彼を慕うようになったのはごく自然な成り行きだった、と思う。

 わたしの父は左大臣家の家司けいしであり、母は乳母として彼と姉君さまにお仕え申し上げた。

 彼とわたしとは、幼いころから乳兄妹として一緒に育ってきた。だから彼が側にいるというのは、わたしにとって自然なことだった。彼とわたしの性格は昔からまるきり似ていなかったけれど、それでもわたしは彼を好ましく思っていた。

 そんな童友達としての思いが、いつしか恋へと変わったのである。思いを自覚したのは十四の歳、そのまま五年が経とうとしている。

 これまでずっと、自分に言い聞かせてきた。左大臣の息子とその家司の娘ふぜいでは天地ほどの身分差だ、諦めろ――と。しかし心は静まらない。

 いっそ打ち明けてしまおうか、とも思った。だがそれもできぬままである。

 勇気がないから、と言われれば頷くほかない。だが理由は決してそれだけではないのだ。

 

 彼はわたしの気持ちにみじんも気付いていないのである。わたしのことを相変わらず友として見てくれているのは嬉しいが、わたしの気持ちも彼と同じだと思いこんでいるのには困る。

 そんなことだから彼はわたしに、意中の女性への手引きを平気で頼むのである――ちょうど今のように。

 そんな相手に恋を打ち明けることなど、できようはずもない。


 数年前から彼は遊び歩きが癖になったようで、そこかしこで麗人の噂を聞きつけては、わたしに手引きさせるようになってしまった。

 本当はこんなことはしたくない。恋している相手が別の女のところへ通う手伝いをせねばならないなど、これほど苦しいことがあるだろうか。しかし、わたしよりはるかに身分の高い彼に逆らうことはできない。

 悩んだ末、彼が幸せになれるならそれが最上のこと、と己に言い聞かせることにした。彼がわたしの助けで良い女君おんなぎみを得ることができたなら、それこそ何よりも彼のためになるのだから。

 だがそれもまた上手くはいかないのである。どの女性とも引き合わせてしばらくは睦まじくしているようだが、なにしろ長く持たないのだ。相手と気が合わないのか、それとも単に彼が飽きてしまうのかはよく分からない。だがすぐに彼はその女性のもとへ通わなくなってしまい、一時の恋で終わらせてしまうのである。

 こんな様子だから、わたしも最近は手引きをするのが以前にも増して嫌になってしまった。

 彼はどうして、ひとつの文句もつけようのない貴女を相手にしながら、あのようにすぐさま別の女性に乗り換えてしまうのか。わたしはいったい何のために、自分の思いを殺してまで、こんな真似を繰り返す彼に尽くしているのか――と。

 それにも関わらず、どうしたことか、わたしはまだ彼のことが好きなのである。

 彼は憎まれにくい性質で、そのせいもあるかとも思われる(なにしろ彼の元恋人たちすら彼を悪く言わないのだ)。だが、それだけではない。わたしは禄でもないところも含めて、彼の全てを好いているのだ。

 ひとところに居着けない彼が哀れで。意外と子どもじみたところのある彼が放っておけなくて。親しい者にしか見せぬ奔放な気質が愛おしくて。

 そんな具合に、何から何まで好ましく思えてしまう。

 許し難いと思うときもある。情けなく呆れるときもある。でもそれらの汚点なくしては、彼は彼でないと思われもする。


 会えば殆どいつでも他の女性の話となるから、会うのが苦しい。だから彼に呼ばれるとつい身構えてしまう。

 だが会わなければそれはそれで、またひどく寂しく、つらい。


 もはや病の域であるようにも思う。けれどもわたしは、とにかく彼を好いているのだ。

彼と結ばれたいなどとは考えない。今はただ、彼が喜ぶよう、彼のためにここに在りたい。ここに在って彼のために尽くしたい。

 それをなすにあたってこんな痛みを生むのであれば、この恋、この思い、できることなら棄ててしまいたい――。


  ※


「――命婦みょうぶ? 命婦?」

 わたしはどうやら、かなり長いことうつむいていたらしい。はたと顔を上げれば、彼がすぐ間近でわたしを見つめていた。

「どうしたの、命婦? ひどく気分が悪そうに見えるよ」

「……そのようなことは。少し気がそぞろになってしまったようでございます。申し訳ございません」

 彼は眉根を寄せた。

「そういえば、あなたは最近宿下がりをしていたのだったね。病気をしていたのだって?」

 これは事実だったので、わたしは頷いた。

「もしかして、まだ治りきっていないのかな?」

「いえ――もう大丈夫でございます」

「またそんなことを。無理をしてはいけないよ」

「無理などしておりません」

 実際今は、体調が悪いわけではない。苦しいのは心の方なのだから。

「どうだか――あなたはまじめだからね。自分の責を果たすことばかりに夢中になってしまうところがあるだろう。休みもとらないと、また身体を壊してしまうよ」

 彼はそう、ひどく心配そうに言うのだった。こういう優しいところもあるからなおのこと、彼を嫌うことなどできないのだ。

 わたしはひとつ息を吸ってから、彼を見て微笑んだ。

「ご心配には及びませんわ。――ところで若君、紀伊守の大君のお話ですが、わたくしで宜しいのでしたらお手伝いいたしましょう」

 彼はぱっと明るい表情になった。

「本当かい? ありがたいな――ああ、でも、身体が思わしくないのだったらもう少し先でも構わないよ」

「いいえ、ご心配には及びません。そう申し上げましたでしょう?」

「そうかい? それならば」

 彼は目を細めた。

「本当にありがとう、命婦。こういうことで頼れるのはあなたしかいないよ」

「そのような……勿体ないことでございます」

「事実だよ。あなたに世辞を言う道理などないだろう」

 わたしは黙って頭を下げた。彼は機嫌良く言うのだった。

「そうと決まれば今少し、その大君について詳しい話を聞かせておくれ。――そうだ、いつまでもこんな軽装ではいられないから、薫物たきもの宿直とのい装束を見立てておくれよ。その間にでも話そうじゃないか」

「わたくしにお任せくださるのですか?」

「勿論。あなたの趣味の良さは宮中きってのものだもの。姉君だって褒めておられたよ。知らなかった?」

「……そうおっしゃるのでしたら」

 わたしは立ち上がった。

 

 彼から聞こえない程度に離れたところで、わたしは長く溜息をついた。

 また手引きを引き受けてしまった自分が情けなく思えた。

 彼の笑顔が見られるのはたしかに嬉しい。だが彼が他の女君について語る声など聞きたくない。

 彼と添い遂げることなど願うまいと決めたというのに、この感情の矛盾が、自分でもひどく浅ましかった。そうはいっても、何とすれば良いのやら、わたしには皆目分からないのであった。


「命婦? 何をしているの?」

 彼の声が聞こえた。

「申し訳ございません、若君。しばしのお待ちを」

 答えて言ってから、わたしはもう一度、小さく溜息をついた。そうして彼の衣裳の準備を調え始めた。


  ※


 その後。

 彼はわたしを通して、紀伊守きいのかみ大君おおいぎみに恋文を差し上げた。大君はそれにお返事をなさった。彼はそのお手蹟の品のよさや添えられた歌の巧みさに感嘆したようだった。

 幾度か手紙のやりとりがあってから、彼は大君に会いに行った。勿論これもわたしが導いたのである。


「噂どおりの素晴らしい御方だね、大君は」

 あれからいくらか経った日、彼はまたも宿直所とのいどころでわたしに髪を梳かせながら言うのだった。

「まだ御簾みす越しにお話するだけなのだけれど、垣間見したお姿の美しいことといったら。命婦にも見せたいぐらいだ。それにものごとのご趣味の雅なこと。いろいろな芸事にもよく通じておられてね。もと田舎住まいとは思えぬところがあるよ」

「そうでらっしゃいますの」

「お父君は紀伊介きいのすけからそのまま紀伊守になられた方だったとお聞きしている。それに伴って大君は、物心つくかつかないかのころから紀伊でお育ちになったそうだよ」

「そうでしたかしら」

「けれど、あのように華やかでいらっしゃるご様子を拝見しては、少し信じられないね。まったく、今まで出会った女君の中でも、とびぬけて貴女らしい御方だ」

「そうでございますか」

 わたしは櫛を使いながら生返事をするのみだった。そんなところで急にわたしの名が出てきたから、思わず櫛を取り落としそうになった。

「あのような御方にお会いすることができたのも、命婦、あなたのお陰だ。本当に感謝しているよ。……どうしたの?」

「え……ああ、いいえ。お喜びいただけて嬉しゅうございますわ」

 自分でも何を言っているのかよく分からなくなってしまった。もう気の利いた言葉も出てこなかった。わたしは黙って櫛を持ち直し、彼の髪を梳き続けた。

 そうしているうちに、あることを彼に訊きたくて仕方なくなってしまった。

 わたしは意を決し、彼に声を掛けた。

「もし……若君?」

「何?」

「ひとつ、お聞きしてもよろしゅうございますか?」

「構わないけれど」

「差し出たことかもしれません。お気に障られましたら、お答え頂かずとも結構でございますので」

「何だい、そう前置きされては気になるね」

 わたしは彼の髪を梳く手を止めぬよう気をつけながら、ゆっくりと言葉を継いだ。

「若君――若君は、数多の女君のもとへ通われましたでしょう」

「まあ、ね」

「今度の紀伊守の大君が何人目か、わたくしは存じませんけれど」

 わたしはひとつ息を吸った。

「なぜ、そのだれも、正式な北の方にお据えになりませんの……?」


 彼はしばらく黙したままだった。やはりよしないことを訊いてしまったかとわたしが後悔しはじめたとき、ようやく彼は口を開いた。

「わたしの父母のことは、知っているだろう?」

「大臣と北の方でございますか? 何かおありなのですか?」

 何も思い当たることはなかった。しかし彼はひどく意外そうに言うのだった。

「本当? 本当に何も知らないの?」

「ええ」

「そうか。――父君と母君はずっと昔から仲がよろしくないのだけれど、知らなかった?」

「……まさか」

 初耳だった。

「真実だよ。わたしが幼いときからそうだった。あなたが知らないというのなら、お二人ともうまく隠しておられるのだろうが」

 言葉がなかった。

「母君はね、父君と会われることもないまま、父君の許に降嫁なされたのだ。お二人はお互いのことを何もご存じないまま添われた。そうしてね、取り返しのつかないことになってしまわれたのだよ」


 大臣と北の方は、お互いにまったく性分が合いなさらなかったのだという。

 添われて数年のうちは睦まじくあろうと努力もなさったようだが、じきに北の方は大臣を疎まれなさったし、大臣は北の方を厭われるようになった。そうして大臣はついには別の女の許へ通うようになられたのだそうだ。

 それだけなら別に問題ではないように見える。複数の女君を持たれる男も世には多くいるのだから。しかしここでの問題は、大臣が正妻に礼を尽くされなかったということなのである。

 大臣は北の方の御許におられる時間よりも、他の女の許に通いなさる時間の方が長くていらっしゃった。それも堂々と通いなさるのでなく、公務で北の方にはお会いできぬと、嘘をおっしゃって通いなさるのであった。そして北の方の御許へは、申し訳程度に切れ切れに通われるのみであった。

 このことによって、北の方のお心は深く傷ついた。北の方はもとより大臣を愛してはおられなかったから、大臣にお会いにならぬことに苦しさはおありでないようだった。しかし欺かれ軽んじられているということで、自尊心の方が千々に引き裂かれておしまいになったのだ。

 こうしてお二人の間にはますます深い溝ができてしまった。そして大臣と北の方はそれぞれ、お心に積もった不満苦痛を、彼や今は中宮であらせられる姉姫に向けられるようになったのだという。何も御子らを虐げられたわけではないけれども、互いへの愚痴や不満を代わりにお聞かせなさったのだ。

 そのことによって、彼そして姉姫もまた傷つかれたのである。


「意に添わぬ結婚ほど不幸せを呼ぶものはないということがよく分かったよ。知りたくもなかったけれど」

 わたしに髪を梳かせながら、彼は呟くように言った。

「姉君は父君のたっての願いで入内されて、主上のご寵愛を得ることとなられた。姉君も主上を愛しておられる。――でもねえ、こんな幸せは、親に言いつけられた結婚では滅多にないことだとわたしは思うのだ。姉君は珍しい、幸運でらっしゃる例だよ」

「……若君?」

 背後にいるせいで、彼の表情はうかがい知れなかった。

「だからね、わたしはそんなことはしたくないのだよ」

 わたしの手は止まった。

「わたしはね、わたしの望んだ女君と添いたい。互いに望み望まれて共にあるのがいい。そうでなければ互いが苦しむし、子どもだってひどい痛みを味わうのだからね」

 何も言えなかった。

「だからわたしはね、今探しているのだ――わたしの望むままの女君を。ひとつとして欠けたところのない人、嫌おうにも嫌いようのない人を」

 自分の手が震えているのが分かった。わたしは櫛を彼の髪から抜き取り、胸の前で握った。

「女性にお会いして少しでも違うと思えば、深入りしないでおくのだよ。だからわたしは今までお会いしてきた方々のどなたとも、結婚がどうのという間柄にはならなかったのだ。そうするのが互いのためだ。合わぬと知りながらその女性の許に通い続けても意味はないのだから」

 わたしはやっとのことで声を振り絞った。

「ですが、――ですが、若君。そのように急がれることもないのではありません? なにもこう次から次へと女君を――その」

 彼はこちらを向くことなく返してきた。

「わたしだって、できることならば余裕をもって探したいさ。――でもね、実は今、遠縁の姫君との縁談があるのだ」

 わたしは凍り付いた。

「断固としてはねのけさせてもらっているけれども、いつまで保つかどうか分からない。だからできるだけ早く申し分のない女君を見つけたいのだよ」

「若君」

 誰にともなく、彼は呟くのだった。

「大君がそのひとであれば良いと、願っている」

「若君……」

 そういうわけだったのか、と思った。胸の奥に冷たい石が、ことりと落ちたような心持ちがした。

「あの方こそわたしの求める女君だと分かれば、すぐに添おう。……ねえ命婦、このことは、誰にも言わないでおくれね」

「――はい――」

 わたしは櫛を握りしめた。

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