7. 虹の深奥
7-1 静寂の音
サンセクエのこの季節にしては珍しく、今日は明るい。頭上に蓋をしたような雲が少し切れて、青い空がのぞいているのだ。そこからそっと手を差し伸べるように、やわらかな光が差し込んでいる。
そんな昼時、ウルカはピョルダルの店にいた。自分の店はいったん休みにしている。今日はここで、ジンと会う約束をしていた。会うといってもジンも仕事の休憩中だから、少し話をするだけだ。でも初めてのことだから、なんだか落ち着かない。
「お姉さん、逢い引き?」
「あぁいっ?」
すっとんきょうな音が自分から出てきて、ウルカは軽くぞっとした。動転の原因をたたき出した人は、くすくすと笑っている。
「そわそわ外を見てるから、そうかなって。楽しみね」
「よかったね」
「見といてあげるからね」
ほかの人も首を突っ込んでくるから、否定する機会を逃してしまう。
「えぇえっと、はい……」
ウルカは縮こまりながらそう言ってしまった。どうしよう。誤解である。今すぐ違うと叫んだほうがいいのだろうか。でも、そんなにむきになることなのか? ウルカの苦悩をよそに、周りの空気はなんとなくぬるくなっていた。ウルカはもうあきらめ、何も考えないことにした。
まとめた髪が落ちてきていないか、触って確認する。従軍していたとき自分でてきとうに切っていたし、髪をひと房くれと頼まれることもあったので、ときどき短い束がある。それで、結んでも勝手に落ちてくることが多いのだ。ちゃんと丁寧に、揃えて切っておけばよかったなと、今更ながらおもう。でもとりあえず今は、なんとかだいじょうぶそうだった。
座り直して、外を見る。ひさしぶりの素直な光にほんのりと照らされた道を、人々が行き交っている。でも、ジンがやって来る気配はない。まだかな、と口の中でつぶやく。早く来ないかな。
「クェパさまは血に染まった大地に倒れた人々を、どんな身なり、どんな色の髪や瞳であろうとお救いになりました」
店の奥で、誰かが周りの人たちに語り聞かせている。
「お召し物や亜麻色の御髪が血に汚れようとも、厭うことはありませんでした。人々の体は滅びかけていましたが、心は重荷を下ろし、希望でいっぱいになりました。そうです。クェパさまは人々の魂を、お救いくださったのです」
そのときだった。
大きな音を立てて、扉が開いた。人のぬくもりが満ちた店の中に冷や水のような風が吹きこみ、急速に冷ます。みんな口を閉ざして一斉に扉のほうを見た。
駆け込んできたのは、十歳くらいの少女だった。客たちが静まり返る中、脇目もふらずに奥の台所へ向かっていく。少女が目の前を通るときウルカは、彼女が真っ青な、泣き出しそうな顔をしていることに気づいた。ウルカはつい手を伸ばして、少女の腕をとらえていた。
「どうしたの」
ウルカはたずねた。
「だいじょうぶ?」
店の中に、自分の声が広がっていくのを聞きながら、ウルカは少女を覗き込んだ。少女は、大きな目でウルカを見た。ふるりと、掴んだ細い腕が震える。
「さされた」
少女はぽつりと、言葉をこぼした。少女のほうへ、熱が集まるのがわかった。
「公示係のお兄ちゃん、刺された」
さされた。
公示係のお兄ちゃん。
刺された。
それって。
すうっと頭が冷たくなる。身体の中心で包まれていたものが、地面に落ちてくしゃりとのびる。周囲が騒がしくなる。みんな何かを言っている。それをひとつの音として聞きながら、こんなことってあるんだ、とどこか冷静におもっていた。
少女は力が抜けたウルカの手から離れ、ピョルダルがいる台所へ駆けこんでいく。
ウルカは立ち上がった。店を出た。ピョルダルの店に来る前にジンが仕事をする三つ目の公示場所は、ヘテヤとディーオの店のそばだったはずだ。ウルカは足を動かした。
刺されたって、何。刺されたって、どういうこと。誰がそんなことをしたの。虫なの。虫に刺されたんでしょ。
何ひとつおもいどおりにいかない夢の中みたいに、身体がうまく動かない。自分の遅い歩みにいらいらする。気持ちばかりが前に出て、固まった体とどうしようもない齟齬が生まれている。不意にうしろがざわざわし始めたとおもうと、制服姿の巡察官たちが列をなしてウルカを追い抜いていった。
目の前が白くなる。きよらかで柔和な日差しに視界が白む。景色が、やけにくっきりと見えたり白に吞まれたりして、頭がぐらぐらする。手足がほかの何かにもてあそばれているみたいに、制御不能になっている。見えないものに四方から圧迫されている。潰れる。すりつぶされる。
怖い。嫌だよ。たすけて。
たすけてよ。
誰かがどこかから何かを言っていた。誰かに何度か触れられた。何かにぶつかって、白の合間に何度も地面が見えた。人だかりがあった。恐怖と好奇心の入り混じった、胸の悪くなる匂いがした。ウルカは人々の中に倒れるように突っ込んだ。ざわりと声が上がった。どこかから呼ばれた気がした。とにかく人をかき分けて進んだ。見つけた。巡察官に囲まれた、ジンがいた。
地面に座り込んで毛布がかけられたジンを、ひとりがうしろから支えている。ジンは前に膝をついている巡察官と、何かを話していた。ぐにゃりと、視界が歪んだ。
「ちょっと!」
「お嬢さんだいじょうぶ?」
「死んだ?」
「しっかりして!」
上から声が降ってくる。上から。転んでしまったんだ。ああ、立たないと。行かないと。それなのに、意識がどこか別の場所へ引きずられていく。そのとき、聞こえた。
「ウルカ?」
目の前がひらける。巡察官にもたれたジンが、こちらを見ていた。驚いたように目を見開いている。少し顔が青白くて、でも、ちゃんと話している。ウルカのことを呼んでくれる。
ウルカはジンに駆け寄ってすがりついた。血の匂いがする。でも、あたたかい。やわらかい。心臓が動いている。規則正しい音が聞こえる。
「ウルカ、なんで?」
ジンの戸惑ったような声がすぐそばで聞こえる。なんでだってかまわない。ジンがここにいるからそれでいい。しばらくするとジンの手が、ウルカの頭を撫でた。大きくてやさしかった。ウルカは目を閉じて、ジンの音を聞いていた。
「困るぞ、離れなさい。公示係どのはけがをしている」
まじめくさった口調で誰かが言う。うるさい、と一瞬おもったウルカは、急に正気に戻った。弾かれたようにジンから離れる。さあっと血の気が引くのを感じる。何も考えられなくなってしまっていた。けがをしているのに飛びついて、痛かったはずだ。
「どこ? どこがけが……」
ジンが困ったように笑ってわき腹を押さえた。毛布がかけられていてわからない。ウルカがめくろうとすると、ジンにやわく手を掴まれて止められた。ウルカに触っていないほうの手が、赤く濡れていることに気づく。分厚い毛布と灰色の石畳にも、かすれた血の色が見えた。
「ちょっとな、なんかかすっただけだよ」
ジンはなんでもなさそうに言った。
「なんかかすったって、けっこう流血してるじゃないですかあなた……」
うしろから支えていた人が、あきれたような声を上げた。ジンは、血の気が多いみたいです、とかなんとか言ってへらへら笑っている。
「あっ、医者が来た」
周りで見ている人たちのあいだから、白い服を着た医者が現れた。よく見ると、人々は剣を持った巡察官たちにそれ以上近づかないように抑え込まれている。ウルカは自分がそれをかいくぐってジンに突進したことをおもって、背筋が寒くなった。
「きみはずいぶんお知り合いのようだが、少し下がっていなさい」
巡察官に言われ、背後から引っ張られる。そうだ、応急処置の邪魔をしてはいけない。巡察官たちの防衛線のうしろまで下がったところで、ジンがウルカを呼んだ。目が合うと、ジンはやわらかに微笑んだ。
「だいじょうぶだから」
ウルカはうなずいた。頬に当たる風がやけに冷たく感じられて、泣いていたことに気づいた。
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