6. 振り放く彩雲

6-1 染み込む癒し

「まったく勘弁してほしいよ」

 長椅子に座って足を組んだジンが、文句を垂れている。ドゥイルとネイレが店で気持ちを通じ合わせたつぎの日、ジンはいつものようにウルカのところに来てくれていた。

「ドゥイルのやつ、ずっとぎくしゃくしててさ。関節に油さしてやろうかって、本気で今悩んでる」

 ウルカは薬草茶を注いだ器をふたつ机に置いて、長椅子の端に腰かけた。

「急に突っ走ってぽろっと告白しちゃってさ、ひとりよがりなことをした、独善的卑劣漢だとか言って死ぬほど落ち込んでたんだよ。でも話してたら急に立ち直りやがってあいつ。ネイレさんに言ったことに、すぐに付け加えておきたいことがあるって夜中に言い出したんだよ。それはやめとけって、チャミンさんにまで出てきてもらって止めたんだけどさ、昨日も言ったけど……」

 そうだ、昨日の夕方も教えてくれた。でも今日も語っている。よっぽど勘弁してほしいようだ。ウルカは黙って聞いていた。

 夜中に突然立ち直り、ネイレに伝えることがあると言い始めたドゥイルは、朝になってもその調子だったらしい。だからジンはあきらめて、ウルカの店を教えたのだそうだ。ジンは、ごめんなとまた謝った。ウルカは首を振った。あの場面に自分がいてよかったのかとはおもうけれど、忘れられない瞬間を見た。

「確かに帰ってきてしばらく様子がおかしかったんだけど、ネイレさんが戻ってきてからもう、さらにだめになったんだ。普通に振る舞おうとおもってがんばってるのがわかってさ、けなげだよ。いじらしいよ」

 ジンはあきれたように肩をすくめた。ドゥイルはあんなにまっすぐにネイレにおもいを伝えていたけれど、そのあとそうなってしまったらしい。

「チャミンさんもネイレさんも心配してる。でもふたりはときどきからかってる」

 ジンが薬草茶を飲んで、これ癒される、とつぶやいた。少し心が弾んだ。

「ふたりがからかうからさ、でもいじらしいドゥイルくんはなんでからかわれてるのかよくわかってないからさ、おれが守ってやらなきゃいけないんだよ。いつまで続くのかな、あれ」

 ウルカはおもわずふきだしてしまった。笑いごとじゃないんだけど、と言いながら、ジンも仕方なさそうに笑っている。

「まあいいけどね。ネイレさんは楽しそうだし。油の用意だけはしてあるし……」

「うん。ドゥイルさんも安心だとおもう」

 ウルカが言うと、ジンが楽しそうに笑い声を上げた。

「ウルカに冗談通じた」

 ウルカは薬草茶の湯気に顔を突っ込んだ。なんだか照れくさかった。

「冗談ぐらいわかる」

 ぼそりと言うと、ジンがうなずいた。

「うん。わかってるってわかったからうれしいんだよ」

 なんでもなさそうにジンは言った。ウルカのことがわかってうれしいと、言われたみたいにおもった。ウルカは口を結んで黙り込んだ。

「ウルカ、ありがとう」

 突然言われて、びくりと肩が跳ねる。

「ネイレさんの避難場所になってくれてありがとな」

 ジンの言葉は、ふわりとあたたかく包んでくれるようだった。素直にそのぬくもりにくるまりかけて、はっとする。ウルカはそれしかできない人形みたいに、とにかく首を横に振った。

「わたしが、楽しかっただけ」

 ウルカはつぶやいた。

「何もできてないよ。助けにはなれてない。わたしは、ネイレさんがいてくれて、話、してくれて、すごくうれしかったけど」

 ネイレも眩しい笑顔でお礼を言ってくれたけれど、ネイレは自分の力で前に進んだのだ。ウルカは何もできてはいない。

「そうか」

 ジンは器の中を見ながら微笑んでいる。

「でも楽しかったならよかった」

 ネイレは、また来てねとも、また来たいとも言ってくれた。ウルカも同じ言葉を返した。それをおもいだすと、心がほっこりとあたたまった。

「うん。楽しい。お姉ちゃんができたみたいで」

「ウルカはお姉ちゃんいないの?」

「いない。いちばん上。弟と妹がいる」

 いた、と過去のことのように言うことはできなかった。

「そうなんだ。末っ子とかかとおもった」

 ジンが言う。ウルカはうつむいた。確かにそうだろうなとおもった。

「ごめん」

 ウルカは喉の奥から声を出した。ジンが困ったような顔をして、座り直す。少しだけ距離が縮まった。

「末っ子じゃなくてもいいよ別に」

 末っ子じゃなくてごめん、という意味ではなかったのだけれど。ウルカは笑ってしまった。

「長子ですみません」

「おれもそうだし」

「そう」

「弟がいた」

 ジンはウルカを見て、おどけたように顔をしかめた。

「おれも兄ちゃんとかいないけどさ、ドゥイルに初めて会ったときは、これはかっこいいお兄さまだとおもったんだ。あいつのほうがひとつ上だし。でも今はもう、あんなの幼児だよ」

「幼児」

「そう、あれは幼児より手がかかる」

 ウルカは笑いをこらえた。

「あっそうだ」

 ジンが突然大きな声を上げた。ジンの声量にはずいぶん慣れてきたけれど、急に大声を出されるとやっぱりびっくりしてしまう。

「何?」

 身体を少しのけぞらせたまま聞くと、ジンは言った。

「明日は寄らないから」

「え?」

「ちょっと用があるから、ここに来られない」

 軽い衝撃を受けてしまったウルカは、あわててうなずいた。

「わかった。でも」

 ジンが首を傾げる。

「来られなくても、言わなくていい。あと毎日来なくていいよ。大変だから」

 言いながら、下を向いてしまった。

「うん」

 ジンがとぼけたような声を出す。

「あさってからまた来るのでよろしく」

 やっぱり、ほっとした。ウルカは小さくうなずいた。




***




 気高くはかない花の香りが漂う、静寂の中に。足を踏み入れるのは、ずいぶんひさしぶりだ。ウルカは緊張でぎこちない動きになりながら、聖殿の塔の中へ一歩、入りこんだ。壁と床はやわらかく高貴な白色をして、奥に位置する祭壇の上には、色鮮やかな花で編まれた輪が、虹をかけるようにたくさん飾られている。祭壇の前で人々がひざまずき、祈りを捧げていた。

 繊細な静けさの中、足音を忍ばせて祭壇のほうに向かう。祈っている人々から少し離れたうしろのほうに、ウルカは膝をついた。

 聖殿には、ここ二年来ていなかった。村にいたときは毎日近所の聖殿に通っていたし、戦場でも、ウルカだけでなくみんな、祈りを欠かさなかった。でも王都に来てからは、そんな善良な人間のようなこと、人間じゃない自分はしないんだとおもった。それからずいぶん足が遠のいていたけれど、許してくれるだろうか。

 少し前から、聖殿に行きたいとはおもっていた。やっと決心して、早めに店をたたんで来たのだ。今日はジンも用があって来られないと言っていたし。

 そっと目を閉じる。ほの暗さの中に、ひとりで立つ。でも、ひとりではなくて。やっと戻ってきたというような懐かしさと安心感が、じわりとにじんできた。静寂を心地よく感じて、その中を自由に漂う。思考がほどけていく。おもいがひらけていく。

 前に進みたいなと、おもう。助けを求めていた自分を、少しずつ受け入れたいなとおもう。救われてはいけないとおもっていた自分を、少しずつ許したいなとおもう。

 ありがとうと言われて、ありがとうが心に染み込んできて、包んでくれて、こんな自分でも誰かにそう言われることがあるんだとおもえてしまったから。

 もっと誰かを助けて、救えたらいいのに。助けを求めても、救われてもいいよと、誰かに言いたい。まずは自分に言ってやりたい。助けてもらってごめんなさいって、言ってもいいけれど、きっと受け止めてもらえるけれど、いつかは卒業できたらいい。助けてもらってもいいと納得して、誰かに手を差し伸べられるようになりたい。

 わたしがいつか救いたい、すべての人に。救われるべき、すべての人に。救いを、お与えくださいと、ウルカは祈った。




***




 聖殿から帰ると、身体も心も軽くなっているような気がした。外套を脱いで長椅子に座る。今日はジンが来ないけれど、だいじょうぶそうだ。

 そうおもってから、ウルカは首をひねった。ジンが来ないけれどだいじょうぶそうって、来なかったらだいじょうぶではないとおもっていたのだろうか。だから聖殿に行ってみる決心がついたのだろうか。なんだか情けない気分になりそうで、ウルカは考えるのをやめた。かわりに、さっき出会った大祭司のことをおもいだす。


 大祭司は若い女性で、緩やかに波打った赤銅色の髪をしている人だった。ごく普通に、というよりかなりさばさばと話しかけてくれたから、大祭司さまと聞いて驚いた。錫色の瞳がときどき冴えた光を放っていて、嘘なんかすぐに見抜いてしまうんだろうなとおもった。

『お嬢さん、よく来てくれたね』

 大祭司はそう声をかけてきた。見かけない顔だとおもったのかもしれない。もしくは、やけに長いこと祈っていたとおもったのかもしれない。両方か。恥ずかしいけれどとてもひさしぶりに来たと正直に言うと、また来たんだからいいじゃないか、と大祭司は笑っていた。

『お嬢さんは、クェパさまは本当に救ってくださるとおもう?』

 突然さらりとそうたずねられて、ウルカは仰天した。大祭司さまがそんなことを言っていいのだろうか。ウルカがこたえられずにいるあいだ、大祭司も何も言わなかった。圧は感じなかったけれど、こたえを待っているとわかった。だからウルカは、救ってくださるとおもいますと、ありのままをこたえた。

 デウカンデ帝国の人々は、戴く皇帝を信仰している。もしくはさせられている。それに大陸のどこかには、ごく少数で問題にもされないけれど、ほかの何かを信じている人もいるという。戦争の中、クェパさまなんかいやしないと言う人も、何度も見てきた。でも、生まれたときから慣れ親しんだ聖殿とクェパさまは、ウルカの中にしっかり根付いていた。姿は見えないけれど、人々の心を支える存在だ。ウルカは現に、その息吹を感じられる場所でやすらいでいた。ウルカが返事をしたあと、みんなに聞いてることだから心配しないでね、と大祭司はさっぱり言った。口元にいたずらっぽい笑みをのぼらせて、覗き込んできた。

『お嬢さん、ひさしぶりに聖殿に来てみたら、わたしみたいなのが大祭司でびっくりしただろ』

 ウルカはそれを聞いてあわててしまって、はいはいそれがこたえだねと言われてしまった。大祭司は愉快そうに笑った。

『わたしが大祭司になったのはな、ここでいちばん救われて、変わったからだよ』

 前はもっとひどかったんだよ、これでも大成長したんだよ、と大祭司は胸を張っていた。


 ウルカは我知らず笑みを浮かべていた。大成長、と口の中でつぶやく。わたしもできるかな、大成長。できたらいいな。もしできたとしたら、それは、きっと。明日の今頃に時間が飛ばないかななんて、考えた。

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