四元数の悪魔
理山 貞二
四元数の悪魔
次の質問に答えよ。
【問題】引っぱり虫とは何か?
【解答】地中奥深くに住む生き物で、無数の見えない触手を地上のあらゆるものにからめて引っ張っている。その力は重力とも呼ばれる。愚かな地球人は宇宙に行くために大推力のロケットを使うが、実のところそんなものは必要ない。あらかじめ引っぱり虫の触手を切り落としてさえおけば。
これは矢野徹の児童書に登場する生き物だ。俺が読んでいると、母は本を
だから事業に失敗して、負債を返す見込みがなくなったその時も、屋上のフェンスを
海釣り公園に着くとそこは血の海だった。血だまりの向こうの突堤には見るからに速そうな船が衝突して黒煙を噴いている。そして俺に背を向けて男が一人立っていた。男と船の間には
あながち間違いというわけでもなかった。
男の顔はとうとう分からなかった。あっ、あっ、あっ、と奇声をあげた次の瞬間、頭が破裂したからだ。首無しの死体が倒れ、その上には生き物が立っていた。
生き物と言っていいのかどうか。大きさは幼児ほど、丸い膨らんだ頭と細長い胴体を持っている。表面は
写真を撮ろうとしたが、スマホの電源を入れていなかった。横のボタンを指で探っていると後ろから
ほんの一瞬、そいつがスマホに――スマホがそいつに、ではなく――吸い込まれたように見えて、それから爆発が起こった。リチウムの炎とスマホの破片の中、生き物は何事もなかったように地面に降り立ち、またこちらに向かってくる。俺の抗議にはお構いなしに、女は俺をぐいぐい後方に引きずっていく。そこにはワゴン車が一台停まっており、俺は女に羽交い絞めにされたまま、リアゲートから車内へと転がり込んだ。
すぐに発車した。車内は座席のないモノスペースで、クーラーボックスが一つ置いてあるだけ。壁に仕切られていて運転席は見えない。女はようやく手を放してくれて、床のマットに二人で座り込んだ。
女は短い髪で、片耳にはワイヤレスイヤホンを嵌めている。化粧はしておらず、着ているのも作業服というより囚人の作業衣のようだ。悪餓鬼に出会った野良猫のような目つきで、すまなかった、あぶないところだったんだ、と大してすまなそうでもなく俺に謝った。そして胸ポケットから煙草を取り出し、一服して言う。
あいつは眼を合わせた者から順番に襲うから。
あれはなんなんだ、と訊くと、わからない、と答える。
差し出された一本を断るとクーラーボックスからペットボトルを手渡してくれた。ミネラルウォーターを飲んで一息ついてから、後部ドアのカーテンを開けて窓の外をみると、追いかけてくるそいつが見えた。指を立てて腕をまっすぐ前に伸ばす、そのときの人差し指ほどの大きさだ。子供相手にやってみればわかるが、距離にして数メートルも離れていないようだった。やがて道路がカーブし、その姿が山の陰に隠れた。
しかし車が県道一六号の山道を登り始めたとき、ルドンの一つ目巨人の絵のように、背後の山からいきなりそいつが頭を出した。山の
嘘だろ、あんなに大きくなったのか。
いいや、遠近法を無視しているだけ、と女が言う。
遠近法といえば、昔から絵は好きだった。特にルドンやダリのような空想の絵は。母に買ってもらった「なぜなに学習図鑑」には、遠くの海から、近くに置いてあるボールの上に
とはいえ現実の問題として、目の前の化け物は遠近法を無視して追ってきている。山を越えてくるそいつが自分の視野に占めるサイズは人差し指大で、さっきからちっとも大きさが変わらない。おまけにそいつには影が無かった。
車は
動き続けるといっても、等速運動じゃだめなんだ。でなきゃますます近づいてくる。
たしかに車のスピードを落としたからといって背後の怪物がそれだけ距離を狭める様子はなかった。たくさんの脚を動かしてはいるが、よくよく観れば追いかける速度と釣り合っているとはいえない。
緑色の大きな眼はずっとこっちを見ている。
あんなやつどこから来たんだ。今度は答えてくれた。
アイルランドから。
一八四三年十月十六日、アイルランドの数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンは、妻と共に運河にかかる橋を歩いているとき、突如として四元数の基本公式が頭に閃いたという。それは三つの虚数と一つの実数を持った数体系で、三次元の物体の座標・移動・回転などを自在に記述することができた。彼の発案した四元数による演算手法は、今でもコンピュータグラフィックスやロケットの姿勢制御プログラムなどに応用されている。
ハミルトンは四元数の研究を続けたが、晩年はアルコールに溺れ、その成果を誰にも理解されぬまま一八六五年に亡くなった。だが彼は解析力学や代数学の分野で数多くの業績を残した学者であり、その死後も四元数の信奉者は存在した。日本の木村駿吉らによって四元数の国際協会が設立され、一時は世界的な盛り上がりを見せるも、しかし目立った成果を上げることもなく一九一三年に閉会している。物体の運動はともかく、その他の解析に応用するにはあまりに難解過ぎたためだ。一般的な解析手法としては、ウィラード・ギブスらによって提唱されたベクトル解析が取って代わり、現在に至っている。
それでも四元数の信奉者は存在し続けた。その中からは「この数体系こそ世界の正しい姿を現している」「大統一理論や万物理論を簡単に記述できる」などと考える狂信的な集団も派生した。ベクトル解析を憎むあまりに彼らはカルト化し、およそ科学的とはいえない怪しげな方法で四元数の研究を続けた。
車は加速と減速を繰り返しながら国道四七八号に乗った。他の車の姿は対向車線にも見当たらない。スマホがないので外の情報を手に入れることができない。たぶん女のバックにいる組織だかなんだかが交通規制させているのだろう。
女は自分の素性を教えてくれない。代わりに万物理論について訊くと、大統一理論に重力を加えたものだという。ああ、引っぱり虫か、それなら研究したくもなるよな、と俺はその連中に何となく親近感を持った。次の話を聞くまでは。
数か月前のある夜、アイルランドの私設天文台にあった四元数カルトの本拠地が、突然に壊滅した。調査に赴いたアイルランド警察の一隊も、銃の効かない奇怪な生物に襲われているという無線連絡を遺し、のちに頭部を破壊された死体の山として発見された。謎の存在による大量殺人事件は、その正体を解明されぬままアイルランド国内を東進し、遂にはイギリスへと移動することになる。イギリス・アイルランドの合同調査隊は、通り魔が通過した跡のような被害発生地域を
i^2=j^2=k^2=ijk=-1
女は床のマットにペットボトルの水滴で式を書く。アイ、ジェイ、ケイ、四元数の世界はこんな三つの虚数の座標軸と一つの実数がある。アイジェイケイの三つの積がマイナス1になるところが、高校で習う複素数とは違うところだね。
物体の位置は、縦・横・高さの三つの実数の座標で表せるが、この三つの虚数と一つの実数から成る四元数の座標でも表すことができる。
あいつは異世界から召喚されたらしいけど、それでもあいつはここに居るわけじゃない。縦・横・高さの三つの実数座標で表される三次元の世界じゃなくて、一つの実数と三つの虚数で表される四元数の世界に居るんだ。だからあいつに攻撃は通用しない。出来の悪いゲームのポリゴンみたいに、壁でもなんでも素通りしてしまう。
あいつを殺す試みも、意思の疎通をはかる試みもすべて失敗した。殺意があるのか、興味本位なのか、そもそも意思なんてないのかもしれない。生き物っぽいけれど実は自動機械なのかも、もしかしたら異次元人が使うパソコンの、マウスカーソルみたいなものかもしれないよ。わかっているのは、あいつと一度でも目を合わせたら最後、
四七八号線から一七三号線へ。車はさらに南下していく。まだ山間の道路とはいえ兵庫や大阪の市街地も近づいてきて不安になった。
「カメラ越しだとどうなるんだ」
「カメラ本体は破壊される。きっとレンズやCCD素子の上に実体化するんだろう。確認できる限りじゃカメラ越しに遠隔地から監視していた人間は無事だけど、皆殺しリストの後ろの方には入ってしまうのかもしれない。わからないよ。これまであいつの目の前には兵隊やら野次馬やらがひっきりなしに割り込んできたし、今はあんたが最優先だからね」
「俺のスマホを壊したのもそのせいだったのか」
「私じゃない、あいつが壊したんだ。でもあんたが海釣りに来た只のおっさんじゃなくて、ユーチューバーだったら私が殺していたね」
「只のおっさん、って……。失礼な」
「じゃなんなの、説明して」
「自分は名前も教えないくせに。これでも社長だ」
女はしばらく片耳のイヤホンに手を添える。
「そう。で、負債はいくらあるの」
どんな組織が背後に居るかは知らないが、相手はこっちの財布の中までお見通しってわけか。投げやりに俺は金額を答える。すごい、と女は大して凄そうでもない口調で言った。
「道理であんたはスマホの電源を落としていたし、壊されてもあまり怒らなかったわけだ」
「いや、怒ってるよ」少なくとも根には持っている。
「普通の人はもっと怒るんだよ。あんた、電話がかかってくるのが怖かったんだね。それに、ここから出してくれとか
なんでそんなこと言われにゃならんのだ。それこそどうでもよくなってきて「悪いか」とだけ返した。
しかし、女は微笑んだ。
「いや悪くない。充分だよ」はじめて微笑んだ。
「社長。あんたに頼みたいことがある」
異次元から来た怪物を捕獲し、事態を鎮静化するためにイギリス・アイルランド両政府は極秘裏にさまざまな作戦を実行した。度重なる失敗と犠牲の末に、AIが制御するカメラ搭載ドローンを使って、イギリス空軍はこの怪物を貨物船の船室に閉じ込めることに成功した。しかし情報がNATOに共有された途端、その封印が破られた。何者かが船舶に忍び込み、隔離したはずの怪物を運び出してロシアに持ち込んだのだ。甚大な被害を撒き散らしながら怪物はロシア国内を東進したのち、高速艇に乗った目撃者を追って日本にやって来た。
ロシア国内の情報は正確に把握できなかったため、アメリカからの通報を受けて日本の対策班が上陸現場に到着したときには、すでに多くの被害者が出た後だった。もっと悪いことに、陽動担当者より殺害可能性の高い目撃者が一名、まだ生存していたのだった。
川西市の中心に入る直前で車は
女に訊いた。誰がどうやってあいつを運んだんだろう。被害を出さずにヨーロッパ大陸を横断してロシアに持ち込めるとは思えない。
誰がやったかは公表されていない。でもどうやったかはわかっている、馬鹿馬鹿しいほど簡単な手口だった。
四二三号から中国自動車道を東へ進む。東へ、東へ。アイルランドからイギリスへ、NATOからロシアへ。ロシアから日本へ、か。まるで憎悪のリレーだな、俺が呟くと女も頷いた。
ここで止めるよ。
来賓専用通路から万博記念公園に入った。無人の園内を車は中央口へと向かい、太陽の塔の背後で停車した。そこで俺たちは車から飛び出した。
金属が潰れ、ひしゃげる音が背後から響く。俺たちが置いていったせいで皆殺しリストのトップになったワゴン車、それをあいつが破壊しているのだ。振り返るとワゴン車は穴だらけになっていた。運転手は大丈夫なのか、と思わず叫ぶ。
自動運転だよ、と女は事も無げに言う。
記念公園中央口を抜ける前にもう一度振り返る。太陽の塔の陰からあいつが顔を出し、白い胴体を回り込んで、芝生をまるまる
俺たちは走る。目的地は陸橋の向こう、エキスポシティの観覧車だ。
作戦を聞いたときから半信半疑だった。エキスポシティに着いたら観覧車のゴンドラに乗れ、そこであいつを迎え討つ、そう言われて、はいわかりました、と返事する奴はいるまい。相手は四元数の世界から来ていて、地球の自転や公転にも同期している。観覧車の回転座標系に合わせるのも造作もないことだ。ゴンドラに乗ってしまえば俺は移動できない。つまり奴にとっては静止した標的も同然だ。
けれど、あんたとあいつの間には真っ黒なゴンドラが設置してある、と女は言う。
あれか。観覧車のゴンドラの中に、外が全く見えないものをジョークで一つだけ混ぜてあるというやつ。確かひらかたパークが始めたアトラクションだ。
もちろんそんなものではなかった。
黒いゴンドラには鏡がはいっている、と女は言った。あんたも見たろう。あいつは鏡像に映った自分にも反応するんだ。
そうだった。俺のスマホには電源が入っていなかった。あの怪物はスマホの表面に映った自分自身と目が合ったから、中に入って破壊したのだ。だが普通の鏡ではカメラ同様、破壊されて終わりなのではないか。
只の鏡じゃない。内側が鏡になった中空の球体だ。そこに奴を誘い込む。凹面鏡だと、鏡像は鏡の手前で結像する。だからあいつはゼロになるまで自分の虚像と距離を縮めようとして、そこで動きを止めるだろう。ヨーロッパの連中がロシアに怪物を運んだ時と同じように。
子供のころ読んだ江戸川乱歩の「鏡地獄」を思い出した。図書館で借りた児童書に載っていたのだが、母はちらっと見ただけで、早く返してこい、と怒った。あまりに挿絵が怖すぎたせいだ。
それにしても、なんでこんなに母のことばかり思い出すのだろう。
それはともかくとして、やはりおかしい。そんな仕掛けがあるなら、わざわざ観覧車のゴンドラに吊るす必要はないだろう。俺と奴との間の地面に置くだけじゃだめなのか?
あいつが山の稜線を乗り越えたのを見たろう。重力やら地形やらといった、こちらの世界の要素にも少しは影響されるみたいなんだ。観覧車の円軌道に乗せることで、ほかのコースを辿る可能性は排除したが、それでもあいつが黒いゴンドラを透過せず乗り越えてくる可能性は捨てきれない。ヨーロッパの連中がやったように、あんたを球体に閉じ込めれば確実なんだろうが、私らは人道的だからね。
俺と奴の間にドローンを割り込ませてから閉じ込めれば、もっと人道的だと思うがね。
リチウム火災や破片の飛散で鏡が壊れるリスクがあるってのに?
俺を殺さないで済む仕掛けがほかにもあるとでも?
観覧車の回転を加速させる。地面に近づいたらすぐ降りて逃げろ。回転を不規則に加減速すれば、あいつはあんたにそれ以上近づくことができなくなる。ここまでの道中と同じだ。だけど今度は、あいつが不規則に動く番だ。
それで奴の動きは止められる。永久に、ではないけれど。タイミングも難しいかも。あんたが降りられる場所でゴンドラを停められなかったら、その時は。
やれやれ、結局そうなるのか。
「外に飛び出して、引っぱり虫の力を試すわけだな」
「はあ? なにそれ」
しまった、つい口に出してしまった。仕方なく引っぱり虫のことを説明すると、きゃはは、なにそれ、ばかみたい、と女は声をたてて笑った。初めて、声をたてて笑った。
ゴンドラはゆっくりと上昇していく。床も壁もほとんど透明で、外の景色がよく見えた。背後には非常用の脱出口が設けてあり、そこから逃げ出せるようになっている。俺は一人シートに座り、溜息をついて、車から出る直前に女が言った言葉を思い出す。それはずっと寝たきりで、ついこのあいだ亡くなった母に対して、俺がかけた言葉とよく似ていた。会社の経営状況が悪くなればなるほど、その原因でもない母親に何度も繰り返した言葉だ。
そしてそれは、俺の本心ですらなかった。
遊園地のアトラクションの下から手を振る母親を探すように、女を探したが見当たらなかった。代わりに居たのは膨らんだ頭を持った四元数の怪物で、エキスポシティの石畳から観覧車のフレームに、遠近法を無視して直接よじ登ってきた。
もちろん保険金は会社に入り、負債を少しは減らせるだろう。だが、この作戦が完全に失敗したとわかったら、なんとかして地上に降りるつもりだ。
皆殺しリストの二番目の女は、車から飛び出す前にこう言ったのだ。忘れないで。あんたが生きている、ただそれだけでも救われる人間が大勢いるってこと。
だから次に逢ったら、こう言い返すつもりだ。偉そうに、上から目線で何様のつもりだ。助けてほしけりゃ素直にそう言えばいいだろうが。
そういうわけで返済はしばらく待ってもらいたい。あなた方にとっては聞き飽きた台詞かもしれないが、もう少し頑張ってみたいと思うのです。
四元数の悪魔 理山 貞二 @l7jwed
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