6-2 笑う無情
ウルカは毎朝、聖殿に通うことにした。今日も早く起きて、行ってきた。祭壇からはみ出して落ちていた花輪に気づいて、そばにいた祭司に声をかけて拾ってもらった。ときどき見かける大祭司も、目が合うと手を振ってくれる。名前も教えてもらったし、覚えてもらった。
聖殿を出て街を歩く。刺すように冷たい風も、どんよりした色の運河も、がやがやと低い喧騒も、前ほど嫌ではなかった。引きずられて沈みそうな気分にはならない。
ウルカは小さな看板がかかった扉の前に立った。
「こんにちは……」
そっと扉を開けながら言うと、どたんばたんと激しい足音がした。
「いらっしゃいませ! あっ、ウルカだ!」
飛び出してきたヘテヤが目を輝かせる。くるんと振り返って、奥の部屋に向かって叫んだ。
「ディーオ! ウルカが来たよ!」
奥から、はいはいと投げやりな返事が聞こえた。机と椅子が並んでいるだけのごく普通の部屋だが、ここはヘテヤとディーオの店だ。奥には監獄を焼いている天火があるので、香ばしい香りが漂ってきていた。
「元気だった? 今日は何にする?」
ヘテヤは両手を握りしめてやる気満々だ。ヘテヤは注文を取って、監獄を頼んだ大きさに切り分けてくれる。立派な店員だ。お客の相手は、もっぱらヘテヤがしているということが最近わかった。ヘテヤが言うには、ディーオは不愛想すぎて接客に向いていないらしい。ディーオが実は怖くないのがわかるのは自分と、隣のおじいちゃんくらいなのだと、悟ったような口調で言っていた。
「元気だよ、ありがとう。今日は、林檎のを半分もらうね」
「かしこまりました! ぼくも元気だよ! そこに座って少々お待ちください!」
ヘテヤはぱたぱたと奥の部屋へ入っていった。
言われたとおりに椅子に座って待っていると、ヘテヤが戻ってきた。
「できました!」
半分に切り分けた林檎の監獄を、大事そうに両手で捧げ持っている。
「ありがとう」
ウルカが言うと、ヘテヤはにっこりと笑った。
「どういたしまして」
屈託のない笑顔に癒されながら、かごの中に監獄を入れてお代を払う。銀貨を数えて引っ込もうとしたヘテヤが、不意にあっと声を上げた。
「あのね前ね、ジンも来てくれたんだよ!」
「ジン?」
ウルカはおもわず聞き返した。ジンには毎日会っているけれど、そんな話は聞かなかった。教えてくれなくてもかまわない。でも、ヘテヤの店に行ったならジンはすぐに、うれしそうに話してくれそうなのに。
「うん! ちゃんと仕事してて、偉いなって言ってくれたよ。だから、ジンも偉いよって言ったの」
ヘテヤはなんだか重々しく言った。
「そう」
ヘテヤがこくんとうなずく。
「救解日だから、監獄をお供えするって言ってた。だからおれは食べないけどごめんって。でも、救解日のお供えをちゃんとするのは偉い子だよ」
ウルカは手を伸ばして、ヘテヤの頭を撫でた。
「そうだね」
ヘテヤはくすぐったそうな顔をした。
「ウルカは、いつもそぉっと撫ですぎだよ」
「そう? ごめん」
ヘテヤは別にいいけど、とまた笑顔を咲かせる。
「おいヘテヤ」
ディーオが声だけで割り込んできた。ヘテヤが奥の部屋に顔を向けると、ディーオは言った。
「人の救解日のこと、ぺらぺら喋るんじゃねえ」
どきりとする。でもヘテヤは、不思議そうに首を傾げた。
「なんで?」
「このご時世、特にそういうもんだ」
「ええ? でもぼく、どうしたらいいの? ディーオの家族のみんなの救解日、ぼく知ってるよ? 隣のおじいちゃんの、奥さまの救解日も。喋っちゃだめなのに喋ったの? あとえっと……王太子さまの救解日は、みんな知ってるよ?」
「教えちゃいけないとは言ってねえ」
「じゃあなんなの?」
「救解日とかはな、ひとりで大事にしたい人もいるんだよ」
「それ、どうやってわかるの?」
「なんとなくわかるだろ」
「でもなんとなくって、間違ってるかもしれないよ!」
「あのなあ。……まあおまえみたいなやつが、ひとりくらいはいてもいいのかもしれねえな……っていつも言わすよな、おまえ」
ディーオがつぶやくのが聞こえた。
「えっ? ディーオよくわかんない。ねえ、どうしたらいいのウルカ?」
途方に暮れた顔で袖を引っ張られたけれど、ウルカは曖昧に笑うことしかできなかった。
「ううん……。人生は難しいね……。やっぱりぼくって生きるのへたくそなの……?」
ヘテヤは神妙な顔をして腕組みしている。ウルカはもう一度、ヘテヤを撫でた。ヘテヤがくすぐったいよと笑った。
***
ヘテヤに見送られて店を出た。林檎の監獄が入ったかごを抱えて、忙しそうに行き交う人々のあいだをゆっくりと歩く。ふと、耳になじんだ声を聞いた気がして、ウルカは首を伸ばした。あたりを見回す。運河に架かった橋の上に、見つけた。
「三件目は、巡察庁からです。先月、国軍少佐宅に押し入った強盗、とみられる者を逮捕しました。みなさんは安心して生活を送ってください。捜査への協力を感謝しますとのことです……」
鍋の取手がはみ出した鞄を肩にさげ、紙を広げて大声で読み上げているのはジンだった。仕事中なのだ。ジンが公示をしているところは、初めて見る。ウルカは橋に近づいていった。人々はジンを気に留めた様子はない。ただ、運河に浮かぶ船の上から、ぼんやりと見上げている人はいた。
「四件目です。こちらは重要なお知らせです」
ジンの声はよく通る。でも、人々とジンのあいだには見えない壁があるようだった。そこで音が遮断されて、ちっとも届いていないような。でも、ウルカの前にそんな壁はない。ウルカは立ち止まり、ジンの声に耳を傾けた。
「国王陛下より」
ジンが声を張り上げる。何人かが、ジンのほうを振り返った。
「国王陛下より勅令が発布されました」
足を止める人が出てくる。ウルカは、橋の上でしっかりと背筋を伸ばして立つジンの姿を見つめた。
「議会召集の勅令です」
ざわりと空気が揺れる。ジンが持っている紙が、風にあおられて暴れだす。
「この王都ガルパに、七つの
そのとき、見えた。橋の下で、船の上から見上げている人が、ふらりと立ち上がったのだ。そして手を振り上げる。何かが鈍く光って、その手から飛んだ。
どよめくような、悲鳴が上がった。
身がすくむ。
誰かが笑い出す。誰かが叫び出す。誰かが興味をなくして立ち去る。
人々が音のかたまりになった。あたりがざわめきに包まれて閉ざされる。
橋の上に、ジンは立っていた。足元では、凶器のように光りながら、びちびちと魚が跳ねている。
「うるせえ黙れ、売国奴の犬が!」
船の上の人が、伸びあがって叫んでいた。
「とっとと失せろ!」
人々が笑っている。人々が叫んでいる。ゆびさしている。視線を送りながらひそひそと話している。見ている。みんなジンを見ている。
ウルカは呆然と立ち尽くした。
「売国糞野郎さまは、今度は何するって? コダコだろ! コダコのお坊ちゃまをお迎えするんだろ!」
船の上の人は、反り返ってジンを見上げていた。
「ああほんとに腐っちまったんだなあ! もうこの国もおしまいだよ! どうせその議会で、お坊ちゃまのお迎えを決めるんだろ! どこの馬の骨ともわからん島育ちの田舎者に、サンセクエは乗っ取られるんだよ!」
「ついでにありがたい税金が増えるんじゃねえの」
「お偉いさんのお集まり」
「そんなもんに興味ねえよ」
「犬は帰れ」
橋から少し離れたところで、いくつか声が上がる。どれもおもしろ半分のように聞こえて、ぞわぞわと悪寒が走る。
そして人の群れの中にいたひとりが、周囲に視線を向けてから意を決したように叫んだ。
「そうだ、帰れ!」
その裏返った声を合図にしたように、人々が口々にわめき始める。
「ご苦労さまだなあ!」
「お犬さま!」
「ちゃっかり禄食みやがって!」
「一応お役人だもんね!」
「てめえに払う金はねえよ!」
「いつもうるさい!」
「もう黙って!」
みんな見ている。ジンのほうを向いている。溜まりに溜まったものを、出すことができないはずのものを、ここぞとばかりに噴出させている。意味をなさないわめき声を上げている人もいる。
眉をひそめている人もいて、立ち去る人もいて、でも、群衆はひとつになって橋の上のたったひとりを責め立てていた。
冷めた空気はあっという間に熱を持ち、どろどろと濁って燦然と輝く。たったひとつの、この世でたったひとつだけの希望を見つけたように、人々はひとりの人間に群がって罵倒し嘲笑し愚弄していた。
異常に生気のみなぎる空間の中、ウルカはもまれて形がなくなりそうな気がした。すべての標的にされて、辱められる彼に、何もしてやることができない。その前に、単に動くことも声を出すこともできない。
船の上の人は、いつの間にかいなくなっていた。残ったのは、その人が作り出した熱狂の渦だけだった。
その真ん中で、ジンは立っている。何も言わずに、身動きすらせずに立っている。
ウルカは唇をかみしめた。動け、動けと念じながら人をかき分け、橋にさらに近づいていく。そのあいだ、ジンから目を離さなかった。そしてウルカは、はっとして立ち止まる。
ジンの表情が、しっかりと見える距離まで来たときだった。
その顔を見た瞬間、身体の中心を鋭利な凶器で貫かれた気がした。
ジンは、群衆を見ていた。
ただ、見ていた。
困っても、悲しんでも、怒っても、怖がってもいなかった。
絶望してもいなかった。
ひたすらに、橋の下を見つめているのだった。
そこにいるのに、そこにはいないようだった。
果てしなく遠くから、見下ろしているようだった。
ウルカは、手を伸ばしていた。
いかないで。
そのとき、ジンが我に返ったように目を見張った。そして、ふっと笑みをこぼす。
それはいつもの朗らかな笑顔だった。
そして、ジンは背中をそらして。
笑い始めた。
大きな乾いた笑い声が、人のかたまりの真ん中から発せられる。
ジンは、大笑いしていた。ばかでかい声で、笑っていた。最初は群衆の叫びにかき消されていて、でも、だんだんはっきりと、くっきりと浮かび上がってくる。人々が口をつぐみ始めたのだ。
大勢の人に囲まれて罵られているのに、そり返って呵々大笑する姿は異様だった。狂気じみてさえいた。その尋常でない様子は、人々を黙らせるのにはじゅうぶんだった。
ウルカはジンから目をそらすことができなかった。見ていられないほど胸が痛んだのに、釘付けになって離れられなかった。
やがて橋の周りは、音をすべて波でさらったように静かになった。徐々におさまっていくジンの笑い声だけが、からからと響いて。
笑いの余韻で肩を震わせながら、ジンは人々を見回し始める。
「ああ……」
大笑いしたあとの、力の抜けた声をもらす。人々は静まり返ってジンを見ていた。大きく息をついて、ジンは言った。
「危ないですよ」
少し困ったような表情で、柔らかい声で、そう言った。
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