雲中模索

k今三十

雲中模索

 山神さまのお世話がぼくの役目でした。


 村は山の近くにありました。深い山なので、人の住むところと神の住むところの境界が曖昧になるようでした。境界が曖昧になるから、人の理から外れる出来事がしばしばあるようでした。

 村の人々は、その事実にいささか困っているようでした。山神さまのお世話役であるぼくの存在で、皆の心が平静を保っている……そのように思い上がることも少しばかりありました。

 山神さまはぼくといささか異なるお姿でした。時には角があり、時にはうろこがありました。なぜそういうかたちをしているのか、山神さまは語りませんでした。ぼくも自ら聞いたことはありませんでした。きっと失礼なことだと思いました。

 山神さまは、時にはぼくの前で笑い、時にはぼくの前ですすり泣きました。もしかすると、山神さまのこころは人だったのかもしれない、とぼくは思いました。

 山神さまとぼくがいる場所は、村のお屋敷の地下です。木製の格子によって山神さまとぼくは遮られています。山神さまが村の人に呼ばれてそこから出る間、ぼくは山神さまの場所を片付け、綺麗にし、清めました。山神さまの召しあがるものを作るのもぼくでした。

 山神さまはぼくへ言葉をくださいません。ぼくも山神さまに申し上げることはありません。山神さまとぼくの関係は、静かで穏やかなものでした。寂しくはありますが、きっとそれで良かったのでした。


 良かったのですが。


 ある、秋の匂いのする頃でした。

 山神さまは、ぼくへ質問をなさいました。

「いつからここにいる?」と。

 ぼくは、折角の山神さまの言葉にも、しばらく押し黙ってしまいました。ぼくは元々記憶がなく、いつの間にかこの村にいたのです。

 この村の空気は不思議とぼくに馴染んだので、記憶を失う以前からこの村にいたような気にもなりましたが、村の人たちは僕のことを知らないようでした。ぼくは頭が良くありません――はっきり言えば馬鹿なのです。頭の中に、常に厚い雲が広がるのです。無縁の馬鹿を平気で置いておけるほど、おおらかな村ではありませんでした。だから、山神さまのお世話役に困っているという話を耳にして、ぼくはその役目に志願したのでした。

 どうにかこうにか、正直なことを山神さまに申し上げました。山神さまはずっと笑顔でした。珍しい山神さまでした。たいていの場合、山神さまはぼくの前では疲れたようなお顔をされていました。

 笑顔の山神さまは、さらにそれまでと違うことをなさいました。格子へその身を押し付けるようにぼくへ近づかれ、話をしよう、とおっしゃいました。眉の上から生える弧を描いた角が、格子に当たってかつんと音を立てました。山神さまは、質のよい木材の匂いがなさいました。えんじ色の目がぼくを捉えておいででした。


「君に興味がある」

「興味、とおっしゃいますと」

「オレに『君』なんて言われて怒りもしないところ」


 山神さまのお言葉の真意が読めず、ぼくは首を傾げました。山神さまは神だから、ぼくなどよりも当然立場が上なのです。何か言われたからといえ、ぼくが怒るはずもありません。

 山神さまは笑顔でした。なんだか本当に、いつもの山神さまではないようでした。神が発することのできる、不思議な気のようなもの――そういったものがあるのだとしたら、眼前の山神さまから感じる気配はそれでした。


「君、今の役目とやらの他にも、色々仕事を貰おうとしては断られているね」

「ご存じなのですか」

「聞いたのさ。恥ずかしがることじゃあない、働き者だなと感心したわけだ。何が足りないとか、人手が要るとか、よく村人の話に耳を立てている」

「ありがとうございます」

「そういう、君の情報通なところを信頼して聞きたいのさ。君から見た山神を」


 山神さまのことを知りたがる山神さまというのは、なんとも不思議でした。お褒めをいただいて舞い上がっていたぼくは、お聞きになることの意味を分からずとも、ぼくの知る山神さまについて申し上げました。

 人のようであるけれど、人にはあらぬ形であること。

 村人に呼ばれる前は疲れ果て、村からこちらに来ると元気であること。

 ふだんはお静かであること。

 ぼくの作る食事をなかなか召し上がってくださらないこと。

 今この時のようなお話の機会がなく、実のところ寂しいこと。

 身の回りのお世話役としてほんのちょっと不満はあるものの、たしかに神の気配をお持ちの尊いお方であるので、ここで共に在れて嬉しいこと。

 他にも色々、いろいろ。


 山神さまはぼくの話を笑顔で聞いてくださいました。たくさん話してくれてありがとう、などとおっしゃるものですから、ぼくはふたたび舞い上がるような心地になりました。山神さまともっとお話ししたいという気持ちが、仕舞い込んでいたこころの奥からこんこんと湧いてきました。

 山神さまは、そんなぼくの内心を知ってか知らずか、じゃあ今度はオレの話を聞いてくれないか、とおっしゃいました。拝聴しないはずがありません。逸るこころを抑えてぼくがその場に座ると、山神さまは落ち着いた声で、ゆっくりとお話を始められました。とある神のお話、とおっしゃいました。


「ある山は、良からぬ神が住まう山だ。近隣の村や町でそう言われていた。実際、山へ近づいた者が恐ろしいものを見て狂ったり、山から逃げようとする者がたいそう山奥で死んで見つかったり、月のない夜に大勢が山へ呼ばれるように入ってそれきりだったり、色々あったらしい。いつかも分からないほど前から、そういう状態だったらしい」


 山神さまは、えんじ色の目を細めながらお話しになりました。良からぬ神などありうるものなのでしょうか。山神さまが悪しきものであるとは、ぼくは感じたことがありませんでした。


「ある時、旅の坊主だか神職だかが近くの町のお偉いさんに申し出た。その良からぬものを退治して進ぜようということだ。仮にも神なのだから罰当たりにも程があると反対の声があったが、なんだかんだお偉いさんはその神職に退治を任せた。

 神職は山の奥へ赴き、一年経って帰ってきた。人から外れた形――オレのような、要らないものがそこかしこに生えた形になってな」


 山神さまは笑顔のまま、お声がだんだん低くなられてゆきました。

 ぼくはそっと、山神さまの角に視線をやってしまいました。もともと人であったものが人から外れた姿になるならば、山神さまは人であったのでしょうか。


「神職が言うことには、神というものは言葉持つ絡繰りらしい。

 向こうで上がった雨雲が脇で起こった風に流されて、こっちの畑に雨が降らない。あっちの森の畜生が病で死ぬから、飢えた狼どもが人里に降りてくる。

 そういうのを細かく取り決めて、取り決めを回すのが、神の仕事。たまに人に声をくれてやりはするが、自分の取り決めを正しく回すことに精を出すのが、神」


 神は絡繰りなのでしょうか。ぼくの顔をご覧になったり、息継ぎをしたり、そういった仕草を見ると、山神さまが絡繰りだともぼくには思えませんでした。

 それとも、これから絡繰りのようになってしまうのでしょうか。この山神さまの奔放なところを、ぼくは好ましく思うようになってきていました。それがなくなってしまうなんて、神というのは窮屈なものです。


「神職が相対したものは、力を奪われても何かの取り決めを回そうとして、ひどく荒ぶったらしい。己が神である以上、仕事をしないと気が済まないということらしい。だから、神職は体を張ってそいつに『上書き』をした。人の役に立つ神であるように、人を疑わぬ神であるように、己を神と思わぬように……」


 お話がなんだか奇妙に恐ろしく、ぼくは震えました。山神さまの語られる人物像はごくわずかであるはずなのに、神職なるものの鬼気迫る顔が目の前に見えるようでした。


「神は気を発する。放っておけば神の居場所は神の気で満たされ、神は力を蓄え、神職の上書きが剥がれる。それを防ぐ必要があった。

 神職のような、神に近づいてしまった者は、神の気を取り込むことができる。お偉いさんはそういうのをいろんな地から呼び、神の近くに置き、神の力を抑える仕組みを作った。神を中心にして、山の中に村を作ったのさ。

 神の気を取り込みきった者は神になる。神は……絡繰りだ。もといた場所に返されて、そこを繁栄させるように奉られる。山に送られて、神になって帰ってくる。縮めてというわけだ。山の神というのは、本来おんなの神らしいんだけどな」


 ぼくも山神さまも、どう見てもおんなではありませんでした。山神さまはおんなであることもありましたが、この山神さまはおとこでした。

 山神さまがなさる神の話が、山神さまそのもののお話であることに、ぼくはその時気づいたのでした。なぜ山神さまがこのお話をぼくになさったのか、ぼくには分かりません。耳に入った言葉が、頭の大事なところに行こうとしているのですが、その途中には濃く厚い雲があり、言葉はどこにも行けません。


「山神は、村の大きな屋敷の地下に年の半分住まうことになる。この間、山神は部屋に居続けるよう命じられる。山神を地下の部屋に入れるための経路は屋敷と山神の部屋を結ぶ。格子の、こちら側と。


 山神さまは、そこで初めて笑みを消されました。

 山神さまの手が、山神さまとぼくとを隔てる格子をなぞります。


「君、この地下から上に行ったことは無いんだろ」


 正しいことなので、頷きました。頭がぐらぐらしました。これまで、お話として一度にたくさんのことをお伝えになっていたので、山神さまがぼくに何をおっしゃりたいのかがますます分からなくなっていました。確認の内容は正しいことでした。

 ぼくは気がついたら村に――このお屋敷の地下、ちょうど格子のこちら側にいたのです。お屋敷の地下は誰も来ず、寂しいものです。ぼくはずっと、地上のことに耳を傾けては、力になれないかと村の皆に声を届けていたのです。助けを求める声は村のどこにいたって聞こえるものだし、その人に声を届けられるものだから。


 そうではなかったのでしょうか。


 はじけるような音がして、山神さまは右目を押さえなさいました。押さえた指の隙間から、山神さまのお顔に裂け目が走るのが見えました。木材の匂いがいっそう濃くなりました。山神さまが手をお放しになると、目のあるべき場所にはただ裂け目だけがあり、傷ついた木のように琥珀色の液を滲ませていました。

 ぼくがうろたえていると、山神さまはまた笑顔になられました。けれどその笑みはぼくの話を聞いてくださった時よりも頼りないものでした。


「山神さま」

「……オレは神じゃあない。ここに来た他の連中もそうだ。ちょいと他人より要らない部分が多いだけ。オレは、色んな神の話を集めていたら、人の道を少しばかり外れてしまったただの馬鹿だ。本来、君にはこんな風に喋るべきじゃないんだ、ここに入れられる際の決まり事で、破ればこんな風にね……ああ、いや、そうか、そうだ。もう、気にしなくていいんだな」


 山神さまが格子の隙間からぼくに手を伸ばされ、ぼくの顔は山神さまの両手に包まれました。ぼくの容貌は山神さまとはいささか異なります。ごく稀に見る村の人の姿とは、大きく異なります。燃えかすを固めたような、あちこちいびつなぼくの身体。山神さまの手は、村の人のものと同じ形で、作りかけの炭の色をされています。 


「会えて、話をできて良かった。あなたの伝説ことをずっと、子供のころから気にしていたんだ。こんなところに閉じ込められて、閉じ込められていることすら気づいていない、それは、あなたは……」


 はじける音がしました。山神さまの手と、首に、裂け目が走りました。山神さまはお辛そうにしましたが、息をひとつして、少し悲しそうなお顔になりました。


「……騙されている。あなたの視点の話を賜るに能う供物として、これを伝える必要があると思ったのです――」


 またはじける音がしました。山神さまはぼくから手をお放しになり、さっと振り向いて屋敷への道にお駆けになりました。ぼくの方へ振り返ることはなさいませんでした。きっと止めるべきだったのでしょうが、ぼくはただ見送ることしかできませんでした。

 不思議な山神さまでした。山神さまがご自身を神だとお思いでなくとも、山神さまは確かに神なのです。ぼくには山神さまが神であることが分かるのです。ぼくと同じような、人の外にあることが分かるのです。

 それとも、神であるかそうでないか、人であるか人の外であるかは、己で決めても良いのでしょうか。ぼくも自らを人の内にあると、考えても良いのでしょうか。


 山神さまが地上へお戻りになった後、村は何やらお祭りのような大騒ぎになっていました。いつものように山神さまの場所を清めていましたから、詳しいことは聞こえなかったのですが、呆れ、焦り、怒り、そんな色の声がたくさんありました。このような場合、誰かが助けを求めようとするものですが、この時は誰も何も求めなかったので、ぼくは自分の勤めを果たすのみでした。

 そのうち、とりわけ濃い木材の匂いがぼくの場所まで届きました。それは山神さまの匂いでした。薪をたくさん割った後ほどの濃い匂いでした。山神さまは地上でお世話を受けられているのでしょうか。ぼくが馬鹿なので、なにか粗相をしたのでしょうか。そう思うと悲しくなり、ぼくははしたなくもその場で泣いてしまいました。


 いくらかの雨の日と風の日を越えて、ふと気がつくと、村はとても静かでした。


 いつもなら、山神さまが再び地下においでになる頃になっても、村は静かでした。山神さまがおいでになることはありませんでした。

 次の晴れの日も、次の雨の日も、雪が降っても、風が吹いても、草木が萌えても、葉が散っても、雪が止んでも、蕾が綻んでも、花吹雪でも、村は静かでした。

 山神さまの匂いが薄れゆき、消えてしまったある日にも、村は静かでした。


 また山神さまがおいでになる日を待ちながら、村に耳を澄ませます。村の人ではない人が、時折村に訪れます。村は静かです。

 山に耳を澄ませます。村の人でもふもとの町の人でもない人が、山にいくらか足を運びます。村は静かです。稀に助けを呼ぶ声がするのですが、ぼくは山神さまを待ち続けていて、お屋敷を出ることはできません。

 少しだけ町にも耳を澄ませます。いつしか町には人の扱う雷や、人の扱う星々がありました。人はその小さな雷と星々で、言葉をやりとりしているようでした。ときどきぼくの近くにも小さな雷の波が飛んでくるので、捕まえて言葉を読んでみます。

 山神さまはいらっしゃいません。どこにも。



 近頃はぼくも力が付き、もう少しで頭の中の厚い雲を払えそうな気がしています。それはすなわち、ぼくが馬鹿でなくなることを意味します。

 あの山神さまがぼくにおっしゃったことを、ぼくは未だ理解できていないのです。こんなところに閉じ込められて、と山神さまはおっしゃいました。ぼくは自らここにいます。けれど、それはぼくの内から出た考えではなかったのでしょうか。頭の雲を払えば、その意味も分かるのでしょうか。

 きっともう、山神さまにお会いすることはありません。村もきっと静かなままです。けれど、あの山神さまのお言葉を全て理解する時には、他の誰に褒められなくとも、どこからか褒めていただけるような気がしています。

 それまでは、人々の雷にこのお話を忍ばせることが、ぼくの慰めなのです。

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