5-3 躊躇と慈愛

 下宿の中から転がるように出てきたのは、確かにネイレだった。ネイレはジンの声に気づいていないのか、背中を向けて走っていく。

 ウルカはあっけにとられてそのうしろ姿を見送った。

 「ネイレさん待って!」

 ジンが駆け出す。扉の前を通ったとき、ジンは中からいきなり出てきた人に捕まえられた。

 「えっチャミンさん離して?」

 ジンが悲鳴を上げている。ジンの腕を掴んでいるのはチャミンだった。よく見ると、チャミンはうしろから身を乗り出しているドゥイルの身体も押さえている。

 「ウルカちゃん」

 突然こちらを向いたチャミンに呼ばれ、ウルカの背筋はぴんと伸びた。

 「はいっ」

 「ネイレを追いかけて、あんたのうちにでも保護して」

 「えっ」

 「お願い」

 チャミンは困ったように笑っていた。

 「おれが」

 「あんたには別の仕事があるの」

 「チャミンさん」

 「あんたは今はだめ」

 ジンとドゥイルはぴしゃりと封じられた。状況は飲み込めないが、とにかくチャミンとネイレの助けになりたい。

 「わかりました!」

 ジンとドゥイルを押さえつけているチャミンに、ウルカは大きくうなずいて走り出した。

 まっすぐな道の向こうへ、ネイレの背中が小さくなっていくのが見える。角を曲がって、見えなくなった。もう見失った。早くしないと、追いつけなくなる。

 「なんで?」

 うしろでジンがすっかり困惑した声を上げていたが、振り向いている暇はなかった。




***




 ネイレが見えなくなった曲がり角を折れると、目の前には生気のない鈍色の水をたたえた運河が見える。大小さまざまの古ぼけた船が雑多に浮かんでいて、頼りなさげな木造の橋が架かり、橋を渡った向こう側の道も、今まで走ってきた道と同じように続いている。進んでも進んだように感じない、彩りに乏しくて均質な景色のその中に、ネイレを見つけた。ネイレは建物の壁に寄りかかりたたずんでいた。きりりと白い前掛けが、薄闇の中で浮かび上がっている。

 ウルカは橋を渡り、ネイレのほうへ近づいていった。冷たい壁にもたれたネイレはうつむいていて、ウルカには気づいていない。立ち止まって動かないのに、真っ白な前掛けを残してふいに見えなくなってしまいそうな気がした。ウルカはおもわず呼んでいた。

 「ネイレさん」

 ネイレがはっとしたように顔を上げて、ウルカを見つける。目を見開いて、つぶやく。

 「ウルカちゃん……?」

 ネイレは急におもいだしたように笑顔を作った。作ったんだと、おもう。

 「どうしたの? なんでここに」

 ウルカはきゅっと両手を握りこんだ。

 「あの、ごめんなさい」

 来てほしくは、なかっただろうけれど。でも、助けになりたいなとおもって、走ってきてしまった。

 「ちょうど、見つけたので」

 意味のわからないことを言ってしまう。するとネイレはあっと声を上げた。

 「ちょうどうちに来たところだったんだね。今日は連れてきてくれるってジンくん言ってたもんね。ごめんね、わたしが急に出てきたところに出くわしちゃったのかな」

 明るい声で、少し早口でネイレは言った。ウルカはうなずいた。

 「あの、ネイレさん」

 「ん?」

 ネイレは背中を壁につけたまま微笑む。ウルカはネイレに歩み寄った。外套を脱いで、前からネイレにかける。

 「何してるのウルカちゃん」

 ネイレはあわてたように外套を返してくる。

 「風邪ひいちゃうよ」

 「ネイレさんも」

 ネイレは上着を着ていなかった。ウルカは押しつけるように返される外套を受け取らなかった。

 「風邪ひいちゃいます」

 ネイレが口を結んだ。ウルカは大きく息を吸った。

 「ネイレさん、うちに来ませんか」

 ネイレはじっとウルカを見つめている。ウルカは、腹の底に力を入れる。

 「来ましょう。来るべきです。来なきゃいけません」

 ジンの言葉が助けてくれた。

 「ねえ、そうしましょう。このままじゃふたりで風邪ひいちゃうから」

 何があったのかはまったくわからないけれど、すごい勢いで飛び出してきたのだ。きっと帰りたくはないだろう。だからチャミンはウルカに、ネイレを保護して、と頼んだのだろうし、ウルカもそうしたかった。

 「ほら、行きましょう」

 ネイレがしてくれたみたいに、微笑みかけてみる。ネイレの花のような笑顔には、とてもとても及ばないけれど。

 ネイレは唇をかんで、こくりとうなずいてくれた。それがうれしくて、涙が出そうになってしまった。




***




 ふたりで外套を激しく譲り合って争い、だんだんおかしくなってきて笑っていると家に着いてしまった。ウルカはさっそく薬草茶を淹れた。チャミンがくれたものはもう切れてしまったから、街で新しいものを買ってみたのだ。そのまま飲んでも苦くないか、店の人にきちんと確認してから買った。店の人は外国の人のようだったけれど、サンセクエの言葉でお茶について丁寧に説明してくれた。

 長椅子に座っていたネイレに薬草茶を運んでいくと、ネイレは微笑んで言った。

 「いい香り」

 ウルカはうなずいた。果物のような、みずみずしく甘い香りが部屋に広がっていく。

 ネイレは一段暗い路地裏に入っても、酒場からの笑い声が聞こえても、半地下のウルカの部屋に招き入れても動じる様子はなかった。ウルカの部屋を見て、すてきだと言ってくれた。最近はまともに掃除をしているから、前よりはましだとおもう。

 「ごめんねウルカちゃん。急にお邪魔して」

 ネイレは器を両手で持って、覗き込みながら言う。ウルカは首を振った。この前突然訪ねたウルカをネイレは優しく迎えてくれたし、ネイレがいつ来たってお邪魔なことなどない。

 「ちょっとびっくりすることがあってね」

 ネイレはぽつりと言った。

 「びっくりすること」

 ウルカが繰り返すと、ネイレはそう、とうなずいて笑った。痛みを隠そうとするときのような、笑みだった。

 「あの……、あのね」

 ネイレが器を置いて両手で顔を覆う。少し落ち着いていた感情が、急にぶりかえしたのだとわかった。ウルカはそばに駆け寄りかけて、はっと我に返る。寄り添いたいけれど、そうしていいのかわからない。家まで引っ張ってきたのに、この期に及んでためらってしまう。

 「ねえウルカちゃんどうしよう」

 ネイレは途方に暮れたように言った。

 「どうしようわたし」

 柔らかな笑顔を向けてくれて、抱きしめてくれたネイレが迷っているのだ。

 「……何か、あったんですね」

 ウルカは口にした。

 「教えてください。もしよかったら、わたしでよければ」

 そのとき、外から大声が割り込んできた。

 「ウルカ、ネイレさん!」

 ジンの声だ。

 「いる? 帰ってる?」

 驚いたように顔を上げたネイレと目を見合って、はて、とまばたきする。

 「いたら開けて!」

 ジンの声がさらに大きくなる。ウルカはあわてて扉を開けた。そこには両手に鍋を持ったジンが立っていた。手がふさがっていて、いつもみたいに呼び鈴を鳴らせなかったのだ。

 「よかった、帰ってた」

 ジンはウルカを見ると、少し安心したように笑った。

 「ネイレさんもいるよな」

 ウルカがうなずくと、ジンはああよかったあ、と脱力していた。そして鍋をふたつ差し出してくる。

 「今日の夕飯。チャミンさんが持っていけって。たぶんネイレさんには時間が必要だからって言ってた」

 ウルカは鍋を受け取ってうなずいた。

 「わかった」

 するとジンは目を見張って、なんだかやけにうれしそうな顔をした。

 「ジンくん」

 振り返ると、ネイレは長椅子から立ち上がってジンのほうを見ていた。どうすればいいかわからないような、すっかり迷ってしまったような顔をしていた。長椅子の前から動く様子はない。

 「ああ、だいじょうぶですネイレさん」

 ジンが明るく言う。

 「ウルカの面倒見てやってください」

 「でも」

 「何も気にすることないですよ」

 のんびりと念押しして、ジンは背中から何かをおろした。ずいぶん大きい。それの存在に気づいていなかったことに驚いた。

 「絨毯持ってきた。この上で快適に過ごして」

 ジンは巻いて立てると背丈ほどになる絨毯を、背中に括りつけて持ってきたようだ。さぞじろじろ見られただろう。きっとまったく気にしなかったのだろう。ウルカは、ジンが絨毯を壁に立てかけるのを感心しながら眺めた。

 「これでよし。じゃあそういうことで!」

 ジンは高らかに挨拶して、扉を閉めてしまった。足音が遠ざかっていく。

 「……ネイレさん」

 しばらくして、ウルカはネイレを振り返った。ネイレは複雑な顔をして立っていた。ほっとしているようで、心苦しそうで、どこか寂しそうな笑顔を浮かべていた。

 「ウルカちゃん、ごめんね」

 ネイレは言った。

 「迷惑かけちゃうね」

 ウルカは強く首を振った。

 「ネイレさん、と、お話したかったから、ネイレさんのお話が聞きたいです」

 言葉がたどたどしくなってしまって、頬が熱くなる。おもわずうつむいたウルカの耳を、ネイレの笑い声がくすぐった。鈴が転がるような心地よい響きに、顔を上げる。

 「ウルカちゃん、ほんとに優しいね」

 ネイレはあたたかい笑みを浮かべていた。でもやっぱり少しだけ、心細そうに見えて。

 「優しくないけど」

 ウルカは机の上に鍋を置いて、ネイレを見た。なるべくまっすぐに、目を見ようとした。

 「ネイレさんのお話が聞きたいです」

 ネイレは、きっとウルカが何を言っているのかよくわからないだろう。ちゃんと話せていない。でも、うまく言葉にできていないけれど、気持ちは本当だった。

 「ありがとう」

 ネイレは慈しむようにゆったりと目を細める。そんな表情ができるネイレは、美しい人だとおもう。

 「わたしも聞いてほしい……」

 視線を落として小さくそう言ったネイレに、ウルカは何度もうなずいた。

 「でも……、叔母さんにもジンくんにも気を遣わせちゃったな……」

 ネイレは机の上に置いた鍋の蓋を開けた。中身は野菜の煮込みだ。よく煮込んだ野菜が醸す優しい香りが、ふわりと広がった。ウルカがもうひとつの蓋を取ると、茹でた芋がごろごろと入っていた。

 「叔母さん、たぶんいろいろ考えてくれたんだとおもう」

 ネイレが鍋の中身を見つめながらつぶやく。

 「わたしずっと、ウルカちゃんとまた話したかったし」

 チャミンと同じ栗色の、きれいに束ねた髪が、さらりと肩を流れた。

 「ジンくんも。あの子、本当にいろいろ見てるから」

 ウルカは一瞬息を詰めた。ジンはのほほんとしているように見えるけれど、いつも誰かのことを考えているのかもしれない。

 「これ、見たらお腹すいちゃったな」

 ネイレが屈託なく言う。

 「ちょっとあたためますね」

 ウルカは煮込み料理の鍋を持ち上げた。ネイレがうなずく。

 「ありがとうウルカちゃん。わたしさっき、ドゥイルくんから逃げてきちゃったの。すきって言ってくれたのに」

 どういたしまして、そうなんですね。

 急に紛れ込んできた大切な言葉を、さらっと流しかけて、ウルカは踏みとどまった。

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