二日の後、わたしは御所を辞して実家に帰った。家に着いたのは夕刻であり、父母が寝殿でわたしを待っていた。

「おお、よく戻った。身体の具合はどうだね」

 父に問われて、わたしは頭を下げた。

「おかげさまで、今はつつがなく」

 そうか、と父は目を細める。その優しい顔を見るに居ても立ってもいられなくなり、わたしは口を開いた。

「――父君」

 けれどわたしが皆まで言うより先に、父は頷いた。

「ああ、お受け申し上げようと思っておるよ」

「……父君」

 やはり、とわたしは唾を呑んだ。

「恐らくこれが最後のお役目になろうな」

 その言葉の意味を悟った途端、わたしの身体は震えた。つまり父は、武蔵に骨を埋める覚悟であるということである。確かに父はもう若くない。それに武蔵は遠い土地だ。途上でもその地でも何が起こるかは知れない。

「そなたは兄と共に京に残るがよい。同行させるには忍びないからな」

 そう言われるだろうと感じていた。気がつけばわたしは声を上げていた。

「共に参ります」

 すれば父母は揃って瞠目した。

「わたくしも共にあずまへ下りましょう」

「……しかし、そなたは」

「自ら望んで申し上げるのでございます。父君と母君のお傍を離れとうございません」

 言葉を失った父と母に向かってわたしは軽く身を乗り出した。

「兄君には弁官べんかんのお役目がございますから、お残りになられるでしょう。ならば行くのはわたしでございましょう。兄君の分も父君と母君にお仕えしとうございます」

 いらえはない。わたしは頭を下げた。

「――お願いを」

 しかし、と父が漸く声を発した。

「本当によいのかね。そなたは職を辞すことになるのだぞ」

 母も耐えきれなくなったかのように口を開いた。

「京にいた方がもっと――よい目も見られるでしょうに」

 男君を見つけることを言っているのだろうと分かった。いつも思う顔をこのときも思った。胸がちくりと痛んだ。

 いや、けれども、それでいいのかもしれなかった。

「……いいえ。今は我が身の幸せよりも、父君母君に尽くし申し上げたいのでございます。今しかできぬことでございます」

 これはわたしの真の心だ。そのすべてではないとしても、真には違いない。

「どうか」

 わたしはもう一度頭を下げ、それから面を上げて、父を見やった。すれば父は涙をこらえているような顔で笑った。

「ならば、共に参ろう。――そなたが来るのなら、大いに慰めになる」


 こうしてわたしは武蔵の国へ行くこととなった。いつ京に戻るのかは分からない。もしかすれば二度と戻らないかもしれなかった。

 だがこれはきっと神仏の思し召しなのだろう。

 京にあるものはいっそ切ってしまおう。叶わぬ恋に苦しみ涙し続けるよりも。父母に伴って遠い遠い東の地にゆけば、そのうちきっと忘れることもできよう。

 そう思うと、心に落ちたままの冷たい石が少し軽くなるような気がした。



  ※



 武蔵行きが近くなり、殿上てんじょうに勤める時も残り少なくなったある日、わたしは彼に呼び出された。

 彼の宿直所とのいどころへ赴けば、彼は珍しく機嫌の悪そうな表情で脇息きょうそくに寄りかかっていた。

「武蔵へ行くのだって?」

 開口一番に言われた。わたしが頷けば、彼は柳の葉のような眉をひそめた。

「本当なのだね? もう随分前に決まったことだというじゃないか。どうして教えてくれなかったのだい」

 わたしとしたことが、すぐに言い訳を考えることができなかった。そこを突くように彼は重ねて問うてきた。

「なぜなのだい、命婦みょうぶ。そんなによそよそしいのはあなたらしくない」

 軽く息をついてからわたしは、なるべく当たり障りのない答えを返した。

「若君をこのような些事でわずらわせ申し上げとうはございませんでしたゆえ」

 彼は不満げに、些事だなどと、と呟く。わたしはそれに背を向け、火取ひとりに手を伸ばした。

「それより、何でございましょう。薫物たきものの見立てでございましたか」

 すれば背後から拗ねたような声が聞こえた。

「つれないね、命婦。武蔵へ行ってしまったなら長いこと会えないかもしれぬというのに」

 わたしはほんの一瞬手を止めて目を伏せた。

 そう――そうなのだった。そして恋心ゆえに、わたしはそれを望んでいるのだった。けれども、わたしのことを今なお近しい童友達と思っているに違いない彼に、それを悟られてはならなかった。



  ※



 時は早馬のごとくに過ぎ、とうとう明ければ武蔵へ行くという日となった。

 わたしは宿下がりをしており、明日には去る寝殿の母屋にひとりいた。灯のもとで文を整理していたのだが、ふと外の月明かりの美しいことに気づき、ひさしの間までいざり出た。御簾みす越しの月は円く透き通るようだった。二度と見られるかは分からぬ京の月である。この眼に焼き付けんとして見つめた。

 そのときふと、御簾の向こう、庭園の松の木の陰に人影のあることに気付いた。

 誰あろうと驚いて見つめた。その途端、密やかな声がかかり、わたしの心の臓は跳ね上がった。


「――命婦」


 まさか――ああ、まさか。

 わたしは青ざめて母屋へ急ぎ入り、廂と母屋を隔てる御簾を下ろして几帳きちょうの裏に身を潜めた。すれば、今度は廂の方で御簾の持ち上げられる音がした。

 ああ、あろうことか。中へ入ってきたのだ――彼が。

「命婦! 命婦、そこにいるのだろう」

 わたしの姿はもう、とうに捉えられていたに違いない。彼は先ほどよりも強くなった声でわたしを呼んだ。

「返事をしておくれ、命婦」

 その言葉と同時に、母屋の御簾の上げられる気配がした。わたしは奔る胸を両手で押さえ、震える声を上げた。

「若君、あなたさまは、なんということを」

 その瞬間に彼の顔が綻んだのは、見ずとも分かった。

「ああ命婦……よかった」

「こんな時間にいけませんわ。何のご用でいらっしゃいますの」

 彼は黙した。しばしののち、囁くような声がわたしの耳に届いた。

「あなたも分かっているはずだよ」

「……分かりませぬ。何を求めていらっしゃいましたものか」

「今さらになって何を言わせるのか」

 密やかな溜め息が聞こえた。そして、それに続いた言葉は。

「他でもない。あなただ」


 ――ああ。

 予感はしていた。けれども聞きたくなかった、その言葉は。


「そうだ、あなただ、わたしに必要なのはあなたなのだよ、命婦」

 彼の声が熱を帯びる。彼の衣擦れが聞こえる。

「わたしは愚かだ。あなたともう二度と会えぬかもと思った瞬間に漸く分かった」

 その言葉とともに几帳が動いて、彼が姿を見せた。わたしは息を呑んで後退った。すれば彼は、命婦、と囁いて一歩わたしに迫った。

「武蔵になど行かないでおくれ。わたしの傍にいておくれ、命婦」

「――嫌です」

 声を振り絞って答えた。すれば彼は悲しげに眉をひそめた。

「なぜ。わたしのことが嫌いなのかい。違うだろう」

 さらに一歩迫られた。わたしはやっとのことで立ち上がり、うちきの裾を引いて彼から遠ざかろうとした。

「失礼を」

「――命婦!」

 彼の呼ばう声と同時にわたしの足ががくりと崩れた。彼に小袿こうちきの裾を掴まれたのだ。背筋に寒気が走った。

 わたしは小袿を無我夢中で脱ぎ捨てた。それから奥の塗籠ぬりごめへ駆け寄り、枢戸くるるどを引いて開けた。

 彼がわたしの小袿をとさりと床へ落とす音がした。それをかき消すように、声が響いた。



「待っておくれ――宿子すくこ!」



 それを聞いた瞬間、悲鳴が口を突いて出た。


「やめて――!!」



 宿子。

 わたしの名。


 そうだ、幼い頃、彼に戯れで教えたのだった。女の名は本来、夫となる人しか知ってはならぬものだ。戯れを知った母に、そう叱られたのだったか。

 けれども叱られたことも気にせずに、わたしの名を知ったのなら、わたしの男君になられるのは若君さまなのねと、無邪気に彼と語り合っていた――あの頃。

 ああ――けれど、わたしはもう童ではない。そんなことは真にはならぬと、わたしは知ってしまった。

 だから彼に名を呼ばれるなどあってはならぬことだ。あってはならぬことなのだ。



「宿子」

 けれども彼は再度呼びかけてくる。その響きに、堪えていた涙が溢れ始めた。

「やめて――その名でお呼びにならないで」

「なぜだ」

「もうあなたがお呼びになって良い名ではありません。あなたはわたしの男君ではないのに」

 言って彼を見上げた。彼はしばらく口をつぐんでいたが、やがて低く呟いた。

「ならばそうなるまでだ」

 その言葉と同時、彼の手がわたしの肩にかかった。抗う間もなくわたしはその場に押し倒された。声を上げることもできなかった。彼の唇がわたしの口を堅く塞いだために。

 考えてしたことではなかった。けれども気がついたらわたしは、彼の舌を強く噛んでいた。

 彼の身体が強ばり、腕の力が弛んだ。その隙に抜け出して、乱れた袿を押さえながら立ち上がった。

 彼の口許に彼の白い手が被さった。長い指の隙間から滴る赤いものが月の明かりに見えた。


 わたしは一歩後退った。そのとき彼と眼が合った。

 彼の眼。泣き出しそうな眼。

「……宿子」

 彼の声。童のような声。



 あな――わたしは確かにこのひとを恋うている。

 けれどももう遅い、遅いのだ。


 別れを告げねばならぬ。

 このいとけなくはかない思いに。



 彼の眼を見返してわたしは囁いた。

「ご機嫌よう、中将殿。――もうお会いいたしませぬ」

 それから身を翻して塗籠に入り、今度こそ枢戸を堅く閉ざした。


 彼が歩み寄ってくるのが分かった。彼の手が戸にかかるのが分かった。彼が戸の向こうで崩れ落ち、泣いているのが分かった。

 わたしは戸に背を預け、息を殺して立ち尽くした。



 やがて彼は身を起こした。そしてゆっくりと遠ざかっていった。足音が廂を踏み、そして消えて行った。

 それを確かめてから、わたしは大声に泣き崩れた。





 やがて夜は明けて、武蔵へ発つ日がやってきた。わたしは車に乗せられたが、何も見る気になれず顔を伏せていた。


 家をだいぶ離れたところで、わたしはやっと物見をほんの少しだけ開き、腫れて痛む眼で薄白い空を見上げた。

 有明の月は青く、その傍に星はなかった。

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添う星 ナサト @sato_nasato

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