7-2 ただの約束
ジンの傷はあまりひどいものではなく、医者もおとなしくしていればだいじょうぶだと言った。その言いつけを守り、下宿でおとなしく過ごし始めて三日が経っている。ヘテヤがお見舞いに来て、ジンに抱きついて大泣きしたというのを、あとから聞いた。
ウルカは、毎日ジンのところに通っていた。ジンにも、みんなにも迷惑だとはおもうけれど、ジンに会いたかった。いつも顔を出すウルカを、ジンたちは快く迎えてくれた。
ジンを傷つけた人は、すでにその場で捕らえられていた。街の人たちは、「売国奴の犬」を少しずつ殺していく計画だったんだなどと言っているけれど、正式な発表は何もない。
そして見慣れない制服を着た人たちが、街を巡回するようになった。コダコ王国の役人らしい。盟友であるサンセクエの王都、ガルパの人々の暮らしを守るためにやってきたのだと、筋骨隆々という感じの人が高らかに挨拶しているのを見た。それについては、国王からも民衆へのお知らせがあったようだ。大部分の人たちは流血沙汰が起こって不安を抱いていたから、コダコからの応援を支持していた。
公示係に刃物が向けられたという事件は、街の人たちにとっても衝撃的だったらしい。ジンのところを訪ねてくる人もいたようだ。下宿の周りをうろうろしている人もたまに見かける。ウルカを見るとぺこりと頭を下げて去っていくので、よからぬことを考えているわけではなさそうだが、何がしたいのかよくわからない。
ウルカも、街を歩くとちらちら見られたりひそひそ噂されたり、声をかけられたりすることがある。ジンのところへ行くときは、差し入れを持たされることもある。
どうやらウルカは、公示係の恋人ということらしい。なんでも、亜麻色の髪をした恋人は現場に駆けつけると、公示係を抱きすくめて熱烈に愛を叫んだそうである。それまで瀕死の状態だった公示係は、その声で息を吹き返したのだそうだ。
とてもすてきだとおもう。気にしても仕方のないことだ。どうせみんな、すぐに忘れる。誰も、いつまでもそんなことを言っていられるほど暇ではないのだ。
今日もジンを見舞いにやってきたウルカは、ネイレとチャミンに迎え入れられて階段を上った。いちばん端の部屋の戸を叩くと、返事があって中から戸が開いた。
「こんにちは」
ウルカはぺこりと頭を下げた。ジンが笑う。
「もういいよ、勝手に開けて入ってきても」
「それはだめ」
「なんで?」
なんで、ではない。そういうこと言うのはおかしいとおもう。傷については、見せろとか包帯を巻き直すとか言ったら拒否するくせに。戦場にいたときやっていたから、慣れているのに。こっちは心配しているのに。無言で不満を表明していると、また笑われた。ウルカはふいと顔を背けて部屋に上がり込んだ。
「今日はどう?」
聞きながら寝台の横に置いてある椅子に腰かける。ジンの部屋には寝台しかなかったので、ウルカが訪ねるようになってからドゥイルが貸してくれた椅子だ。
ジンは寝台に座ってこたえた。
「変わらず元気だよ。もうだいじょうぶ。そろそろ仕事もできるかな」
傷には包帯が巻いてあるだろうけれど、見ただけではもうわからない。痛そうにしている様子もないし、ひどくなっていることもなさそうだった。でもウルカは首を振った。
「無理しちゃいけないよ」
ジンはうなずいて言った。
「無理してないよ。たぶん、期限通りに返せるとおもう。無理でも質料は払えるから、あの時計、まだ預かるってことにしといてもらえる?」
何を言っているのかわからなかった。貸したお金と質草の時計のことを言っているのだとわかったとき、急に息が詰まった。仕事を休んでいるあいだの手当てなどは出ないようで、そのせいでお金の心配などしているのだ。
「……いいよ。特別扱いはしないけど、決まりどおりなら、質流れにはしない」
ウルカは言った。ぶっきらぼうな口調になってしまった。
「ありがとう」
ジンは何か満足そうに笑う。ウルカはため息をついた。
「公示係、やめないの」
ウルカはたずねた。ジンが休んでいるあいだ、公示は貼り紙で代用されている。それができるのに、国王は、今回のことがあったから公示係の地位の向上をはかると言い出した。制服など貸与するそうだ。その前に、見舞金くらいよこせとウルカはおもう。ほかの地区の公示係は新しい人になるらしいが、ジンはやめないと言っていた。またあんなことがないとも言えないのだから、ウルカはやめられるならやめてほしかった。
「やめないよ」
ジンはあっさりとそうこたえた。
「公示係って伝統のある仕事だから、廃止するわけにはいかないんだって。残ってくれたら助かるって言われたし。ドゥイルだって役人だし。まあこのくらいのことでやめることもないかなって」
このくらいのこと。
このくらいのこと?
ウルカは膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。叫び出してしまいそうで、顎を引く。
「このくらいのことじゃない」
低い声が出た。
「このくらいのことじゃないよ」
ジンは黙っている。ウルカは震えるように息を吸った。
「もしかしたら死んじゃってたかもしれないんだよ。このくらいのことじゃない」
本当に、怖かったのだ。死んでしまいそうだった。
「なのにそんなこと言うのおかしい。自分のこと大事にしてほしい」
ジンは、返事をしなかった。はっとして、顔を上げる。
瞬間、ずきりと鈍い痛みが、ウルカを穿った。
ジンは、あの顔をしていた。
何をそんなに必死になっているんだと、遠くから森閑と観察しているような、あの顔だった。
虹をとかしこんだような瞳は、きらめきもなくただその神秘的な色だけを宿して。
はるか遠くから、ウルカを眺めていた。
その目を、正面から見てしまったら、そんなふうに見られてしまったら。
悟らないわけには、いかなかった。
もう、できない。
やっぱりそうなんだと、おもわないでいることなんて。
そうだ。
やっぱりそうなんだ。
これが、この人なんだ。
この人は、嘘つきなんだ。
全部、嘘なんだ。
おどけたような口調も、明るい声も、柔らかな微笑みも、朗らかな笑顔も。言ってくれた、言葉も。
救われなきゃいけない。
救いになりたい。
嘘だ。
本当は、どうでもいいんだ。
人のことなんてどうだっていいんだ。
自分のことも、死ぬほどどうでもいいんだ。
どうでもいいともおもってないくらい、どうでもいいんだ。
それなのに、嘘をついてるんだ。
ずっとずっと、嘘をついてるんだ。
この人はわたしと、反対だ。
救われたくて。救いたくて。でも人間じゃないからとおもって。
全部どうでもいいふりをしてた。
この人は。
全部どうでもいいのに、救われたくて、救いたいふりをしてる。
人は救われなきゃいけないって、おもい込もうとしてる。
だからわたしみたいな人間のことをずっと、助けようとしてくれてたんだ。
本当は。
救われなきゃいけませんかって、おもってる。
みんなのおもう救いは、この人にとっての救いじゃないから。
ひとりで抱え込まないでとか。気持ちを隠さないでとか。
そんなこと言われても救われない。
誰かが嘘を見破って、嘘なんかつかなくていいよって、納得させなきゃいけない。
どうして。
どうしてそんなに嘘をつくのって。
わかる。
人間じゃないからだよね。
人間じゃないやつは、きっと人なんて、自分なんてどうなったっていいんだもんね。
そう、だからわたしは、人間じゃないやつらしく生きようとして、何にも関心がないふりをしてたんだ。
ジンは、逆なんだね。
本当に何にも興味がないから、人間じゃないから、人間らしく生きなきゃって、おもったんだね。
わかってしまった。
どこかで、ずっと前から、知っていた。
初めてジンを見たときの、そのときの顔を、覚えている。
今と、同じ顔だった。
そのときウルカは、長椅子に寝転んでいて。ジンはそばにしゃがんでいて。ウルカを見ていた。
死んだように眠りこけていたウルカを、ジンはどこか超然としてその目に映していた。目を開けて最初に見えたのはその顔だった。そのあと急に、立ち上がってぺらぺらと喋り出した。嘘の仮面が一瞬はがれて、急いでつけ直したのだ。
そのとき、ジンがぱちりとまばたきした。
「あ、ごめん、ウルカの言うとおりだ」
ジンはつぶやいた。
「これくらいのこととか、言っちゃいけないよな」
いつもの笑顔を浮かべる。
ウルカは立ち上がって、笑うジンを抱きしめた。
「えっ? ウルカ?」
ジンがうろたえたように声を上げたけれど、ウルカはかまわなかった。
嘘なんかつかなくていいって、言えればいい。
本当のジンでいればいいって、言えればいい。
救われてもいいよって。
でもそんなこと言ったら、本当にそうしてしまったら。
きっとそのまま、遠くにいってしまうよね。
嫌だよ。
そんなの嫌だよ。
ジンはわたしを救ってくれたけど、わたしはジンを救えない。
楽にはしてあげられない。
嫌だから。
一緒にいたいから。
離れたくないから。
離したくないから。
ごめんね。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
「ジン、ねえジン」
ウルカはジンの髪に頬を寄せて呼んだ。
「どうした?」
「ねえ、ジン」
腕にぎゅっと力を込める。
「ジンはこのままでいて」
「ウルカ……?」
「ジンはずっとこのままでいて」
ウルカは繰り返した。
「ジン、ずっとこのままでいて」
「……うん。わかった」
「約束して」
「約束する」
嘘つきの、ままでいて。
救われないで。
一生ずっと、救われないで。
遠くに、いかないで。
〈了〉
虹の表層、蒼の深奥 相宮祐紀 @haes-sal
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