6-4 穏やかな拒絶

 ジンが取り囲まれて罵倒されてから、街で巡察官の姿を見かけることが多くなった。あの出来事は、渦中にいた人たちが「公示係にもの申してやった」という武勇伝として語ったらしい。巷であっという間に広まり、ウルカのところにも尾ひれがたっぷりついた状態でまわってきた。公示係が泣き出したとか、逃げ出したとか、誰かが公示係を殴ったとか、刃物が飛んだとか。

 全部嘘だ。ジンは泣いても逃げてもいないし、殴られてもいない。飛んだのは刃物ではなく、魚だ。

 噂は見回りの巡察官たちに聞かれないようにこっそりと、おもしろおかしく、語られていた。堂々とジンを侮辱しようとする人はきっともういない。でも、多くの人が、同じ話を共有して連帯感を持って、「犬」をじろじろと見ているのだとわかる。

 さっきは、聖殿の前で知り合った人たちと話していたら、その話題が出た。純粋に祈りを捧げていた人たちは、どこか、下卑たとも言える笑みを浮かべて公示係のことを話した。

 だからウルカは、にっこりと笑ってその場を去った。濃厚に微笑むウルカを見て、みんな少し面食らったように口をつぐんでいた。

 わたしごときの顔を見て黙らなきゃいけないようなこと、最初から言うな。

 ウルカは、こぶしを握りしめて早足で歩いた。

 みんなジンの笑い声に気圧されて黙り込んだくせに、誰もひとりじゃ何も言えなかったくせに。

 本当はサンセクエ王国がどうなったって、みんな自分が生きていければそれでいいはずだ。ネイレもチャミンも、みんな国がコダコに乗っ取られるかもしれなくて不安だから暴れだすんだろうと言っていたけれど、違う人もいるはずだ。

 国の在り方などなんでもいい。何か明るい先が見えればいい。でも何も見えない。失いすぎて、変わりすぎて。だから、どうしたらいいのかわからない。国を守り切れず立ち直らせることもできない王族と、その下で働く人たちへの不満と不信だけが、戦争から時間が経つほどにじわじわと、大きくなって。

 あの日、船の上からあの人が火種を落とした。だから喜々として燃え上がった。今も消えずにくすぶっている。表向きは静かになっているけれど、まだ燃えている。ずっと。

 船の上から最初に叫んだ人以外は、誰も売国奴とか売国糞野郎とか、議会のこととか言っていなかった。大部分の人は、王国の行く末を憂えているのではないのだと、ウルカはおもう。腹の底にわだかまる、それぞれのおもいの代わりにきっと、ジンを罵っていたのだ。そうするしかないのだ。でも。悔しくて、喉の奥がただれていくようで。

 そんなに不満なら、反乱でも起こして王宮を焼いてみろ。王も王女も、みんな大好きな犬どもも、皆殺しにしてみろ。

 ウルカは立ち止まった。

 頭の中が熱くなっている。身体の内側はぐらぐらと煮えて、そばを通る人すべてが憎らしく感じる。もう少しで、手当たり次第に掴みかかって揺さぶって泣き出しそうな気がする。だめだ。こんな状態ではだめだ。

 ウルカは道の端によけて冷たい空気を吸い込んだ。臓物が凍りそうな鋭さに、少し冷静さを取り戻す。

 わたしだって、同じだ。

 ウルカは何度か深呼吸を繰り返した。


 『わたしたちは勝つよ。だってクェパさまがついててくださるもん』

 シルーナの声をおもいだす。シルーナはいつも笑顔だった。だからきっと、みんなに好かれていたのだ。もう少しで殺されるというときでさえ、笑ってウルカを励ました。

 負けたよ。

 ウルカはゆっくりと歩き出した。

 負けちゃったよ。こんなに荒れてるよ。みんな言いたくて言えないことでいっぱいで、吐き出せそうなところを見つけたら喜んでそこに押しかけるよ。

 でも。

 違うんだ。

 わたしはそれのためにこんなに怒ってしまってるんじゃないんだ。そんなことが、こんなに怖いんじゃないんだ。

 ねえ。

 どうしてシルーナは、いつも笑ってたの?

 「おや、ウルカ」

 ウルカははっと立ち止まった。

 通り過ぎようとした建物の中から、ピョルダルが顔をのぞかせている。ウルカはしばらく呆然とピョルダルを見つめた。

 「どうした、青い顔して」

 ピョルダルの不思議そうな声で我に返って、あわてて頭を下げる。

 「おはようございます、ピョルさん」

 おはよう、とのんびりこたえたピョルダルは、ウルカに手招きした。

 「ちょっと店をさぼりなさい」

 「ピョルさん」

 「今誰もいないから、いいものをあげよう」

 おっとりとした口調は、まったく圧がないのに有無を言わせない何かがあった。ウルカは素直に店に入った。

 暖炉に火が焚かれた店の中はあたたかい。遊び心を感じるばらばらな椅子と机の組み合わせは、単にちゃんと揃える資金がなかったせいだとピョルダルは言っていた。

 入り口のすぐ近くに、ちびちびと何か飲んでいる年配の男性を見つける。誰もいないと言ったのに。ウルカがちらりと見ると、ピョルダルはひげの奥の口元をかきながら言った。

 「あの人は空気」

 ちょっと意味がわからない。男性はちっともこちらを見なかった。

 ピョルダルは足を引きずりながら店の奥へ進み、壁際の椅子をゆびさした。

 「まあ座りな」

 そして客のいる場所からは見えない台所へ入っていく。ウルカは示された椅子に浅く腰掛けた。

 ピョルダルの店に初めて来たのは、二年前にガルパにたどり着いたばかりのときだ。日差しの強い季節だった。ピョルダルはなぜか、店の隅でもそもそと魚を食べていたウルカに話しかけてくれた。今住んでいる半地下の部屋を紹介してくれたり、いちばんに店に来てくれたりした。ピョルダルには、初めて来た日にいろいろすべて話している。嫌だとおもう暇もなく、洗いざらいぶちまけていた。聞かれてしまったものはもう、しょうがない。

 それから二年くらいご無沙汰していた。ひさしぶりに来てみると、ピョルダルは顔色よくなったなと言って迎えてくれた。ピョルダルは二年のあいだ、ウルカがどうやら生きているらしいということは知っていたと言った。

 それからはときたま顔を出す。ジンも毎日来ているらしいから、出くわすのがなんとなく恥ずかしくて、時間は選んでしまう。ウルカもここに来ることがあると言ったら、待ち合わせようとか提案してきそうで、まだ言えていない。自分でも、それは考えすぎだとおもうけれど。

 ピョルダルは器をひとつ持って出てきた。

 「病人は葡萄酒をどうぞ」

 さっぱりとしているけれど深い、奥ゆかしい香りがする。葡萄酒を香りづけしている香辛料の匂いだ。器の中で、鮮やかな赤紫が悠然と白い湯気を立ちのぼらせている。

 「あの、わたし病気じゃないです」

 ウルカはお礼の前にそう言ってしまった。ピョルダルが首を傾げる。

 「そうか。顔色が悪いからつい」

 ウルカは自分の頬に触った。

 「まあなんでもよろしい、飲みな」

 ピョルダルが考えるのが面倒という口調で言う。あたたかい葡萄酒を飲むと、身体の中の氷がゆるやかにとけていく気がした。ささくれていた心がなだめられる。ウルカは机にもたれて立っているピョルダルを見上げた。

 「ピョルさん」

 「うん?」

 「ピョルさんは、ジンのこと前から知ってるんですよね」

 まだ本人に向かって呼んだことはないけれど、お客さん、とも呼んだことがないけれど、ほかの人の前では、ジンと言える。

 「知ってるよ。十六のときに初めてうちに来た」

 「その前は何してたとかも、知ってますか」

 ピョルダルなら、ジンのことも詳しく知っているような気がした。ピョルダルは目をしばたいた。

 「うん。よく知らんな」

 「知ってるでしょピョルさん」

 突然、ピョルダルがウルカをしっかりと見る。奥をのぞけないような深い色の目が、ウルカを黙らせた。

 「知ってても話さんよ」

 ピョルダルは穏やかに言った。

 「なんでもかんでもぺらぺら喋る軽薄爺さんとおもわれるのはかなしいからな」

 ウルカは急に恥ずかしくなってうつむいた。確かにピョルダルに聞くのは、間違っているとおもう。

 「ごめんなさい」

 「いや。わしの見栄だよ」

 ピョルダルはゆっくりウルカの向かいの椅子に腰を下ろした。

 「あの子な」

 ひとり言のようにつぶやく。

 「ごく普通の子だよ」

 ウルカは机の上に置かれた、ピョルダルの手を見た。しわと傷がたくさん刻まれている手だ。

 「仲良くしてやってちょうだい」

 ピョルダルが言う。ウルカはうなずいた。

 「……あらま」

 急にピョルダルがかわいらしい声を上げる。

 「あれをやらないと、あれを」

 何かおもいだしたらしい。ピョルダルはよっこらしょと立ち上がり、ひらひらと手を振りながら言った。

 「ゆっくりしていきな」

 杖をつき片足を引きずって、台所に入っていく。




***




 その日も、ジンはやってきた。呼び鈴を鳴らしてから、大声で挨拶した。扉を開けておつかれさまと言うと、ありがとうと笑う。いつもどおりだ。

 また新しいものを買った薬草茶を淹れながら、ちらりとジンを見る。机を挟んだ向かい側で長椅子に座ったジンは、自分の靴でも気になるのか熱心に足元を見ていた。

 ウルカは机に手をついて身を乗り出した。

 自分から話しかけることはあまりないから少し緊張してしまう。でも、そんなに気を張るべきことを言うわけじゃないし。ウルカはたずねた。

 「何見てるの」

 ジンはすぐに顔を上げて、こたえてくれるとおもった。

 でもジンは、返事をしなかった。聞こえなかったのだろうか。ウルカは声を張ってみた。

 「何見てるの?」

 部屋に声が響いた。そして、暖炉で火花が弾ける音が聞こえた。遠くから、たがが外れたような笑い声が聞こえた。ジンは下を向いたまま、こたえない。

 ウルカは焦った。何かがおかしいとおもった。そのときに、おもいだした。ネイレが言ってくれたことがよみがえった。今日聞いたばかりのピョルダルの声も。何かがおかしいけれど、おかしくたってかまわない。助けに、なりたい。

 ウルカは口を引き結んで、ジンの横に回り込んだ。少しあいだをあけて座る。そのとき、ジンが顔を上げた。

 びくりとしてのけぞるウルカを見て、ジンは目を丸くする。

 「あっ? どうした?」

 ごく普通にそう問われて、ウルカは口ごもった。

 「えっ、えっと、その」

 「ごめん、ぼうっとしてたかも」

 ジンは頭をかきながら言った。

 「ウルカ、なんか言ってた?」

 ウルカは首を振った。

 「なん、なんでもない」

 「そう?」

 ジンは首をひねっている。ウルカは長椅子の端のほうに座り直した。驚きすぎたのか、心臓がどくどくと高鳴っている。

 「なあ、だいじょうぶ?」

 ジンに聞かれてしまった。

 「やっぱりなんか言ったんだろ、ごめん。もう一回言ってくれる?」

 申し訳なさそうにこちらを見るジンは、もうすっかりいつもどおりだった。ウルカが何かを言う必要なんてきっとない。

 でも、なぜだか、今何かを言わなければならないような気がした。全力で走ったあとみたいに暴れている心臓も、身体じゅうを常にない速さでめぐる血も、そう訴えている気がした。

 「あの、あのね」

 ウルカは声を出した。震えて裏返っていて、変だった。手の中に汗がにじんでいるし顔が熱いし、意味のわからない涙が浮かんでくる。でも今だ。ジンが目を見張りながら、うなずいてくれる。

 「もし、何か」

 ウルカはジンの目を見た。

 「もし何かつらかったら、教えてほしい」

 いつでも。聞くだけだけど、それだけはできるから。助けになりたいって、おもってるから。

 そう続けようとしたとき、ジンが笑った。

 ふわりと、朗らかに。

 「ありがとうウルカ。そのときは、頼むな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る