6-3 浮かぶ秘匿
ジンが何を言っているのか、わからなかった。きっと誰も理解していなかった。ジンはいつもと同じ、穏やかで、少しおどけたような顔で続けた。
「危ないです。みんなで叫んでたら前とうしろがわからなくなったりして、けが人が出ます。そうしたら何かの暴動が起こったのかとおもわれて、明日から巡察官に監視されちゃいます」
誰も返事をしない。
「痛いの嫌いだし」
ジンは肩をすくめて笑った。
「静かになってくれてありがとうございます。じゃあ続けますね」
ジンは紙を広げた。そして、何事もなかったかのように公示を再開した。人々は、うつくしい夢から無理やり引き戻されて、気力を失って、じっと黙って聞いていた。ジンの明るい声が響くのを聞いていられなくなって、ウルカはその場を離れた。
***
深い緑色の薬草茶に、蜂蜜のかたまりが浮かぶ。匙でかき混ぜてしっかりとかしてから、ネイレは器をウルカに差し出してくれた。
「ありがとうございます」
ウルカが頭を下げると、ネイレはにこりと笑った。
耐えられずに、会いに来てしまった。体の一部ではないどこかがずきずきと痛んで、足が地面についていないみたいに、落ち着かなくなってしまったから。ネイレは驚くこともなく、喜んで迎えてくれた。チャミンも、ああ来たの、と言ったきりだった。ジンはもちろん不在で、ドゥイルも王宮に出ていていなかった。
「寒かったでしょ。あったかいの飲んで」
向かいの椅子に座ったネイレが言ってくれる。あたたまった器を手に取ると、わけのわからない痛みが少しやわらぐ気がした。
「どうしたの?」
ウルカが渡した、監獄の入ったかごをのぞきながらチャミンが言った。
「ウルカちゃんあんた、これを渡しに来たわけじゃないでしょ」
ひとりで食べるために買った、半分に切られた林檎の監獄だ。ここの四人で食べてくださいと言うには小さい。急に来てしまったからせめてものお詫びとして渡したけれど、渡さないほうがましだったかもしれない。
「叔母さん」
ネイレが少し咎めるような声を出す。チャミンはうなずいた。
「責めてるんじゃないよ。なんか、話があるんじゃないかってこと」
チャミンは淡々としていたけれど、まなざしがやさしかった。そうだよね、とネイレもつぶやく。
「いつでも来ていいんだよ。でも、何かあったの?」
ネイレに覗き込まれて、ウルカは器を持つ手に力を込めた。
「あの、ジンが」
「ジンくん?」
「はい。ジンが仕事してるところ、さっき見かけたんですけど、なんか、ひとりの人が急に文句を言い出して、みんながそれに乗っかって騒ぎ出したんです。ジン、ひとりでずっと、暴言吐かれてて」
ネイレとチャミンが顔を見合わせた。
「でも、ジンが急にめちゃくちゃに笑い出して。みんなびっくりして黙ったんです。わざと大笑いして、騒ぎを鎮めたんだとおもいます。でもなんか……、ずっと見てて、わたし、落ち着かなくなって」
「それは、びっくりしたね……」
ネイレがぽつりと言った。
「みんな、不安でいっぱいなんだよね。とくに最近はね……。だから騒いじゃったんだよ、たぶん」
ウルカはうなずいた。大戦争が終わって三年が経った。その爪痕は国じゅうに深く刻み込まれていて、まだ癒えることがない。荒んでいて、貧しくて、誇りも尊厳も傷つけられていて。
「王女さまとコダコの王子さまが結婚するかもって噂になってるもんね」
チャミンが椅子に腰かけながら言った。
「国がコダコに乗っ取られるって、騒いでる人もいるからね」
ウルカもその噂は知っていた。お客やジンから聞いたのだ。王太子がなくなってから、まことしやかに語られていた。
「ドゥイルも、最近剣呑だって言ってるよ」
チャミンは涼しい顔で、薬草茶の中へこれでもかと、蜂蜜を投入している。
「歩いてたら、犬が通るよとか言ってるのが聞こえるんだって」
ウルカははっとした。
「ジンも、言われてました。犬って」
ネイレがぎゅっとこぶしを握る。チャミンは肩をすくめた。
「ジンには直接言えるんだね。あんまり偉くないとおもってるんだろうね」
「卑怯だ」
ネイレが机を叩いた。薬草茶が器の中で大きく揺れた。
「まあね……。でもとうとうそんなに暴れたか」
チャミンがネイレの肩に手を置いてなだめながら言った。
「そんなことしたら、治安維持のためだとか言ってますます首突っ込んできそうだけどね、あのお節介な隣国。でもわたしは、状況がよくなるんなら別に乗っ取ってくれたっていいとおもうけど」
三人でしばらく黙っていた。ウルカは、薬草茶の表面を見つめていた。まだ少し、震えている。
落ち着かなく、なったのは。ジンが、大勢にこき下ろされていたからじゃない。狂ったように、大笑いしたからじゃない。あの顔を見たからだ。ひどく遠い場所から、成り行きを静観しているような顔。あんな顔は、初めて見た。ジンの、ではなくて、ウルカはあんな波のない表情をする人を、今まで見たことがなかった。
「ジンくん、だいじょうぶかな」
ネイレがつぶやいて、ウルカは顔を上げた。
「まあだいじょうぶじゃないとは言わないでしょうけど」
チャミンもほろ苦い笑みをかすかに浮かべている。大笑いして黙らせるって、らしいというかなんというか、と半ばあきれたように言った。
「様子はどうだった?」
ネイレに聞かれて、ウルカはきゅっと喉が狭くなるのを感じた。
「なに、も」
狭窄した喉の奥から、それでも、せり上がってくる。
「何も、気にしてない、というか、感じて、ないというか。ひとごとみたいに、見てた気がして。つらそうでは、なかったです」
ネイレが目を見張った。
「怖いっておもっちゃって、なんで今、そんな顔するんだって。全部、嘘なのかなって」
勝手にこぼれてきて、ぞっとした。自分の言葉で自分の内側がえぐられて、冷たい血が、流れ出てくる。身体が急速に冷えていく。ウルカは身震いした。
「ウルカちゃん」
ネイレが手を握ってくれた。ほんのりと、あたたかさを感じた。
「ジンくんは、たぶん、気持ちを隠すのが上手なんだよ」
ネイレは手をしっかり握ったまま、ウルカの隣に来てくれた。
「だから、わたしたちもね、わからないこといっぱいあるの。ジンくんはいつも明るいけど、人ってたぶんそんなときばっかりじゃないでしょ。でもジンくんは本当に、いつも明るいの」
ウルカはうなずいた。
「隠すのが上手なのかなっておもうんだ。でも、隠しきれなくなるときもあるはずだから、そのときは助けられたらいいなって、おもってるの」
とにかくうなずく。首を縦に振る。ネイレの言うとおりだ。そう信じたい。そうであってほしい。
「たぶんいろいろ言われてるときは、いっぱいいろんな気持ちが出てきて、感じるのをやめちゃったんじゃないかな。そうしないと、隠しきれなくなるっておもったんだよ。わたしはそうおもうかな」
ネイレは少し寂しそうに微笑んだ。
「わかんないけど。でも、そういうことあるって聞いたから」
静かに聞いていたチャミンが、さらっと付け加えた。
「ドゥイルにね」
「叔母さん?」
ネイレがひっくり返った声で叫んだので、ふっと気が抜けた。強張っていた身体が緩むのがわかった。
「だってそうでしょ、あんたが教えてくれたんじゃない」
「今言わなくていいでしょ……」
ネイレは赤くなっている。微笑ましくて、少し気持ちが和む。
「そうね……、ジンはお喋りで声もでかいけど、大事なことはあんまり喋らないからね」
チャミンが何気ない様子で言って薬草茶を飲んだ。なんだか優雅なその仕草を、ネイレは口を曲げて見ていた。
「叔母さん、それってただの悪口に聞こえる……」
「そう?」
「言い方あるでしょ、もっと」
「そう?」
ウルカはおもわずふきだした。
「ね、言い方には気をつけないといけないよねウルカちゃん」
ネイレにやや強めに賛同を求められ、ウルカはついうなずいた。ネイレが得意げに眉を動かす。
「ほら、叔母さん」
「はいはいわかりましたよ」
三人で笑った。
「だからね、ウルカちゃん」
ネイレがウルカの手を両手で包んでくれる。
「ジンくんが隠しきれないときは、支えてあげてね」
そんなことが、できるだろうか。途方もなく高い山を、頂上がどこかもわからないような山を、目の前にしているような気分になる。たどり着くべき場所が、遠すぎて見えない。見ようとしても、力が及ばない。でも、見たかった。
「できるだけ」
ウルカは小さくこたえた。ネイレが安心したように微笑んだ。
「だいじょうぶ、ウルカちゃんだったらだいじょうぶだよ。わたしのことも、助けてくれたでしょ」
「まったくね、あのときは」
「叔母さんは黙ってて!」
ネイレにぴしゃりと言われたチャミンが、唇をかんでおどけた顔をする。
「何よその顔!」
黙っててという言葉に従っているのか、チャミンはおかしな顔をしたまま黙りこくっている。ネイレが口をとがらせてチャミンをにらむ。ウルカは肩を震わせて笑った。
***
下宿を出ると、街にはいつもどおりの時間が流れていた。店に戻ったときに、折よくお客が来たところに出くわした。その人は三か月前に指輪を預かっていた人で、お金を返しに来たのだ。はめ込まれた宝石が半分割れてなくなっている指輪を返すと、ほっとしたような顔をした。
ウルカはその客に、引き出しの掃除をしていたらあなたの指輪を下に落としてしまったのだと話した。誰かわからない人が忍び込んできた夜、引き出しの中が引っ掻き回されて、指輪も床に落ちてしまっていたからだ。全部正直に言うか迷ったけれど、掃除で落としたことにした。
指輪が、預かったとき以上に壊れていないことは、毎日見つめていたからよくわかっていた。でも、言っておかないといけないとおもった。だからお金を返してくれなくてよいです、とは言えなかったけれど、返しませんと言われても仕方ないとおもっていた。
お客はきょとんとして、律儀ですねと笑ってくれた。ウルカなどよりずっと律儀で、誠実な人だ。ふたりで相談して、質料ぶんを差し引いた額を返してもらうことにした。
その人を見送ってから、ウルカはまた引き出しを開けた。壊れた懐中時計が、一段目の隅におさまっている。ジンから預かっているものだ。もう、ひと月が経った。鋭い爪でひっかかれたような傷がいくつも走って、針があらぬ方向に曲がっていて、それでも、動いている時計。その姿はひどく、けなげだった。ジンはきっと、きちんと返してくれるだろう。そのときウルカは、この時計をジンに返す。ジンはこれを、友達が使っていた大事な時計だと、言っていた。友達は嵐の日に海を見に行って死んじゃったと、言っていた。
ヘテヤとディーオの店の監獄を供えた救解日は、その友達のものだったのだろうか。それとも家族のものだろうか。ここへ来なかった日は、救解日だったのだろうか。ウルカは時計の周りの空気を、そっと撫でた。
その日もジンはやって来て、いつもと何も変わらずにお喋りしていた。ウルカは相槌を打つばかりで、何も、言えなかった。
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