5-5 陽だまりと勇者
部屋が静かになる。ぱちぱちと暖炉の火がはぜる音がする。風が泣くのが聞こえる。自分のことばかり考えてはいけないとおもうんだと、ネイレは言った。チャミンの「お荷物」になっていたのに、自分だけがすきなようにしてはいけないんじゃないかとおもって。だから、ドゥイルをおもう気持ちも隠そうとしていたのだと、わかった。
やがてネイレが、ぽつりと言った。
「でもすきなんだ」
困ったように、眉を下げて笑う。
「だから出てきちゃったんだってわかってるの。だって、ごまかせばよかったのに。てきとうにあしらえばよかったし、そうしようとおもったのに。でも全然できなかったもん。だからってほんとの返事もできないし。でもやっぱりうれしすぎて倒れそうだった。すきなんだ……」
ウルカは大きくうなずいた。不意にネイレの手が、上に重ねていたウルカの手をきゅっと掴んだ。
「どうしようウルカちゃん。怖いよ」
ネイレがウルカを見る。目が潤んで揺れていた。はっとして、ウルカはネイレの手を握り返した。
「怖い」
「だいじょうぶ、何が怖いですか、一緒にやっつけましょう」
ネイレは泣き笑いのような顔になる。少し唇が震えて、おもいがこぼれ出てくる。
「ドゥイルくんが、わたしドゥイルくんがすきで、すごくすきで、すきで怖いよ。こんなこと言ってる自分も怖いよ。ねえ怖い。すきだよ。怖すぎる。どうしよう、すきなんだ」
どんどん湧き上がってきて、抑えきれなくて混乱して、でもあふれてくるものがあたたかくてくすぐったくて、ますますわけがわからなくなる。ネイレの心の内が素直な言葉から伝わってきて、ウルカは口を結んだ。だめだ、泣いてしまいそう。
「わたしドゥイルくんがすきだ。もうずっとすきだったよどうしよう。でも逃げちゃったよ。逃げちゃった。こんなのだめだよね。わたしもう誰にも顔向けできないよ」
ウルカは首を振った。喋ったら、うっかり涙がこぼれてしまいそうだったけれど言った。
「顔向けてほしいっておもってるはずです」
ネイレが笑いながら顔を歪める。
「なんで泣いてるのウルカちゃん。わたしも泣いちゃうよ」
「だってネイレさんが、いっぱい気持ちを言ってくれてるなって、うれしいから」
「ウルカちゃんが聞いてくれるからだよ」
ネイレが微笑んで、ウルカを覗き込んできた。
「ドゥイルくんね、この前わたしが泣いてたら来てくれたの」
ネイレはやわらかにそう言った。
「こうしてくれた」
ネイレの指先がウルカの頬に触れて、涙をそっと拭ってくれる。ウルカは、とりあえずすべて忘れて片手で口を覆った。
「それは……っ」
なかなかできないとおもう。涼しい顔をしているけれど、ドゥイルは積極的なのだろうか。
「それですぐ、逃げちゃった。わたしもびっくりして、追いかけられなかったの」
ネイレの頬に赤みがさしている。ウルカはもう片方の手も口に持っていった。そうしなければ何事か叫びそうだったのだ。
「ジンくんが連れ戻してくれて、帰ってきたらいっぱい謝ってくれてね。謝らなくていいのに。でもそのあとから、よく話しかけてくれるようになって、一緒にご飯作ったりしてたんだ。しあわせだなっておもってた。それで今日も、お話してたの。そうしたら急に、急にね」
ネイレはそこまで言って顔を覆ってしまった。
「だめだ。わたしひどいやつだ。面倒なだけじゃなかったんだ」
「ネイレさん」
「叔母さんにも叱られちゃう。変なこと考えてんじゃないって」
ネイレが顔を上げた。まっすぐにウルカを見た。頬を染めて目を潤ませたネイレは、すっきりとした表情を浮かべていた。
「ウルカちゃん、ありがとう」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「聞いてくれて、ありがとう」
ネイレはにこりと、花がひらくように笑った。
「自分が何考えてるのかわかったの。ウルカちゃんのおかげ」
おかげ、と言われても、何もできていない。ただ黙りこくっていて、突如妙ちくりんな質問を投げつけて、それで勝手に泣きだしただけだ。
「ドゥイルくんにも叔母さんにも、ちゃんと謝るね。ジンくんにも。それからちゃんとする」
ネイレは呆然としているウルカの髪を、やさしく撫でて耳にかけてくれた。
「ドゥイルくんに、正直に言うね」
すきすぎて怖がられちゃうかもしれないけど、とネイレはちょっと困ったように付け足した。
「ありがとう」
もう一度言われた。空から差してくる、澄んだ光みたいだとおもった。ふしぎなくらい、素直にしみた。頭が真っ白になる。気がついたら、ネイレがあわてていた。
「もう、だからなんでウルカちゃんが泣いてるの。またわたしも泣いちゃうよ」
最近泣きすぎていて、涸れそうだとおもう。でも反対に、潤って満たされていくのを、感じている。
***
ジンが持ってきてくれた夕飯を、暖炉であたためなおしてふたりで食べた。そのあいだネイレは、ドゥイルのことをたくさん話してくれた。
鞄を奪おうとし始めたのは、もの静かなドゥイルと話をするためだったようだ。始めてしまってからドゥイルのことを特別に感じていることに気づいたけれど、だからと言ってやめるのもどうかとおもって続けて、あとから入ってきたジンにもやっているらしい。ドゥイルは最初、鞄をおとなしく預けてくれていたけれど、ジンががんとして渡さないのを見てから抵抗してくるようになったそうだ。
ドゥイルは薬草茶に蜂蜜を入れないとか、毎日新しい手巾を持ち歩くとか、ネイレがうれしそうに話すのを聞いてウルカはあたたかな気持ちだった。
ネイレはウルカの話も聞きたがってくれた。ウルカは質屋をやっていることと、以前は軍隊の後方支援をしていたことを打ち明けた。ネイレはやさしくうなずきながら聞いてくれた。傭兵たちにくっついて王都に流れ着いてきたことはまだ言えなかったけれど、内側で固まっていたものが、ゆっくりときほぐされていくような気がした。
夕飯を食べたら、ジンが背中に括りつけて持ってきた絨毯を暖炉の前に広げた。もう遅い時間で外は暗いから、ネイレを泊めることをウルカは勝手に決めていた。絨毯を持ってきたジンも、それを命じたであろうチャミンも、そのつもりのはずだ。ネイレも、たっぷり居座っておいて今更遠慮するのも白々しいよね、と少しきまり悪そうに笑った。
絨毯は臙脂色の厚めのもので、ネイレがおばあちゃんの部屋に敷いてたやつだと言った。ふたりで絨毯の上に座って、炎を眺めた。お互い何も言わずに、景色と空気とぬくもりを共有していた。静かな子守歌みたいだった。
「ウルカちゃんは、特別におもう人はいる?」
ふいにネイレに聞かれて、ウルカは目が覚めたような気がした。隣のネイレを見る。膝を抱えて座ったネイレは、揺れる火を穏やかな表情で見つめていた。
「今までに、いたことある?」
ウルカは口ごもった。村でも、十歳くらいにもなると、おもう人がいると友達に打ち明けられることが多くなった。集まればもっぱらそんな話をしていた気がする。隊に入ってからも案外そうだった。いちばん近しかったシルーナは、おもわれることのほうが多かったみたいだけれど。すてきだとはおもう。でもウルカは、おもうのもおもわれるのも、自分に起こることとは考えていなかった。
「えっと、いません」
ウルカはこたえた。
「いないとおもいます」
ネイレがふふっと笑い声をもらす。
「そう。もしできたら教えてね」
ネイレは妹か娘に言うみたいに、言ってくれた。ウルカはこくりとうなずいた。ネイレが小さくあくびをして、ウルカもつられた。顔を見合わせると、笑えてしまう。
この前、長椅子の下から発見された毛布をふたりでかぶって、寝転ぶことにする。並んで天井を眺めた。ウルカは長女で、姉はいない。姉の存在にあこがれたこともなかったけれど、今はむしょうにうれしい。そばにいるネイレが、お姉ちゃんみたいで。こんなお姉ちゃんが現れるなんて、幸運すぎるとおもう。
「きょうだいみたいだね」
ネイレがおかしそうに言った。ウルカもふきだしてしまった。
「わたしも今おもいました」
どちらからともなくくすくす笑い出す。何がおかしいのかはよくわからないけれど、それでもいいかなとおもえた。ぽつぽつと会話をしていると、だんだん眠たくなってきた。ウルカは、夢とも現実ともつかないあたたかな世界で、ひとりごちた。
「なんでだろう」
「ん?」
「ジンは、なんであんなふうなんだろう」
「えっ?」
「いつも助けに来てくれるの。わたしがすごく嫌なこと言っても、ずっと来てくれててね。変なんだよ」
「そうなの」
「うん。変だよ。壊れてるよ。わたしこんなやつなのに。助けてくれるなんておかしいよ。あとそれだけじゃなくてね、なんか、なんか変……」
「そうなんだね……」
「そうだよ。でも来てくれたら、すごくうれしくて安心する。ごめんなさいっておもうけど、やっぱりそうなんだ。わたしは助けてもらってるけどね、ねえ。ジンは、なんで壊れてるんだろう……」
***
つぎの朝早く、呼び鈴が鳴るので戸を開けると、そこにはドゥイルがいた。ジンから場所を聞いた、早朝に押し掛けて申し訳ないと丁寧に言ったドゥイルは、身体の内に青い炎を宿しているみたいだった。
ドゥイルは、部屋の中で顔を真っ赤にして立ち尽くすネイレを見つけると、しっかりと目でとらえた。ネイレが、宝石みたいだと言った瞳でつかまえた。
「おれはあなたがすきです」
吹き込んできたのは、この季節にはありえないはずの、涼やかですがすがしい風だった。ウルカは、まっすぐにネイレを見つめるドゥイルの前に突っ立ったまま、混乱して歓喜して高揚していた。身体がまったく動かないけれど、感情は暴動を起こしている。
「でもこたえてほしいわけじゃありません」
ドゥイルは何にも臆さないような凛々しさできっぱりと言った。
「こたえはいりません。どこかにあなたがいてくれたらほかには何もいりません」
ウルカは目が回りそうになった。いや、もうすでに回ってる。
「昨日はそれを言いそびれました。だからもし、おれに悪いとかおもってるなら何も悩まずに」
「ドゥイルくん!」
ネイレがドゥイルの言葉をさえぎった。身体が固まって振り向けないウルカのうしろから、ネイレは大声で言った。
「わたしのほうがすきだよ!」
響き渡った声に、ドゥイルがきょとんとする。勇ましい様子だったのに、急に小さな子供のようになった。
「わたしのほうが早いよ。ずっとすきだったよ。今もすきだよ。これからもすきだよ」
ネイレは勢いよくおもいをぶつけていた。ドゥイルはついていけないのか、完全に動きも表情も止まっている。
「昨日は逃げてごめんなさい」
ネイレが頭を下げるのがわかった。
「すごくすごくうれしかったの。でもいろいろ考えちゃってたから、自分でややこしくして、それで逃げたの。本当にごめんなさい」
ドゥイルは微動だにしない。ウルカも動けない。
「もうややこしいこと考えるのはやめたの」
ネイレが言って、軽やかな足音がウルカを追い抜く。ネイレはドゥイルの手を取って見上げた。
「わたしもあなたがすきです」
澄んだ声で、素直な、力強い言葉を紡いだ。そしてネイレは背伸びをする。ウルカは、こりゃいかんと気力で背中を向けた。そのあとドゥイルは、階段を踏み外しながら帰っていった。
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