添う星

ナサト

べん命婦みょうぶさまあ」

 御簾みすの外から響く声はわたしを呼んでいた。誰ぞの使いでやってきためのわらわらしい。

 つぼねにいた他の人々も女童に気付いて話すのをやめた。わたしは女童に答えて言った。

「ここに。どなたのご用?」

近衛このえ中将ちゅうじょう殿のお召しです」

「……まあ」

 わたしは眉根を寄せた。

 女房の一人がいざり寄ってきて、いかにも面白そうに囁きかけてきた。

「ねえ弁の御方、近衛中将ですって? 月影つきかげ中将さまのことでらっしゃいますの?」

「他にわたくしをお呼び寄せになるような中将などおられません」

 わたしが思わず溜息を漏らすと、彼女は目を輝かせた。

「まあ素敵。今をときめく月影中将のお召しを受けるなんて」

「確かによくあれこれ言いつけられますが――いつもさしたるご用ではございませんのよ、失礼ながら」

「そんなことを。あの御方のおそばに上がれるだけで羨ましゅうございますわ。わたくしなど、お姿を拝見する機会もなかなかございませんのに」

 わたしは瞬いた。

「そうでございますか?」

「勿論ですとも。中将様のように素敵な公達きんだちなんて、今の世には他におられませんもの」

 文武両道に優れて、しかも大層お美しくて、などと数え上げる彼女をわたしはしばらくじっと見つめた。

「それほど中将がお好きなら、代わっていただけませんこと?」

「あら、よろしいの?」

「命婦さま、お早くう」

 割って入ったのは女童の声である。彼女の存在を完全に忘れていたわたしたちは、口をつぐんで顔を見合わせた。


 そこに、部屋の奥のほうからお声がかかった。

「弁の命婦、あなたにお召しがあったのでしょう?」

「……上」

 お声の主は中宮ちゅうぐうさまであらせられた。恥ずかしいことである。中宮さまの御前にお控えしていたときだったというのに、わたしはつい傍らの女房との話に夢中になってしまったのだった。

 屏風を背に座っておられた中宮さまは、恐縮するわたしをご覧になって微笑まれた。

「おゆきなさい。今は暇な時間ですから、ちょうどよろしいでしょう」

「ですが……」

「中将はあなたを頼みにして呼ばれたのですよ。――早くお済ませになって、戻っていらっしゃいましね」

「……はい。では、失礼を申し上げます」

 わたしが一礼すると、中宮さまは柔らかに笑まれた。

「中将のいつもの我が儘、あなたには本当に申し訳なく思います」

「いえ――勿体のうございます、上さま」

「弟をよろしくお願いいたしますわね」

 わたしはかしこまって頭を下げ、退出した。


  ※


 女童に導かれた先は宿直とのいどころであった。

 部屋に入ると、中にいた狩衣かりぎぬ姿の青年が、やあ、と声をあげた。

「ご苦労だったね。――ご機嫌よう、弁の命婦」

 女童をねぎらってから、青年はわたしを見て微笑んだ。彼こそがわたしを呼び寄せた近衛中将。その通り名を月影中将という。

 退出する女童を横目に、わたしは軽く礼を取った。

「中将殿にもご機嫌よろしゅう。今日は何のご用でしょう?」

 彼は柔らかく笑んで言った。

「うん、髪を結い直して欲しいのだ」

「はい?」

「先ほど近衛府の他の者たちと蹴鞠をしていたものだから、すこしもとどりが乱れてしまってね。結い直して欲しいのだけれども」

「わたくしに、でございますか?」

「そう。あなたに」

「……中将殿」

 にこにことこちらを見ている彼に、わたしは溜息をついた。

「それだけのご用でございますの? ならば他の女房にお申し付けになればよろしゅうございましょう」

「昔からしょっちゅうあなたが結ってくれていたじゃないか」

「かもしれませんが――わたくし、今さっきまで中宮さまのお側におりましたのよ」

「おや」

「わざわざ退出をお許し願わなくてはいけなくて、大層な失礼を致しましたの。中将殿のせいでございます」

「へえ?」

「何がへえですか。中宮さまも、弟の我が儘が、などと仰せられて。恥ずかしいとは思われませんの?」

 わたしがそう言うと、彼はしばらくぽかんとしていたが、やがて笑い出した。

 思わずうろんな目つきになったわたしに、彼はいかにも楽しそうに言った。

「いやいや――ときどき姉君が中宮になられたということを忘れてしまうのさ」

「中将殿!」

「今も一瞬、なぜ中宮さまから弟と呼ばれるのかと思ってしまってね。成る程そうだった、姉君は中宮さまだったね」

 そう、彼は中宮さまの実の弟君なのである。そのお父君は左大臣であり、母君は先帝の寵愛なされた一宮さまであらせられる。彼はまさに勢力盛んな家の、将来を嘱望される長子なのだ。

 それなのに、この発言ときたら。嘆息せずにいられようか。


「情けなくていらっしゃいますこと。大臣も悲しまれますわ。せっかく努められて姉姫さまを中宮になさったというのに、若君がそんなことをおっしゃっては……」

 そこまで言ったところ、彼はぱっと笑んだ。

「ああ、今、呼んでくれたね」

「え?」

「ようやく呼んでくれたね、若君と。中将ではなしに」

 そういえば言った。だから何なのだろう。

「それが、どうかなされました?」

「どうということもないけれど」

「そんな。はっきり仰ってくださいまし」

 彼は苦笑気味に、ちょいと首を傾けた。

「いやね、本当にたいしたことではないんだよ。ただ――今では誰しもわたしを中将と呼ぶけれど、その呼び名がしっくりこないときもあるものだから。違う人間になってしまったようで」

 わたしは困惑して瞬いた。

「……はあ」

「でもね、若君と呼ばれると、昔に戻ったようで安心する。――別に、若君、若君とかしずかれたくて言っているわけではないよ。歳を重ねるにつれ、呼び名が変わるのは当然だしね。そうは言っても、なぜか時たまこんな気持ちになってしまうのさ」

 彼は困ったように笑うのだった。

「幼なじみからも中将、乳母からも中将。乳兄妹のあなたとあなたの兄君だけは若君と呼び続けてくれていたけれど、最近はすっかり中将呼びになってしまった。それが何とはなしに寂しかったのだけれど、――今は若君と呼んでくれたね?」

「……ええ」

「嬉しかったよ。いつまでもこう呼べなどとは絶対に言わない。けれど、もうしばらくだけは、その呼び名を忘れずにいておくれ。今や若君と呼んでくれるのはあなただけなのだもの、命婦」

「――分かりました」

 目元を和ませる彼に、わたしは苦笑した。


  ※


 そのあと彼の髪を整えることとなったわけだが、彼の冠を取って、わたしはまたも呆れた。

「髻が乱れているなどとおっしゃるから見てみれば、何ですか。ほとんど何もなっていないじゃございませんの」

「おや、そう?」

「そうも何もございませんよ。ご覧になればお分かりでしょうに」

「まあいいや。どちらにせよ、結い直してくれるのだろう?」

「――全く。本当に若君におかれては……」

 わたしは溜息をついて彼の髻を解き、髪を梳り始めた。


 しかし彼のこの黒髪はまた、実に見事なのだった。もし彼が女で、これを長く伸ばせば、どれほど美しかろう。

 彼が男でなければ――と思われる点は他にも幾多ある。

 その面差しはわたしが見ていたたまれなくなるほどに品良く整っている。近衛府に務める武官にもかかわらず、肌はきよらかで疵一つない。瞳は涼しく、口元は艶である。背の高いこと、これは男で良かった点であろう。

 彼はどこから見ても、実に美しい公達なのである。その清い美しさを月の光と例えた人々に、月影中将の名を献上されてもいるのだ。

 それだけでなく、女房の間では当世流行りの物語の主人公になぞらえて、ひかきみだの何だのと呼ばれていたりもする。そのことまで彼は知っているのかどうか。


 実を言うと、わたしも源氏物語の登場人物になぞらえられたことがある。とは言っても、光源氏の女君おんなぎみのような中心人物ではなく、ほんの端役なのだが。

 その女の名を大輔たいふの命婦というそうだ。光源氏の乳姉妹であり御所勤めの女房で、恋人ではないながら、光源氏の心やすく接している人物だと聞かされた。その女の光源氏との関わりようが、わたしと彼との関係に似ているというのである。

 詳しい話を聞いてみて、確かによく似た境遇だ、と思った。

 わたしの母は彼の乳母であり、わたしは彼の乳姉妹として長く一緒に育ってきた。ゆえに、彼の方が上の位階であるにもかかわらず、今もなお互いに気安く接している部分がある。

 またわたしの位はその女と同じ命婦であり、女官が本職である。だがしょっちゅう彼に召されて、宿直所で彼付きの女房のような仕事をしたりもするのだ(わたしの場合、三日と開けず些細な用事で呼び出される)。

 この近似は面白いことであると思った。感慨と言えば、ほとんどそれだけだった。


 だがしかし、ひとつだけ、その大輔の命婦とやらを羨ましく思う点があるのだけれども――。

 

「ねえ、命婦?」

 髻をほとんど結い上げたところで、しばらく沈黙していた彼が口を開いた。

「何でございますか、若君」

 わたしは慎重に手を動かしながら返した。

「折り入って聞きたいことがあるのだけれども」

「何です、改まりなさって。――終わりましたよ」

 言ったところで、わたしは彼の髪を整え終えた。彼はわたしの方に向き直った。

「ありがとう、命婦。……何の話だったか。――そう、あなたの叔父君に、先の紀伊守きいのかみがいらっしゃるだろう」

「ええ」

 わたしの父の弟は紀伊の上国守を務めておられた方である。確かつい先頃、京に戻られたのであった。

「その紀伊守と、あなたは接点があるだろうか」

 脇息きょうそくに寄りかかった彼は、どこか上目遣いに問うてきた。

「ええ、紀伊におられた間も父とは盛んにお文を取り交わしておられました」

「あなた自身とは?」

「直接にはあまりございませんけれど」

 彼は首をかしげた。

「そうなの? では、その御方のご家族とは?」

「叔父君の娘御――二人いらっしゃるうちの大君おおいぎみのほうですけれど、その御方にはときどきお文を差し上げましたわ。あちらからも折々のお便りを頂いておりました」

「そう。――その大君というのは、どんな方?」

 嫌な予感がした。

「……従姉の君ではあらせられますが、まともにお会いしたことがないので、よく存じません」

「お顔など分からずとも構わないよ。お手紙から察せられるお人柄とか、ご趣味とか。世間の噂でも良いさ」

 詳しい話はしたくなかった。だが従姉の君に不名誉な内容を口にすることもできなかった。

「……おきれいな方だとは伺っております。教養も深くてらっしゃるご様子です。たしか、若君やわたくしよりもお一つばかり年上になられるかと」

男君おとこぎみなどはおられないのだね? ――それならば、わたしから文など差し上げてみたい。どうだろう、あなたが手伝っておくれでないだろうか」


(――ああ、――来た)

 わたしは思わず彼から目をそらした。

 

 そう、わたしが、大輔の命婦というその人物を、羨ましく思うのは。

 光源氏から、女への手引きなど頼まれるのだという彼女が。


 光る君本人には、決して恋などしていないという、その点なのだ。

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