三
よき
ところが、である。ある日わたしは、大君のもとに彼が通ってこなくなったと聞かされたのだ。
次に彼に会う機会を得たとき、わたしは彼を問いつめた。
「若君、近ごろ紀伊守の大君の許へ通われていないとか。……まことでございますか?」
こちらを見つめる彼の瞳が、一瞬揺れた。だが彼は至極穏やかに答えた。
「ああ、――本当だよ」
それを聞いた瞬間、我知らず声を挙げていた。
「そんな、若君……どうして!」
どうしても何も、と彼は言うのだった。
「大君がそのひとでなかったから。それだけの話だよ」
「それだけ――だなんて、酷いことを。あの方はわたくしの従姉の君でもございますのよ。そんな方を軽んじられるなんて!」
こちらを見る彼の瞳は、ひどく切なげであった。
「誰にもお言いでないよ――あの方はね、気位が高すぎた」
「……気位」
「美しく、才長けて、もののあわれもお分かりの、実に素晴らしい女性ではあらせられた。しかしね、あの方の側にいて心安らぐときがなかったのだよ、わたしは。――あの方と対峙するには、常にすべてを出し切らないといけない。あの方は些細な冗談もからかいもお許しにならないのだから」
それに疲れてしまってね、と彼は笑うのだった。
「命婦、本当にあなたには申し訳ないと思う。だがね、こういう具合なのだ。――許しておくれ」
「……」
「それでね、また何か女性の噂を聞いたら、教えておくれでないだろうか。完璧な貴女でらっしゃらなくても構わないよ。少しおっとりしているぐらいがちょうどいい。一緒にいて心の安らぐような女君が欲しいものだ」
わたしは言葉がなかった。
※
そのあと彼の許を退出して自分の房に戻った。
もう夜が更けており、空気が冷たかった。わたしは何の気なしに御簾を上げて外を眺めた。
空が深い紺に染まっていて、その中に白く白く月が浮かんでいた。それを取り囲むように、さらにほの白くいくつかの星々が瞬いていた。
しばらくそれを見上げていたが、ふいに思い至って、胸を刺し貫かれたように感じた。
(――ああ)
月影中将が、あの彼が、月であるならわたしは星だ。
月のすぐ傍に添って、しかし手を伸べても決して触れることのできない悲しい隔たりにあって、ぽつねんと光る星なのだ。
彼は常に愛すべき女君を求めているけれども、わたしがその希求の対象となることは決してない。わたしはただ彼の側にあって、彼を助けて、彼に光を添えるだけの存在なのである。月の都に住む姫などには、なるべくもないわたしなのである。
にも関わらず、心の奥底では、わたしは諦めかねている。月に添う星には甘んじられず、その白い面に届けと、愚かにも手を伸ばし続けているのだ、このわたしは。
(浅ましいこと……)
熱いものが頬を濡らした。
月も星も夜闇に滲んだ。
わたしは
どれほど泣いていたのだろう。誰かの声が聞こえた気がして、わたしは顔を上げた。
「
房の外から、誰かがわたしを呼んでいたのだった。わたしは慌てて涙をぬぐい、できるかぎりおおように返事をした。
「どなたです。何のご用事」
「お文を一通承っておりますに、お受け取りを」
よく徹る可愛らしい声。どうやら殿上童のようだった。
「……宜しいですけれども、なぜこの時間になって?」
「お昼のころに伺いましたが、おられませんでしたので」
「ああ――その折には出かけておりましたので、申し訳なく。少しお待ちになって。今そちらへ参りましょうね」
もう一度よく頬をぬぐってから、わたしは童のいる方までいざり寄った。童は小さな手で
文箱の蓋を開けて文を取り出してみれば、見覚えのある
父から連絡を受けるのは久しぶりだった。わたしは灯りのもとで文を読み始めた。
文にはまず、わたしへの労りの言葉がいろいろとつづられていた。先ごろ病気で宿下がりをして以来しばらく会っていないのだから、心配されてもおかしくはないと思ったが、少々こそばゆかった。そのあとには父の近況が記されていた。その内容に、わたしは思わず瞠目した。
(武蔵の国――守?)
なんと父は、まだ内々で決まった段であるが、このたび武蔵の大国守に任ぜられたというのだった。
父は今でこそ京に落ち着いているものの、昔から中央での
眉根を寄せつつ、わたしは文を読み進めた。この役目を得たことについての父の感慨は、ただありがたいことであると型どおりに書いてある他、特に何とも記されていなかった。父も内心迷っているのだろうと感ぜられた。
そのあとには、このことについて少し話がしたいから暇な折に家に帰ってきてくれ、と書き添えられていた。それからまた身体をいたわるようにと再度あって、そこで文は終わっていた。
わたしは文台を引き寄せた。そして用意した料紙に、すぐに伺いますと書き付けた。
自分で言うのは憚られはするが、わたしは仕事熱心な方である。あれやこれやと理由を付けて宿下がりをしたがるような女房仲間もいるが、わたしはよほどのことがなければ実家に帰ろうとは決して思わないのだった。
そんなわたしにしては珍しいことに、このときはすぐにでも帰りたい気持ちだった。父のことが心配で、というのも大きな理由である。だがこのとき、わたしは彼――月影中将のことで相当に滅入っていた。このことこそが暇を頂きたい思いを駆り立てていたのだった。何しろ御所にいれば彼に会うことは必至。そうすればまた胸の潰れるような思いを強いられるのだから。
三日と開けずに些細な用事でわたしを呼び出す彼。迷惑な彼、憎い彼。なのに会えば愛おしくて、執着せずにはいられぬ自分の浅ましさを見せつけられる。
恋しいからこそ、しばらく離れていたかった。このまま思いの渦に溺れては、自分が自分でなくなってしまう気がしていた。
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