5-4 母と星

 すきって言ってくれたのに。逃げてきちゃったの。

 頭の中でネイレの言葉を繰り返し、ウルカは、ネイレに向けられたドゥイルのやさしいまなざしをおもいだした。いとおしく、おもっていたんだと、今わかった。その気持ちを、さっきネイレに伝えたのだ。それはすてきなことのようにおもえる。でもネイレは下宿を飛び出してきていて、心の中にすきま風が吹いているような笑みをにじませていた。

 ウルカはネイレを振り返った。ネイレは机に両手をついてうなだれ、鍋を覗き込んでいた。ネイレさん、とウルカがつぶやくと、ネイレはこくりとうなずく。力が抜けたような笑みを口元に浮かべて言った。

「ひどいことしちゃった」

 ウルカは鍋を置いて、ネイレに歩み寄った。ネイレに長椅子に座るように促して、先に腰かける。ネイレはためらいがちに、ウルカの隣に座った。助けになりたいなと、おもう。ネイレがしてくれたみたいに、ジンがしてくれるみたいに、支えて引っ張り上げたいなとおもう。ウルカはネイレの目を見た。ひどく不安そうなネイレに、しっかりとうなずいて見せた。

「わたし」

 ネイレがぽつりと言った。

「びっくりしちゃって」

 ネイレの手が、膝の上で白い前掛けを手繰る。ウルカはおもわずその手に手を重ねていた。気がついたときにはもう遅くて、ウルカは腹を決めてネイレの冷たい手を握った。ネイレはありがとう、と言ってから続けてくれた。

「びっくりして、どうしようっておもって、飛び出してきちゃったの。あわてすぎてあちこちぶつけたよ」

 ウルカはネイレが扉に衝突しているのを見たことをおもいだした。それだけ気が動転してしまったのだ。ネイレはドゥイルの気持ちにはこたえられないのかもしれない。

「でも、飛び出すことなかったのに。ちゃんともっとやり方があったのに、身体が勝手に動いちゃったみたいなんだ、変だよね」

「変じゃないです」

 ウルカはほとんど無意識に言った。

「ネイレさんは、すてきです」

 ネイレがふきだした。笑うところではないのだけれど、確かに今の言葉は、脈絡がなさすぎた。

「そんなふうにウルカちゃんが言ってくれたら、そうなのかなっておもっちゃうなあ」

 ネイレはおかしそうに言う。なんだかまったく届いていない気がして、ウルカは焦った。嘘とかお世辞とかじゃないのに。そんなウルカをよそに、ネイレはおどけたようにぱちぱちとまばたきした。

「でもね、わたしは全然すてきじゃないよ。ただのちょっと面倒な人なの」

 そんなことはない、そんなふうに言わないで。そうすぐに否定しようとして、ウルカは口をつぐんだ。きっとウルカが何を言っても、ネイレは微笑むだけなのだ。自分についておもっていることは、ほかの誰かが動かそうとしたってなかなか変わらない。ウルカも同じだ。ごめんなさいと、おもってしまう。だから飽きもせずに謝罪を繰り返す。そういうウルカのことも、ジンは受け入れてくれた。

「どうして、ですか?」

 ウルカは否定を飲み込んでたずねた。

「そんなふうにおもうのは、なんで」

 ネイレは少し目を見張ってから、くすりと笑った。

「そうだな、わたしはお荷物だって、おもっちゃうからかなあ」

 なんでもなさそうに、ネイレはそう言った。

 お荷物。

 ネイレの口からさらりと出た言葉は、ウルカの中に刺さった。ネイレはへへ、といたずらをした子供みたいに笑う。

「ごめんね、なんか陰気なこと言って」

 ウルカは首を振った。陰気だって陽気だってかまわない。ウルカはネイレの話が聞きたかった。助けになりたかった。ネイレの顔から笑みが引いていく。寂しさの色が残る。

「両親がね。わたしが一歳かな、もう生まれたばっかりくらいのときに、流行り病で死んじゃったみたいなの。そんな子いっぱいいるけどね。それで、叔母さんが引き取って育ててくれたんだ。わたしは両親のこと覚えてないから、叔母さんがお母さんなの。でも叔母さんは、お母さんって絶対呼ばせてくれなくてね。お母さんって呼んでいいかなって聞いたことがあるんだけど、それは違うからやめてって」

 チャミンのことを何も知らないけれど、きっとチャミンならそうするのだろうとおもってしまった。ネイレの母親は、世界にひとりだけだから。代わりなんていないから。きっとチャミンは、代わりになれるとも、なりたいとも、おもわなかったのだ。

「わかってるんだけどね。叔母さんはわたしのこと大事におもってくれてて、わたしのお母さんのことも大事におもってくれてるから、そう言うんだってわかってるの。でもちょっと寂しくてね」

 ウルカはもう片方の手も伸ばして、ネイレの手を包んだ。身体がほとんど勝手に動いていた。

「それに叔母さんはずっとがんばってて。うちは長いこと下宿をやってたから、そこを継いで切り回してるし、おじいちゃんとおばあちゃんのことも大事にして見送ったし、そのあいだにわたしのこと、育ててくれたし。ずっと」

 ネイレはそこで言葉を切って、ゆっくりと深く息をした。

「わたしがいなかったら、叔母さんはもっと自由だったのになって、おもっちゃう」

 それは違うって、叫びたいのをこらえた。

「叔母さんの人生、って言うのかな。それを邪魔しちゃった気がするの。ずっとお荷物だったなっておもうの。だからお母さんって呼ばせてもらえないのかなって考えちゃうときもあって、すごく嫌なんだ」

 ネイレは肩をすぼめてうつむいた。栗色の豊かな髪が顔を隠してしまう。

「わかってるんだ。叔母さんがわたしのしあわせを願ってくれてること、ずっと知ってるの。でもわたし、そろそろ叔母さんがわたしを引き取ってくれたくらいの歳になるし。だからね、勝手に考えちゃって、勝手に寂しくなって、そういう自分のこと嫌で、涙が出ちゃったりするの」

 ただの面倒な人だよ、とネイレは言った。こんなふうに寂しさと嫌悪を抱きながら、ネイレは春の花みたいに、ウルカに微笑みかけてくれていたのだ。心が洗われるような、絞られるような気がする。ひとことで言えない感情が、静かに寄せてくる。ウルカは、少し丸まったネイレの背中に手を当てた。

「面倒なせいで、ドゥイルくんにもひどいことした」

 ネイレの声が小さくなる。ひとり言のようで、言葉を内側に向かわせるようだった。

「逃げてきちゃった」

 ドゥイルがネイレにおもいを伝えて、でもネイレは下宿を飛び出してきてしまったのだ。

「だってわたしばっかり自分のこと考えて、いいのかな、だめだよなっておもっちゃうから」

 ウルカが手を当てているネイレの背中が、弱々しく曲がっていく。ウルカは唇をかんだ。自分のことを考えて、いいのかなって。だめだよなって。そうおもってドゥイルから逃げてしまったということは、もし、自分のことばかり考えてもいいとおもえたのだとしたら。ネイレの落とした心のかけらを、拾った気がした。ウルカは深く考えるのはやめて口をひらいた。

「ネイレさん」

 ネイレがゆるりと顔を上げる。ウルカはネイレにたずねた。

「世界に、ドゥイルさんとふたりだけだったら、どう、しましたか」

 考えるのをやめたおかげで、なんだか突拍子もないことを口走ってしまった。でも、後悔はしなかった。ネイレはきょとんと目を丸めていたけれど、やがて、涙をこぼすように微笑んだ。

「そうだな」

 ネイレは透き通った笑みを浮かべたままつぶやいた。

「たぶん、わたしのほうがあなたのことすきだよって言ったかな」

 ウルカはおもわずネイレの手をぎゅっと握った。

「ウルカちゃんあのね」

 ネイレが床を見つめながら言う。

「面倒なんだけどわたしね。ドゥイルくんがすきなの」

 ウルカはうなずいた。

「いい人だから、きっと好きっていう人はたくさんいるとおもうんだけど、わたしはなんというか、ただいい人だなっておもってるわけじゃないの。ドゥイルくんのことは、特別におもっちゃうんだ」

 戦争中にいた隊の中でも、誰かが誰かをすき、という話はしたことがあった。兵士のことをおもったり、逆に惚れられたり、ウルカの周りの人たちにもいろいろあった。シルーナなんかは、何度も軍隊の男性たちにおもいを告げられていた。当のシルーナは興味がないと言って、まったく相手にしていなかったけれど。そんなこともあったので、ウルカはネイレの言っている意味がなんとなくわかった。

 ネイレはきっと、恋をしているのだ。それは、身体が浮き上がりそうなくらい楽しいときもあれば、息ができないくらいつらいときもあるらしい。ウルカはよく知らないのだが、おそらく経験者とおもわれる人たちの言である。ネイレはその、苦しさを味わっているのかもしれない。ウルカは訳知り顔で聞いていた。自惚れなんだけどね、と前置きして、ネイレは言った。

「最近はドゥイルくんも、わたしのこと、ちょっとはおもってくれてるのかなって、気がしてたの」

 ウルカはすっと息を吸った。

「でもわたしのほうが早いんだよ。初めて会ったときからずっと気になってたから」

 ネイレは目を伏せている。

「五年前かな……。ドゥイルくん、まだ十五歳だったの。うちに来て、住み始めたんだけどね。初めて挨拶したとき、すごく品があってかっこよくてね。わあって、こんな人いるんだって」

 ネイレの声が少し華やぐ。ウルカも自然と頬が緩んだ。

「でも落ち着いてて静かな人だし、あんまり話はできなかったの。いつも凛々しい感じでね、あこがれるなあって見てた。でもいつの間にかすきになってたんだとおもう」

 ドゥイルは確かに、何にも侵されることのなさそうなきりっとした雰囲気を持っていた。そんなドゥイルをネイレがこっそり見つめる姿をおもい浮かべると、かわいらしくて微笑ましくて、それから勝手に照れくさくなった。

「ドゥイルくんは、そう、いつも静かなんだけど、礼儀正しいし、仕草が上品できれいだし、声もきれい。あんまり喋らないけど、声を出したらみんなが見ちゃう」

「うん」

「目もちょっと薄い青で、宝石みたいだし。あと睫毛がやたら長いの。あれはちょっと妬けるなあ」

 ウルカはくすっと笑ってしまった。

「お仕事もがんばってるし。五年でだいぶ偉くなったんだよ、自分では全然言わないんだけどね。働いてるところも見てみたいの。王宮の中とか、入れないけど」

 ネイレは、輝く星を見上げて焦がれるような、目をしている。

「あと、いつも遅くまで本を読んでるの。すごく集中してるけど、お茶を持っていったら閉じてお礼言ってくれる。だいたい難しい本読んでるけど、詩とかおとぎ話を一生懸命読んでるときもあるの」

「かわいい」

「かわいいよね? あとね、なんかわからないけど、急にいろんなところにぶつかったり、転んだりするときもあるの」

「そんな、意外です」

「そうなの、そんなふうに見えないでしょ? でもかわいいし、おもしろいの。ジンくんが来てからは特にね、男の子同士のやりとりを見てるのがおもしろいな。叔母さんとかわたしには言わないようなこと、さらっと言うんだもん。笑っちゃうけど、なんかどきっとする」

「ああ」

 気心の知れた男同士の、ちょっと粗雑な会話とかだろうか。そういうのは軍隊の人たちのあいだで繰り広げられているのをよく見ていた。ウルカは理解を示した。

「でもなんだかんだ言って、やさしいのね。それにきっといろいろあったけど、自分の力でちゃんと立ってて、かっこいいっておもうんだ」

 ネイレはウルカの手の中で、きゅっとこぶしを握る。ウルカはうなずいた。ふと、ジンのことが頭をよぎった。

「でも、すきって言うつもりなかったし、見せるつもりもなかったの」

 ネイレは楽しそうなまま言った。でも何かが、声からも笑顔からも抜け落ちていた。

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