよ、ね、パパ」


と言って、落ちていた筒を拾い上げ、そっと片方から中を覗いた。覗きこんだ先には助けてともがく父親が、二十四人の人間が、くるくると回っていた。


「これで、やっと完成。二十四個、ビーズが揃ったわ」


 そう言って、真央は自分の胸に大事そうに万華鏡を抱いて、もう一度、満足そうにそれを覗いたのだった。

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