三人の魔女とクールビズ

白木 春織(しろき はおる)

第一話

 六月六日木曜日、某県某所。ネオン満ちる地下バーにて、今宵、魔女による狂乱の宴『サバト』が開かれる。生贄は岬伊織みさきいおり二十三歳、……僕だ。

 

 はじまりは公務員になって一年と二か月。


 年々進む温暖化に、日本でどちらかと言えば北方に位置する我が自治体も、南国県のかりゆしウェアよろしく、グールビズ解禁を発端とするカラフルポロシャツ化の波が押し寄せた六月。

 肩身狭いネクタイ詰襟派の僕は、致命的なミスをやらかす。

 期日までに支払われなければならなかったお金を処理できず、翌週へと持ち越してしまったのだ。

 

若葉市わかばし福祉保健部に務めて二年目、僕は障がい者に対する医療費助成の業務にあたっている。

 障がいの程度にも等級があり、市町村の定める基準を満たしていると受給者証が交付され、それを医療機関に提示することで、一定の負担額でサービスを受けることができるのだ。

 しかし県外の病院に受診する場合には、受給者は一旦、自己負担分を全額支払う。

 その後市役所にて手続きを済ますことで、後日、口座に医療費が支給されるのだ。


 若葉市は自県の中心部には高速を使っても一時間半はかかる。が、隣県の中核市には下道で三十分の好立地。

 そこには障がい者支援に手厚い病院や精神科のクリニックが数多くあり、若葉市から通う人も多い。必然的に後日支給の医療費申請も増えていた。


 それを月ごとに締めて、翌月の第三月曜日に支払うことになっていたのだが、一人分、一枚だけ書類が漏れていた。

 

 福祉保健部の書類を一挙に保管するスペース、隣の自立支援医療の書類に紛れていて、それを保健師の先輩が発見、「これ今月分の申請書じゃないかな」とそっと教えてくれた。


 役所の書類はほとんどがA4サイズで紙色も同じ。一枚、書類が上に乗れば、隠れ蓑術かくれみのじゅつがごとく別の書類に擬態する。ここにも化けてでたやつがいたのだ。

 

 ふぇっ、と音にもならない言葉が漏れて、思考がキャパを超えたアプリのようにフリーズする。


  頭が真っ白になった分、身体の感触には敏感で、額から鼻にかけてつーっと垂れた汗が眼鏡の鼻パッドの間に入って気持ち悪い。

 

 ーーどうしようどうしようどうしよう。

 脳内警報発令。印刷業者にもらった子犬の卓上カレンダーをビームで燃やさんばかりに注視する。カレンダーを爆発させれば、時間という概念をなくせるだろうか。


 ーーだめか。

 四次元さえ壊しかねない頭をただちに三次元へと帰還させる。現実と向き合わねば。

 

 脳内時間軸を展開させつつ、頭の中を整理する。今日は六日、木曜日。支払いは十日、月曜日。規則上、支払い書類は遅くとも支払日一週間前、午前中までに提出しなければならない。


 十日の一週間前といえば三日。もう一度カレンダーを確認。うん、六日。アウトだ。

 

 僕の不健康極まりないなまっちろい顔が、ますます透き通っていくのをみかねて、先輩がふたたび声を掛けてくれる。「とりあえず、係長のところにいこう」支払いが間に合わないことを言わずもがな察してくれたのだ。

 僕は先輩に手綱をひかれ、アニマルバルーンがごとくフワフワとおぼつかない足取りで係長のもとに向かった。


 係長は経緯を聞くと、支払いの調整ができないかすぐさま会計課に協議に行ってくれた。


 僕もその後を背後霊のようについていく。が、支払いデータはすでに銀行に送られていて、漏れた一件は支払日を遅らせるしかないという。

 

 会計課の同期クールガール小日向こひなたさんが高速電卓をかましつつ、こちらに《いちべつ》一瞥くれた同情の視線が痛い。

 

 会計課から戻った足で課長にことの次第を報告に行った。

 

 係長の後ろで隠れるよう課長の磨かれた革靴のつま先を見ていると、意外に細かな線がみっちりとついていることに気づく。

 遠くでみるとあんなにぴかぴかだったのに。

 

 思考を斜めに飛ばしている間にも、首脳陣の話し合いは終わり、結論、支払い漏れの受給者にアポを取って今回の件を説明、直接謝罪に出向くこととなった。係長も付き添ってくれる。

 

 訪ねたのは翔太しょうた君の家。

 翔太君は月の終わり市役所を訪れる僕と同い年の若者で、書類の受理が終わるといつもハイタッチを交わしてくれる、ノリがよく笑顔が素敵な青年だ。

 ひとり親世帯で、お母さんはスーパーのパート勤務を続けながら翔太くんを支援施設に通わせ、月に二回、隣県のクリニック通院にも付き添っている。

 背筋に沿って結われた黒髪がいつもまっすぐに伸びている清潔感に溢れたしゃんとした人。 三日月を描かんばかりの優しい目で翔太君を見守っている。翔太君の笑ったえくぼはきっとお母さん譲り。 

 そんな翔太君のお母さんは今回の事態にも僕を責めることをしなかった。


 「仕方がない、若いうちはそんなこともあります。勉強になりましたね」


 そういって気づかう言葉さえくれた。決して余裕のある生活ではないだろうに。僕は九十度だった頭をさらに、深く深く下げた。

 翔太君も家にいて、予想外に僕に会えたことが嬉しかったらしく、ニコニコ笑ってハイタッチを求めてきた。

 心は戸惑う。

 が、くせで中途半端に手を挙げてしまう。無垢な笑顔に逆らえず、でもはたして今の自分にそれをする資格があるのか葛藤もあって、折衷案、小さくエアタッチをする仕草をした。

 いつものようにプチプチが割れるような胸のすく小気味よい音は鳴らなかった。

 

 戻ってきたのは午後二時半。とりいそぎ顛末書てんまつしょを書き上げ、先輩の机にチョモランマなみに積み上がった決裁書類の頂きに置く。今回の一件を回覧し、部署に情報を共有するのだ。

 僕の犯した罪が知れ渡る。腕をさすりつつ、書類の行方を目で追うと、仕事の合間、片手間にハンコを押す同僚もいれば、しっかりと読み込む課長補佐。立派な印鑑を課長が押して、ラスボス大井おおい福祉保健部長へと顛末書は渡る。

 

 まだまだ男性の管理職が多い若葉市役所において、三人の子どもを産み、育てながら女性初の部長職についたゴッドマーザー。


 議会において、怪物議員さえ黙らせる氷点下の声音で呼び止められれば、心臓表面にある血管がひくっと止まり、繊細なゴールドフレーム奥にある漆黒の瞳をむけられれば、メドゥーサに睨まれたが如く体は石となる。

 彼女の一挙手一投足は僕の身体すべてを凍てつかせるのだ。

 部長は鋭い眼光で顛末書を吟味しハンコを押すと、このフロアで最も厚みある事務椅子から腰を上げ、僕のもとへと直接やってきた。

 無意識に息を止めてしまう。


 しかし、絶対零度の魔人から告げられたのは、たった一言。

「今度からはきをつけようね」

 ニュアンスは小学二年生の時の担任、真由美先生のように穏やかで柔らかい。呆けた僕をよそに部長は書類を机に置いてさらりと机に戻っていく。


 向かいの席の後藤ごとうさんからも労うように「お疲れ様です」と声がかかる。回覧された書類をみたのだ。


 誰からも叱責されない。小心者である「僕」としては安堵するはずの状況なのに、長い髪の毛をくしゃくしゃにして丸めたような毛玉が胸に絡まる。


 首の後ろが無性に痒くなり、爪で引っ掻いた。毛の先が神経に巻きつき悪さでもしているのだろうか。

 ふと親指がネクタイに触れると、朝きっちりと結んでいたはずの紐が緩んでいるような気がした。首と襟の間は汗がにじんでベタベタ、でもこれを緩めてはいけない。

 キュッと強く締めなおす。

 汗を拭ってからすればよかったと後になって後悔したが、再び解く気にもならず、そのまま残りの仕事に手を付け始めた。


 定時三十分前、それは【至急】を冒頭につけた庁内メールで飛ばされてきた。

『会計課の片桐かたぎり課長、南保育所の田中たなか所長と女子会をするんだけど、良かったら岬くんもどうかな。 大井』

 

 唐突かつ意図不明なお誘いにハテナが浮かんだ。が、ふと思い当たることがあり、一瞬にして氷の欠片をスーッと背中に落とされたような心地になる。

 

 先輩たちから都市伝説程度に聞いていた。 

 時折、女性管理職が新人職員を呼び出す飲み会、通称サバトがあると。

 呼び出されたと噂される職員は多くは語らず。きまって翌日、人が変わったようになる様から、魔女もとい女性幹部たちから何やら魔術でもかけられたのではないかと影で囁かれていた。

 

 その招待状が僕にも届いたのだ。

 医療費の支払いの件では会計課の長たる片桐課長にも相談し、時間をとってもらっていた。田中所長のことも知らないわけではない。

 覚悟を決め、参加の意を生贄に捧げられる小鹿のように震える手で打った。

 なんだかんだ業務がおして、仕事が終わったのは午後八時半。もともと大井部長には遅くなることを伝えていて、終わったら連絡をいれるようにと言われていた。

 パソコンを閉じつつ、遅くなった謝罪と仕事を終えた旨をショートメールで打つ。

 

 すると五分もしないうち「お疲れ様」の文言に続くニコちゃんマークの後に、店のマップが送られてきた。


 バー『seely wights』飲み屋が並ぶ路地の、店看板が整列した雑居ビル地下一階、バーやスナックが十軒ほどある一角に、祭宴会場はあった。

 

 チョコモナカアイスのような重厚な木扉をおそるおそるあけると、そこは都会的な雰囲気にほんの少し昭和の風味を匂わすネオンシティ。


 夜明け前、朝と夜が混じったような紫立ちたる光の満ちた空間は、酒棚を囲むようにコの字型のカウンターテーブルと赤いレザーのバースツールが配され、ビールグラスひとつとっても洗練された趣漂う。


 けれどもそこに絶妙なバランスかつアンバランスに置かれた、ネバダ州の荒野に輝かんばかりのネオンサインが、垢抜けた都会のムードにいい感じの野暮ったさを加えている。

 

 木扉をくぐった先、未知の世界に迷い込んだ子羊に「いらっしゃい」と声を掛けたのは店の主。

 いやマスター、マスターだ。彼は葉巻の出てくるバーに似合いそうなカマーベストに蝶ネクタイというクラシカルなスタイル。絶対にマスターと呼びたいタイプの人。顎下の髭もちょい悪でクール。

「岬君、こっちこっち」

 田舎から出てきたお上りさんを現実に戻したのは、パープルネオンのライトを鋭角に受け、口元の笑みだけがうっすらと浮かび上がる魔女三人。

 

 さあ宴の開幕だ。

 と、覚悟したところで始まったのはほんとうに女子会。

 年齢という概念を超越した美貌の持ち主、会計課の女王片桐課長の恋バナから、普段は保育園児とお尻ダンスを踊るパワフル田中所長がドはまりして、現地まで行ったという韓国の最新美容事情。最近はシカ成分の入ったパックがトレンドらしい。

 僕が奈良に徘徊している生物を思い浮かべていると、ハーブのことだよと笑われた。

 魔女は脳みその中身まで見えるらしい。大井部長からも最近のメンズ美容について尋ねられる。なんでも旦那さんのお肌が日々砂漠化の一途をたどり、お悩みなんだとか。

 とりあえず、初心者に間違いのない某印容量たっぷり高保湿化粧水しっとりタイプをおススメしておいた。

 

 失礼ながら皆さまアラウンド還暦。アラ還だ。メールが来た時、『女子会』の文言に「女子」の定義を考えたりもした。

 二十三年間生きてきて、女子を女の子=若い女性ととらえていたが、本来女性全般を指す言葉らしい(グーグル先生談)。話す内容もネットドラマなんかで見る二十代女子とさして変わらない。

 

 呆気にとられる、と同時に妙な気合を入れてきた分、モヤモヤが募る。瞬く間に胸の内に濃灰のうかい色の積乱雲が築かれ、今にも暗黒龍が飛び出てきそうだ。甘いカルーアミルクを一気に飲んで抑えこもうとするも、ベビーフェイスな大人のミルクは、高ぶった気持ちを鎮めてはくれない。

 くすぶる火にアルコールを注ぎ、余計な一撃を放つトリガーとなる。

「なんで、僕を怒らないんですか」

 HP満タン、不躾に言い放った僕に部長はきょとんとした顔で、

「叱られるようなことしたの」

 と問う。すげなくよけられた。しらばっくれるのもいいかげんにしろ。第二撃ぶっきらぼう&タメ口発動。

「昼間の三角みすみさんの件」

 三角さんとは翔太君の苗字。ああ、と部長は思い出したように。

「昼間にいったじゃない。きをつけようねって」

「叱責になってません。オレがミスしたから、怠けたから。あんな風になったのに」

「怠ける?」

「オレがきちんと確認しなかったから」

「確かに医療費の支払いは君の仕事で、責任の一端はある。だから君はきちんと謝りに行ったじゃない。それにあの書類は誰が受け取ってあそこに置いたかは分からないんでしょう。次から対策を講じて気を配ってくれればいい」

 その達観した物言いにフラストレーションが溜まっていく。かゆいかゆいかゆい。左手で首筋をぼりぼりと掻く。

 毒に侵された。混ざりきらなかったカルーアミルクの原液がねばっこく喉に張り付いている。

 たしかに福祉保健部には毎日数百人単位でお客さんが来て、別業務があれば他の職員に受付を頼むことも多い。出張や会議等で席を外すこともある。

「でも翔太君は毎月来てる子で、先月もハイタッチ…」

—―いや、待て、オレは翔太君と先月ハイタッチしたか?トレードマークの肉食獣が描かれたキャップを見ただろうか?

「……」

 断言できる。『僕は』先月翔太君とハイタッチしていない。トレードマークの肉食獣を見ていない、みていないのだ。

 自分でない誰かが受け付け、誤って書類を仕舞ったのは明白。ある種の不運な人身事故。部長はそれを分かっていた。だから必要以上に僕を責めることをしなかったのだ。

 じわじわと減らされるHP。それでも僕は抗う。

「僕が受け付けてはない。けど、気づかなきゃならなかった」

「気づく?どうやって」

「毎月の申請者を覚えて・・」

「覚える?月に何百とある申請を一つ一つ覚えておくの?申請書を出すタイミングだって人によって違うのに」

 そうだ。医療費の支払い時効は五年。支払いの申請書を半年、一年分とまとめて出す人もざらにいる。翔太くんも以前、二月分をまとめて出したことがあったではないか。


「君には他の仕事もあるんだよ。できもしない仕事をどんどん増やしていく気?体と心がもたないよ」

 ズバンと一刀両断。見事にとどめを刺された。

 座ったバースツールの色褪せた赤がいやがおうにも視界に入る。

「みさきくん」

 真由美先生に似た声が僕を呼ぶ。

 僕は知っている。この響きを持つ声は決して、僕の敵にはならない。

 口下手な僕の話を放課後残って、辛抱強く聞いてくれた。

 ゆっくりと顔を上げる。魔女の虹彩に人工的な紫の光が混ざり、その瞳には不思議な魔力が宿っていた。

「君は頑張ってるよ」

 まっすぐと居直って、直と深いアメジストの瞳を合わせて告げられる言葉は、僕の心の中心を一点に射貫く力があった。

「君は頑張ってる。見てるよ。君は今回の件でとても悔しい思いをしたね。君が泣きそうなくらい相手に対して申し訳なく思っていたことも知ってる。君は十分向き合ってるよ」

 力の入った腕が、拳が、小刻みに震える。

「だから今、私がやるべきことは君を叱責することじゃない。君が堅く握りしめて、白くなってしまってる拳を、ゆっくり開かせる魔法をかけること」

 ハッとして自分の右手を見やったとき、僕は無意識にネクタイを、襟を、首を絞めるようにぎゅっと強く握り込んでいた。


 僕はいつも、足りないと思ってきた。

 大学三年の春。コロナの渦に巻き込まれ、平穏な大学生活は二年で幕を閉じた。

 それまでサークルに入ることもなく、単位を取ることで精一杯だった僕は友人がおらず、三年から強制的に入らされるゼミで友達を作ろうなどと甘く考えていた。

 似通ったテーマで卒論を書く人間なら話も合うだろうと。しかし、コロナで授業は全てリモート。卒業半年前には対面授業に戻ったものの、別れが前提の関係を築こうとは思えなかった。

 

 だから市役所に入ったとき、僕は期待していた。新しくできる同期。

 ほとんど年が変わらない男女二十人。少しずつ規制緩和された中での飲み会。

 公務員という職業柄、より一層、これからの人生を共にするという一体感が強く、すぐに数人の同期と仲良くなることができた。

 

 だがしかし、高校時代以来の友人に僕は大切なことを忘れていた。仲良くなるということは、その人を良く見るようになるということ。仲良くなった友は皆、僕からみて、「できる人」だったのだ。

 

 同じ福祉保険部保護課に配属されたさわやかイケメン寺田てらだ君は、酔って暴言を吐く名物おじさんを優しくも毅然とした態度で宥めることができる。

 

 元野球部だという市民課山下やました君は、飲み会の席で誰かの飲み物が減ると、話の腰を折ることなくナチュラルにおかわりを勧めることができる。取りまとめも上手い。

 

 高卒で入った会計課小日向さんは、何千万という金額の書類を淡々とすごいスピードでさばくことができる。

 

 僕は怒鳴り込んでくる人がいるとおびえてどもり、余計にうまく説明ができなくてさらに怒らせてしまうし、先輩のグラスも注視していないと替えることができない。また、先輩の話が続いているとタイミングを計れず、結局言い出せなかったりする。十万を超えよう支払いは何度見直したって安心できない。

 

 それでもはじめのころはそんな同期は他にもいて、「自分だけじゃない」そう思い込むことで心の平穏を保っていた。

 けれど一年経ち、退職者送別会で久しぶりに多くの同期達と顔を合わせると、みな見違えるように上手く立ち回っていた。タイミングを見計らってビール瓶を運び、酔って絡む退職者の相手もお手のもの。

 

 スタートラインは同じ。僕だってみんなと同じ試験に受かってそこに立った。


 頭が悪いわけではない。小中高と地元の学校、見慣れたメンバー。狭いコミュニティの中では頭が良ければそれだけで一目置かれた。友達は少なかったけれど居場所はあった。今まではそれでよかった。

 

 しかしここでは皆が同じ賢さを持ち、その上で、より優れた人間力を必要とされる。僕が湯垢のようにこびりついたちっぽけなプライドを守ろうと、ぬるま湯につかって安心しきっている間にも、同期達はきちんと己を磨いていた。

 

 置いていかれている。マリアナ海溝より深い亀裂の向こう側に同朋たちはいってしまったのだ。

  

 そんな僕の心などそしらぬふりをして季節は進む。桜の散る四月、福祉保険部にも数人の新入職員が配属され、僕も先輩となった。

 目に見える形で教える立場になり、自覚が芽生えて人間力が磨かれると思いきや、直属の後輩、南さんも「できる人」だった。日に何十回と鳴る電話を二コール以内にとり、書類の決裁スピードは輪転機りんてんきなみに早い。部の懇親会でも幹事の僕をサポートし、注文の取りまとめをきびきびと行ってくれた。声もハキハキと大きいパーフェクトウーマン。

 

 僕の先輩としての威厳は一か月持っただろうか。僕が「すごいね」と褒めると、南さんはなんの含みも屈託もなく「ぜんぜんです」と笑った。たぶん彼女にとって本当にそれらのことはできて当たり前のこと。

 

 他人が無意識に「できる」ことが、僕は意識して集中しないと「できない」でもそれに集中したらほかのことを取りこぼしてしまう。悔しくて情けない。

 

 足りない。普通にできるようにもっと、もっと、努力しなければと、この二か月余計に焦っていた。

 

 そんな水中でもがくような日々の中、唯一、僕の理解者だとおもえたのが翔太君だった。翔太君はなかなかパンチの効いた人。

 

 どこか既視感を覚えるワニとメロンが融合したゆるキャラのラグランシャツに、スポーツブランドの黒キャップがスタンダードスタイル。

 

 話すときはため口、距離も近い。が、市役所に来れば、様々なところから声がかかる人気者。初対面で緊張している僕にも遠慮容赦なくしゃべりかけてきた。

  

 その間合いの近さに最初はためらったけれど、書類の確認が終わり、手を上げて笑顔でハイタッチをされた時、僕は初めて自分の仕事が認められた気がした。

 

 やっと一つの仕事をやり遂げられた気がしたのだ。翔太君とのハイタッチはコロナが明けて、はじめて、ひとと手を合わせた瞬間だった。

 

 しかし、今日、その翔太君と翔太君の大好きなお母さんを悲しませるようなことをしてしまった。僕が至らないばかりに。それでもみんな僕を非難しようとしない。

 

 ゆえに僕は自分で自分の首を絞めた。『悪いことをしたら罰が当たる』昔から刷り込まれてきた常識。

 

 今日一日、息をするのがものすごく苦しかった。どうしても足りない、足りない、と自分を責める自分がいる。

 自分を本気で追い詰めたことなどない。

 だから自分の許し方ですら分からない。

 きゅうきゅうに喉を絞り続ける。血液が脳にいきわたらず、水が鼻に入ったような痺れる痛みが頭を締め付ける。

 

 窒息寸前。

 そんな時、大井部長からメールがきた。やっと自分以外に僕の罪に付き合ってくれる人がいる。罪と正面から向き合うことができる。 

 サバトなんかではない。僕にとって今日ここは、何より神聖な懺悔ざんげの場所になるはずだったのだ。

  

 だけどここにも僕の罪を咎める人はいない。

「私は君の書類好きだな。字はあんまり上手じゃないけど、丁寧に書いてあるのがわかる。添付書類の糊付けは寸分狂わず合わせてくれてるし、金額のチェックも蛍光ペンで何回もピンがついてて、しっかり確認したのが分かるよ」

 そういって淡く上品に微笑む片桐課長。

「私も君がいつも声を掛けてくれるの助かる。本庁に行くとたくさん提出物があって迷うんだよね。事務作業って所長になってから始めたから、何をどの課に持っていくか全然分からなくて。職員証はぶら下げてるから困ってるって分かりずらいし、他の職員さんに聞こうにも足早いし。でも君は私が大量に書類を抱えて、あっちらこっちらやってたら、不安そうに大丈夫ですか、って足止めて、声かけてくれたよね。それからは本庁に来るたびに助けてくれる」

 日焼けした人好きのする笑みを浮かべる田中所長。二人とも僕を見て笑っている。

「ねえ、これでも君は怠けてるって、自分を責めるのかな。失敗しない人はいないよ。反省することも大事。でも一番大事なのはそれをどう受け止めて、次にどう活かすか。ずっと自分を責め続けて、下ばかり向いていたら、たくさんのことを見落としてしまう。翔太君と笑顔でハイタッチもできない」

 そうだ。

 今日は翔太くんとハイタッチしていない。あのすべての邪気を吹き飛ばすような心地よい破裂音を鳴らすことができなかったのだ。


「百八十度上を向こうとは言わない。九十度前を向こうよ」

 

 ただ諭すように僕を見つめる魔女達のまなざしは、聖母が子に与えたもう愛がごとく、慈しみに満ちていた。

 それに宥められるよう首もとから震える手を放し、目一杯息を吸こんだ。すると、息と同時にせき止めていた涙がぼろぼろとあふれてくる。

 アニメでみるヒロインの泣き顔にあんなに泣けるものか、あんなに涙が大粒なものかと思ったが、あれよりずっと大きな濁流が僕の頬をつたっていた。鼻もズビズビ言っている。


 情けない。情けない。……でも、いいんだ。

 

 散々泣いて、お開きになったのは日付の変わる頃。僕はお酒を飲んでいなかった片桐課長の車で自宅まで送ってもらう。ドイツ製の車のシートは日本人と足の長さが違うのか、背もたれに包まれるよう強制的に深く座らされる。穏やかなステアリングも相まって、上司に送ってもらう最中だというのにうとうとしてしまう。

「寝てていいよ」

「いえ」

 必死に睡魔をこらえる。片桐課長は小さく笑うと独り言のように呟いた。

「大井ちゃんあんなこと言ってたけどね。彼女も君に似ていたんだよ」

 酔いも覚めるような言葉に、キョンシーのごとく身体が跳ね上がり、目を丸くする。

「とことんまじめで、不器用。できてるって言ってるのに、自分はまだいろんなものが足りないって、詰め込んで、詰め込んで、ぱんっぱんっになって弾けちゃった」 

 風船ガムが破れた、そんな何気なさで片桐課長はいったが、僕にとっては身につまされるようで恐ろしい話だった。

「あたしと田中ちゃんで真っ暗な部屋から連れ出して、たくさん飲み歩いて。少しずつ傷跡縫って、また膨れそうになったら空気抜いて。大変だった。今は旦那さんが上手だからやってもらってるけど」

「そうだったんですか」

「だからこそ、彼女は君みたいな不器用な子に言葉をかけてあげたいって思ってるみたい」

 赤信号でゆっくり止まると片桐課長は僕の瞳をのぞいた。

「今の時代飲みニケーションなんてはやらないことも分かってる、コロナもあったしね。でもこうやって、目を見つめて直接話すことも大事だと思うんだ。仕事の場じゃなくてさ、空気をゆるーくぬいて、一人の人間として向き合って、必要な言葉をかけてあげる。ただでさえ日本人は本音を隠しがちなんて言われるんだからさ、お酒の力でもかりて、ちゃんと言ってあげなきゃね。君は必要とされてるよって。市役所には意外と不器用ちゃんが多いから。まっ、今じゃサバトなんて言われてるけど」

 最後の言葉に、ギョッとして運転席をみる。何より彼女を魅力的に照らす青の光芒を受け、誰より美しく魔女は微笑んでいた。

「君にも魔法がかかるといいね」


 翌日、パンパンに腫れた顔をポロシャツに乗せて出勤すると、朝の喧騒がロウソクを消したようにふっと止まり、顔が変わってるだのなんだの、どこからともなくひそひそ声が聞こえてくる。


 ネイビーポロシャツイケメン寺田君からは「大変だったねぇ」と微糖コーヒーを渡され、通りかかった赤シャツ山下君にはなにかあったのかと直球で心配された。けれど、片桐課長が恋する乙女なことも、田中所長が美容マニアなことも、大井部長の旦那さんがお肌の乾燥に悩んでいることも僕にだけ教えられた魔女の秘密。


「内緒」

 そう笑った時、係長から声がかかる。

「岬君。お客さん」

 窓口を見ると、翔太君とお母さんがいた。

「どうしたの。目が腫れてる」

 翔太君は距離感をバグらせ、玄関スコープを見るように僕の目を覗き込む。

「なんでもないよ」

 苦笑いを返すと、翔太君は一枚の紙をつっけんどんに渡してくる。医療費の申請書。いつもは月末にまとめて出しにくるのに。

「昨日のハイタッチが気に入らなかったって、早く申請書を出しに来たんです」

 

 もじもじする翔太君の横で、お母さんがそっと教えてくれる。緩む頬を引き締め、翔太君から手渡された申請書をしっかりとチェックする。

「はい、確認しました」

 顔を上げて受け取ると、翔太君が嬉しそうに笑い、右手を大きく上げた。


 きっと僕の後ろ、一番奥の席で魔女が僕たちを見つめている。魔法の効果が伝わるよう僕は翔太君の手に思いっきり自分の手を強く重ねた。

 万緑ばんりょくがもたらす澄み切った空気に、祝福の鐘を打つような音が、余韻が、高らかに鳴り響いた。

 

 首元は涼やか、白いポロシャツにもう、ネクタイは似合わない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三人の魔女とクールビズ 白木 春織(しろき はおる) @haoru-shiroki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ