感情スパイス

終電宇宙

第1話

真夏日のうだるような暑さの中、俺は駅前の商店街で買い物をしていた。

目当てのものをすべて買うことができた俺は日の当たらない場所を求めて

普段あまり歩くことのない路地裏を経由して家に帰ることに決めた。


路地裏に入るとあたりはいくらか涼しくなった。

これならバテずに家まで帰ることができそうだと思い、

俺は重い買い物袋を持ちながら路地裏を進んでいった。


しばらく進んでいくと

ホームレスのようなおばさんがブルーシートに小さな瓶をいくつか並べて

じっと座っているところに出くわした。

段ボールでできた看板が立てかけてあり、

その看板には「感情スパイス屋」と書かれていた。


いかにも話しかけてはいけなさそうな雰囲気が漂っていたが、

その「感情スパイス」という文字に好奇心を刺激され、

俺はおばさんに話しかけてしまった。

「こんにちは。看板に書かれている感情スパイスっていったい何ですか?」

俺に声をかけられておばさんは無表情で顔をあげた。

「ああ、この瓶に入った粉のことさ」

おばさんはそう言って瓶の方を指さした。


そこには数種類の瓶が置いてあった。

赤い粉が入った瓶、

青い粉が入った瓶、

緑色の粉が入った瓶、

その他色とりどりの瓶が置いてある。


俺が赤い粉が入った瓶を手に取ると、

「それは怒りの感情スパイスだ」

とおばさんは言った。

「それを食べ物に振りかけて食べると、食べた人はたちまち怒りに心を支配されてしまうんだ」

「ふーん。なるほど」

と俺は適当に相槌を打った。

俺はおばさんの話を信じていなかったのだ。

それがおばさんにも伝わったようで、

おばさんは不服そうに顔を歪めた。


「しょうがない。実際に使っているところを見せてやる」

そう言っておばさんは俺から瓶を取り上げると

隣に置いていた大きなバックからキャットフードの袋を取り出した。

袋からキャットフードを一つかみすると、

そこに瓶の中の赤い粉をさっとかけた。


「ほら~猫ちゃんたち。餌の時間だよ~」

手を添えておばさんがそう言うと、

野良猫たちが集まってきて、

手の中のキャットフードを食べ始めた。


異変は少し時間が経ってから起こった。

さっきまでおいしそうにキャットフードを食べていた猫たちが、

急にシャーっという声を出しておばさんに威嚇し始めたのだ。

一匹の猫が他の猫をひっかいたことを皮切りに、

野良猫たちは一斉に喧嘩を始めた。


おばさんは次に青い粉をキャットフードにかけて

そのキャットフードを猫たちにばらまいた。

猫たちがそれを食べだすと、

さっきまで喧嘩していたのが嘘のように

おとなしくなり、悲し気にしょんぼりしながら

野路裏の向こうへ去っていった。


「こんな感じさ。もちろん人間にも効果がある」

とおばさんは言った。

俺はそれを見て「ふむ」と悩まし気に声を出した。

少し買ってみてもいいかもしれないと思ったのだ。

「なんだ、欲しいのかい?」

とおばさんは言った。

「実は俺、近くでラーメン屋さんを営んでましてね、最近客があまり来なくて悩んでいたんですよ。実は今日もそのために色々と新しい食材を買いあさってたんです」

「なるほど。それでこのスパイスを使って新しく売れそうなメニューを作ろうと考えているわけか」

「その通りです。このスパイスを使えばどこの店にもない独自のラーメンを出すことができる。そしたら、客足も伸びるかもしれない。うん。良い考えな気がしてきたぞ。おばさん。このスパイスは一ついくらなんですか」

「…これは一瓶1万円だよ」

俺はその額を聞いて驚いた。

「この小さな瓶が一つ一万円?高いですね」

「簡単に手に入るものではないのでね。嫌なら買わなくて結構さ」

おばさんにそう言われ、俺はしばらく悩んだが、結局買うことにした。

「わかりました。買います。けれどその前に、瓶の種類ごとの効能を教えてくれませんか」

そう言うと、おばさんはそれぞれの瓶を順番に指さして

「赤い粉は怒り、青い粉は悲しみ、緑の粉は寛大、黄色い粉は喜びの感情を引き起こす。そんなところだ。好きなものを選ぶといいさ」

と言った。

「おばさん、一つだけ説明がなかったんですけど…」

と言って俺は黄色い瓶の横に置かれている虹色の瓶を指さした。

おばさんがそれを見て気乗りしない顔で「ああ」と言った。

「そいつは幸福な気持ちを引き起こす粉さ」

「幸福?それはすごいですね。今聞いた中だとこの粉が一番欲しいかもしれない」

「ただ、この粉は他の粉より高価なんだ。3万円だよ。それでも買うかい?」

「さ、3万…」

俺はその値段に怯み、またしばらく悩んだ。

こんな高い買い物をして妻に怒られないだろうか。

いや、しかしこのスパイスを使ってラーメンを作ればかなり話題になるぞ。

うーん。どうしたものか。


数分考えたのち、

俺はもうどうにでもなれという気持ちでこのスパイスを買ってしまった。


買ったのは、

寛大な気持ちを引き出す緑色の粉と

喜びの気持ちを引き出す黄色い粉、

それと幸福な気持ちを引き出す虹色の粉だ。

ネガティブな感情を引き出す赤い粉と青い粉については、

使いどころが思い浮かばなかったので買うのをやめた。


俺は3つの小瓶を買い物袋に入れておばさんに背を向けた。すると

「ああそうだ」

とおばさんは何かを思い出したかのように声を出した。

「なんですか?」

そろそろ帰りたかった俺は気だるげに振り返ってそう言った。

「絶対に、用法用量は守って使うんだよ」

とおばさんは言った。

なんだ、そんなことかと俺が思っていると、それを見透かしたように

「とても重要なことさ。忘れるんじゃないよ」

とおばさんは念を押して忠告した。


家に帰ってくると

俺はさっそく感情スパイスを使ってラーメンを作ることにした。

鍋に水を入れて、沸騰させた後、

鰹節、干しシイタケ、鶏がら、昆布、煮干しなどを鍋に入れて出汁を作る。

出来上がった出汁に醤油、みりん、塩、などの調味料を入れて味を調える。

そこに茹でた麺を入れて、チャーシュー、メンマ、煮卵、刻んだネギを添える。

完成したラーメンに今日買った寛大の感情スパイスをさっと一かけした。


うん。われながらいい出来だ。

おばさんの言っていた通り用法用量は守ったし、完璧だろう。

自分の作ったラーメンに感心していると、妻が厨房にやってきた。


「ちょっと、あなた。また靴下の裏表を反対にして洗濯機に入れたでしょ。もう何回言ったらやめてくれるのよ。ちょっとはこっちの苦労も考えてちょうだい」

不機嫌そうな妻を見て、俺はニヤッとした。

きっと妻が今、このラーメンを食べたら効果てきめんだろう。

「ああ、悪いことをしたね。次からはちゃんとやるよ。それより、今新しく作ったラーメンの試食をしようかと思っていたところなんだ。よかったら君が食べてみてくれないか?」

そう言って俺はラーメンのどんぶりを彼女に向けた。


なによもう忙しいのに、と文句を言いながらも妻は食べること自体は拒まなかった。

きっとお腹が減っているんだろう。

彼女は割りばしを割ってラーメンを一口、二口とすすった。


食べていくうちに妻の態度が徐々に変わっていった。

さっきまでの不機嫌そうなオーラは消えて、おとなしくなったのだ。

「…やっぱりあなたのラーメンはおいしいわ」

もぐもぐと咀嚼しながら彼女は言った。

「さっきは強く言っちゃってごめんなさい。あなたも毎日頑張ってるものね。疲れてる時だってあるでしょうし、うっかり靴下の裏表を逆にしちゃうことくらいあるわよね。干すときに私が戻せばいいだけだもの。やっぱりそんなに気にしなくていいわ」

と彼女は優しい口調で言った。

あまりの変わりっぷりに俺は驚いた。

「あ、でも一つだけ注意させて。あまり夜更かしはしないでね。あなたが夜遅くまでラーメンの研究をしていることは知っているわ。頑張っているあなたを見るのは私もすごく誇らしいのよ?けど、そうやって睡眠時間を削り続けた先で、あなたが体調を崩して自分の人生を台無しするようなことがあってほしくないの。今日は少し早く寝ましょうね」

妻は優しく微笑み、「それじゃあね」と言って厨房を出ていった。

俺は胸がじんわりと温かくなり、

明日から二度と靴下の裏表を反対にして洗濯機に入れたりしないぞと誓った。


なにはともあれ、感情スパイスで作ったラーメンはなかなかの出来のようだ。

これならお客さんに出しても文句は言われないだろう。

翌日俺は、さっそく

・優しくなれるラーメン

・喜びがあふれるラーメン

・幸福になれるラーメン

の三つの新メニューをメニュー表に追記して店を開けたのだった。



一か月後、俺は上機嫌でニコニコしながら路地裏の感情スパイス屋に訪れていた。

「やあ、おばさん。久しぶりです」

俺は満面の笑みでおばさんに手を振った。

そんな俺をおばさんは無表情で見上げた。

「また来るだろうとは思っていたが、ずいぶん早く来たね。ラーメン屋の方が上手くいったのかい?」

「おかげさまで上手くいってます。すごいラーメン屋があるってネットでバズりましてね、それから営業している日は店の前で長蛇の列ができちゃってもう大変なんですよ。嬉しい悲鳴ってやつですね。昨日なんてテレビスタッフの人が取材に来たりして、来週うちのお店がテレビで流れるみたいなんです。いやーもう上手くいきすぎてて笑いが止まりませんよ。それもこれも、この感情スパイスのおかげですね」

「そうかい。それならよかったよ」

「はい。お客さんには幸福な気持ちになれる虹色のスパイスが一番評判がよくってですね、みんなそればっかり頼んでいくんです。それで、その虹色のスパイスだけ切れてしまったので、それを買い足しに来たんです。おばさん、幸福の感情スパイスを3個ぐらい買ってっていいですか?」

そう言うとおばさんは俺の顔をじっと見た。

「別にいいが、あんたちゃんと用法用量は守っているかい?」

「…もちろんですよ」

俺はおばさんから目をそらして言った。

実を言うと今はもう用法用量を守っていなかった。

お客さんは最初こそは規定量のスパイスで満足してくれていたが、

二度、三度と同じラーメンを食べているとお客さんは徐々に幸福を感じなくなっていったのだ。

そのせいで一時期客が少なくなったことがあった。

その状況を打破するため、振りかけるスパイスの量を規定量よりも多くしたところ、

客は再びうちの店に来てくれるようになった。

今後、また集客率が悪くなったら

さらに振りかけるスパイスの量を増やさなきゃいけないだろう。

少し後ろめたい気持ちはあるが、これはしょうがないことだと思う。


「あ、そういえば今朝おかしなことがありまして…」

気まずくなった俺は話をそらすことした。

「なんだい?」

おばさんは俺の新しい話題に食いついた。

「うちの妻がですね、朝ご飯を食べたら食器を洗えとか、布団はちゃんとたためとか、些細なことにものすごい形相で怒ってくるんです。その怒り方が何というか、常軌を逸してまして。今から家に帰るのがすごく億劫なんですよね。どうにかして機嫌を取りたいんですが、何が原因で不機嫌になっているのか全くわからないんです」

おばさんはその話をとても興味深そうに聞いた。

「あんた、その奥さんに寛大の感情スパイスを食べさせたりしたかい?」

「はい。食べさせましたが、それがどうかしましたか?」

おばさんはすべてを察したようにははっと笑った。

「おそらく感情スパイスの副作用だね。あんた、毎日規定量以上の感情スパイスを奥さんに食べさせていたんだろう?寛大の感情スパイスを食べすぎた人は、反動で怒りっぽくなってしまうのさ」

その話を聞いて謎が解けた俺はなるほどなと思った。

確かに俺は妻に優しくされたくて、

あれから毎日寛大の感情スパイスを食べさせていた。

まさか副作用なんてものがあるとは。


そこで俺は一つ疑問が湧いた。

そうすると、幸福のスパイスを食べすぎているお客さんにも

今後副作用が出てくるということになるのだろうか。

「幸福の感情スパイスは食べすぎるとどんな副作用があるんですか?」

と俺はおばさんに聞いた。

「幸福の感情スパイスの副作用はね…」

おばさんは片方の口角を上げてニヤッとした。

「絶望だよ。感情スパイスで幸福を感じすぎた人間はその分だけ絶望してしまうのさ」


翌日、テレビで大きな報道があった。

俺が住んでいるこの町の周辺で、100件以上の自殺が相次いで起こったらしい。

うちの店によく訪れていた客の人数とちょうど同じくらいの自殺者数だが、

多分何かの偶然だろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

感情スパイス 終電宇宙 @utyusaito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ