生態系に悪い影響を与えることがあります

灰都とおり

生態系に悪い影響を与えることがあります

 庭に咲いた先輩が笑っている。

 ウッドデッキから触れられるほど近く、草丈一〇センチの小さな先輩が群生しておはよう、と可愛らしい声をかけてくれる。

 その後ろで、すらりと伸びた先輩が制服のスカートを風に揺らして立っている。ナナカマドの木陰あたりに目をやれば、草丈三〇センチを超える大人びた先輩がたくさん生えていて、皆わたしを待つように優しく微笑みかけてくれる。

 微かなゼラニウムの香りがする。

 目の前の庭の風景に、教室と廊下のイメージが重なる。

 小学校から高校へ至る、先輩とわたしだけの学校生活がそこにあった。



 ◆ ◆ ◆



 父が死んで、わたしは一〇年暮らした東京からこの町に戻ってきた。

 稜線が隣町の彼方まで続く箱庭みたいな田園風景。単線のローカル鉄道とトラックの走る国道だけが外の気配を運んでくる世界。高校まで暮らした故郷ではあるけれど、馴染みのない異郷だった。

 がらんどうになった実家には父がひとり過ごした年月が澱のように積もっていた。幼いころ亡くなった母の写真だけが真新しかった。

 父の遺品整理を手伝いに叔母が来てくれた日、わたしははじめて先輩を見つけた。

 外履きを突っ掛けて、植物に占拠されつつある庭を歩いたとき、有象無象の草々に紛れてぽつんと小さな先輩が立っていた。

 地面に根を張る足元から、頭の先まで一〇センチちょっと。

 ぱっと見、カタバミやゲンノショウコみたいな可愛らしい花にしか見えないだろう。

 わたしはしゃがみこんで観察する。先輩のすらりと着こなした制服のブラウスのしわに寄る陰影を眺める。片方のローファーに体重を寄せて立つ腰から足首までのラインを見つめる。

 うちの庭にこんなものが咲くとはちっとも知らなかった。

「土にはいろんな雑草の種が眠ってるの」

 庭の手入れなんて知らない私に、叔母が要点を教えてくれる。

「だから無闇に抜いても新しい種が芽吹くだけ。除草剤と刈払機を使いなさいな」

 それでもわたしはホームセンターで手袋と鎌を買う。先輩を抜いてしまわないよう、周囲に生えたエノコログサの尖った新芽やカラスノエンドウの絡まり始めた蔓を手作業で処理する。

 少し汗を流すだけで先輩の周りはこざっぱりとして、横顔が涼しげになった気がした。これからこの庭を好きにできるのだと思うと、それなりにわくわくした。


 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 草むしりをしていると、あちこちで先輩を見つける。

 ちょうど梅雨どきで、先輩はたくさんの草と一緒に魔法のように背を伸ばした。どうやらいくつか種類があるらしい。

 アンニュイな微笑を浮かべてそよ風に髪を揺らす先輩。

 意地悪そうに笑って腰に手を当てる先輩。

 他愛のない冗談で無邪気に笑う先輩。

 ひとつひとつの形状は、高校時代の先輩の一瞬を切り取っている。

 小さな先輩に吸い付くように顔を寄せたとき、かすかな香りに気がついた。ゼラニウムみたいにほんのり甘く、少し苦い。

 それは高校時代の記憶を呼び覚ます。


 東京からの転校生とのことだった。

 ヘアメイク、手帳に文具ケース、口にする話題、何もかもが違う先輩を、山あいの町で育った生徒たちは無言の羨望とあからさまな揶揄で迎えた。

 その噂のひとを、全校集会の講堂で初めて見た。

 目が離せなかった。

 野草が伸び放題の土地に、園芸品種が一輪咲いている。

 集会が終わったとき視線が合った。一瞬、風に揺れるフウロソウの花びらのようにあのひとは微笑んだ。


 わたしは庭の手入れを続ける。

 だらだら荷ほどきをし、漠然と求職サイトをクリックしながら、毎日先輩を観察し、先輩以外の草をむしる。そうして先輩を殖やしていく。

 あるとき、庭の端のブロック塀のそばに見たことのない先輩がいて驚いた。私服姿の先輩。部屋着の先輩。

「植物の生育は土壌の窒素やカリウム、リン酸などの元素に影響されます」――そういうこと? それとも紫陽花あじさいが土壌のpHで色を変えるようなものだろうか。

 あどけなさの残る笑顔を見つけたときは、中学生の先輩なんだと気づいてはしゃいだ。

 わたしは実験を始める。

 まだ咲いていない先輩を様々な条件で植え直して観察する。

 高校二年の――出逢ったころの姿がいわば先輩の標準形だ。一風変わって育つ要因は日照量と水らしい。

 

一、先輩は半日陰を好む

二、日陰時間が長いほど学年は上がり、日当たりが良いと幼くなる(ただし日当たりが強すぎると育ちが悪い)

三、水を遣れば遣るほど、標準形と違った姿に育ちやすい

 

 ただ、卒業後の先輩が咲くことはなかった。完全に日差しを遮る箱で覆ってみたが、暗めの表情になるだけだった。


 そのころには、先輩の香りで当時の記憶を呼び起こすのが日課になっていた。

 顔かたちが好きな先輩ほど素敵な想い出をくれる。

 耳をすませば、生き生きとした声すら聴こえる。

「ネットがあっても地域性って強いんだね」

 放課後、さびれた美術部に顔を出す先輩。ひとりキャンバスに向かうわたしに、東京のイントネーションで話しかける。

「ここは閉じた世界ですから」

 わたしはわざと取り澄ました声で応える。

「外から来たひとは馴染めない?」

「みんな自分たちの世界を壊されるんじゃないかって不安なんです」

 だって先輩はいつも知らない世界を語るから。見たことのない街並み、聞いたことのない音楽、味を知らない料理。この世のぜんぶが氷に覆われて静かに滅んでいく小説。

「ほんとに世界が滅んじゃったみたい」

 夜の海に浮かぶ美術室の灯りのもと、わたしたちは会話を続けた。湿った木枠と画材の匂いがやけに強く感じられ、窓の向こうから静かな雨音が聞こえていた。

「帰らなくて平気なんですか?」

 今夜帰る家のことじゃなく、先輩の生まれ育った故郷のことを尋ねている気がした。

「もう帰らなくてもいいかなって」

 先輩はなにもかも諦めたように笑った。

 庭にはゆっくりと、先輩とわたしの高校生活の記憶が積もっていった。



 ◆ ◆ ◆

 

 

『危険外来植物の駆除のお願い』

 転入届を出した役場でポスターが目に留まった。

 ポピーに似た可憐な花が写っていて、しかしそれはヨーロッパ原産の外来種であり、繁殖力が強く、生態系に悪い影響を与えるという。ある種の外来植物は化学物質を出して周辺植物の生育を阻害することで知られ、この作用をアレロパシーというらしい。

 庭がすっかり先輩で占められるようになったころ、わたしはようやくほかの草たちの勢いが衰えていることに気づく。

 庭に君臨する先輩を眺めながら、これだけあるならという気持ちがあったのだろう。タンポポやメヒシバを刈っていたとき、間違って先輩の上半身を切り飛ばしてしまった。千切れた半身は眠るように地面を転がった。それでまあいいかと、殖えすぎた先輩は刈り取るようになった。


 材料がたくさんあれば、試せることも増える。

 たとえば接ぎ木。

 わたしは指のかたち、二の腕の柔らかさ、顔の表情など、好きなものを繋げて好みの先輩をつくる。先輩の表皮の内側には細い管がいくつも通っていて、その切断面同士を揃えるようにしてやれば接合しやすい。切断面に少し角度をつけておくのがコツで、わたしはすぐに上手くなる。

 精緻につくり育てた先輩は、その形状に合わせたシチュエーションの記憶をくれる。幼少期から高校卒業まで、わたしは先輩と重ねた時間のひとつひとつをジオラマのように庭に配置する。

 ランドセルを背負った先輩が、家路につくわたしに一緒に遊ぼうとささやいてくれる。

 中学二年の先輩が、進学直後の不安いっぱいだったわたしを生徒会に誘ってくれる。

 そのころ先輩は東京にいたのだから不自然な気はしたけれど、ゼラニウムの香りは現実より生々しい記憶をくれた。

 そもそも学校生活なんて、先輩だけがいればよかったのだ。

 無数の先輩を育てるうち、想い出のなかの学校には先輩だけがいるようになる。

 クラスメートも、休み時間に廊下を賑わせる生徒たちも、教卓の向こうで授業を進める先生も、先輩だった。

 先輩の卒業式の日、わたしは先輩を呼び出した。

 校舎の裏で、わたしは言葉を告げ、先輩はごめんねという言葉を呑み込んで、ただ哀しそうに笑った。

 それが最後の想い出。

 庭は完璧に手入れされ、そこには先輩と過ごした学校生活のすべてがあった。

 先輩とわたしだけの箱庭。


 ぜんぶおなじ花ばっかりね。

 庭に夢中になっていると、道路から声をかけられた気がして不安になる。

 そのせいもあって、わたしは室内で先輩を楽しむ技も上達させる。教室で虫や魚を飼うようなものだ。それもまた、学校生活で出会う先輩を多様にしてくれる。


□グラスに活ける

 水を入れたワイングラスなどを使う。脚を切り取っておけば長持ちする。ハサミを入れるのは膝のうえあたりがいい。庭の先輩に比べてダウナーな表情になるところに味がある。


□アクアリウム

 水で満たした容器のなかで育てれば変わった姿を楽しめる。日光に当てておけば幼児めいた半透明の軟体動物みたいに。日陰ならより大きく、手足の形も数も少々変わった海月くらげみたいに育つ。


□電気刺激

 水槽用の蛍光灯を漏電させてしまって偶然気づいた方法。電気刺激を与え続ければ、手足だけでなく目や口の数も変わる。先端を露出させたコードで直接刺激を与えれば、新種のように奇妙な形状にだってできる。


 梅雨が明けるころ、居間はアレンジした無数の先輩で埋まった。

 その夏はなぜか雨雲が空を覆う日が続き、まるで日陰と水を好む先輩が天候にも他感作用アレロパシーを発揮しているようだった。

 わたしは寝食を忘れて先輩を世話する。

 最近は買い物にも行ってないなと思い出す。

 それでも、このまま先輩に埋もれて消えてしまうならいいかと思った。



 ◆ ◆ ◆



 その顔は嫌いだ。

 見つけた瞬間そう感じる先輩がいる。

 塀の向こう、隣家の庭に足を踏み入れて、わたしはその先輩をじっと見下ろしていた。

 地下茎なのか、もともと種が飛んでいたのか。表情に繊細さはなく、どこにでもある雑草に見えた。

 どうしてそんなやつらと楽しそうにしてるんですか。その香りは嫌な記憶をひっぱり出す。

 ここに先輩を理解できるひとはいないのに。先輩もわかっているくせに。

 先輩の頭を握り潰す。

 くしゃりと潰れて、でもその歯だけは鋭くて、指に刺さってぷつりと血が出た。


 その日は鉢植えにした先輩と一緒に寝室に閉じこもった。

 微睡むわたしを先輩がそっと抱いてくれる。夢のなかでわたしは安心して眠れる。

 わたしたち、ずっとふたりでいられるね――。


 誰かがわたしを笑っている。

 嫌な気持ちでぼんやり目を覚ますと、夕飯どきの隣家から漏れ聞こえる声だったらしい。何が楽しいのか子供が笑い転げている。

 ズー、とスマホが震えて、わたしはアプリを立ち上げる。

『戻ってるんでしょ? 庭にいるの見たよ』

 わたしの高校時代に友人がいるとすれば、その子だった。

『あんなに花が好きだって知らなかった』

 居心地のいい気分じゃなかった。先輩をただの花としか見れないなんて可哀そうだなと思った。

『独りで家にこもってるなら心配だから』

 その子にはもうすぐ子供が生まれるらしい。わたしもせめて恋人がいれば心配がられなかっただろうか。

『――さんも結婚したって』

 先輩の名が唐突に現れて、わたしは凍りつく。

 結婚? なんの話だろう。

 トーク画面に貼られた写真でそのひとは、式の二次会らしい席で繊細さの欠片もなく笑っていた。

 わたしは思わず枕元に置いた先輩に目をやる。その優しい笑顔と、スマホに映った顔とはまるで一致しなかった。

『あ、でも話したこともなかったんだっけ。むかし憧れてるみたいなこと言ってたから』

 わたしはアプリを閉じる。

 その子の言葉がよくわからない。先輩はわたしと幼なじみで、中学生では生徒会を一緒にやって、高校じゃいつも美術室で一緒だった。

 庭にはその証拠がたくさん咲いているのに――。

 そうだろうか?

 そもそも先輩は、こんな土地に根付くものだろうか。

 こんな狭い町にいて幸せに暮らすことなんてできるものだろうか。

 鉢植えにした先輩を振り返る。

 先輩は変わらず微笑んでいる。

 その表情のしたから黒い斑点がぞろりと浮かぶような気がした。

 確かめてなくてはいけなかった。

 先輩がほんとうに先輩なのか、見た目では判断できない。

 わたしは先輩の肩から先をちぎって、その華奢な腕を唇に挟む。舌先で触れるとざらりと乾いた感触がある。歯を立てると苦味が口内に広がって、舌がちりちりする。

 咀嚼し、吐き出したい気持ちを抑えて呑み込んだ。えぐみの強い後味が残った。



 ◆ ◆ ◆



 モーター音を唸らせる刈払機で先輩を刈り取る。

 早く動かすと絡まって回転刃を止めてしまうから、ゆっくりと。足首あたりに水平に刃を当ててやれば、ちゅんと音がして先輩の身体がきれいに飛ぶ。

 除草剤は原液を薄めるのが面倒だ。だけど撒けば効果ははっきり出て、五日も経てば変色した先輩が力無く地面にしゃがみ込んだ。そのままだと見苦しいので、ホームセンターで買った鍬のまがい物みたいな道具でざくざくまとめる。使うぶんは残しておいたけど、それでも処分した先輩は燃えるゴミの袋が積み上がる量になった。


 わたしは間違っていた。

 箱庭をつくっても、外から簡単に壊されてしまう。

 外を壊せばよかったのだ。


「あらあ可愛い花」

 最寄り駅の小さな花壇に先輩を植えていると、年配の女性ふたりがそんな声をあげて通り過ぎた。

 危険外来植物といっても、そうと教えられなければただの可愛い花なのだ。

 そもそも勝手に共有地へものを植える行為はなにかの法令に抵触する気もする。だけどわたしは先輩の繁殖域を拡大させる。空き地に、河原に。そして手入れの行き届いていない人家の庭や駐車場に。

 残った先輩は通販サイトで売り払う。

 ・花壇や寄せ植えに繊細な美しさを添えてくれます。

 ・草  丈/一〇~二五センチ

 ・日  照/半日陰

 ・栽培方法/落葉樹の下などで日差しを遮るとよいでしょう。丈夫ですぐ殖え、株分けも簡単です。水気がなくとも育ちますが、たっぷりあげればいろんな姿が楽しめます。

 ※繁殖力が強いので、自然環境下では生態系に悪い影響を与えることがあります。


 ことしは豪雨が多く、たて続けの台風が高気圧を押しのけて雨雲を運んできた。先輩にとっては都合がいいだろう。

 水中で育てた異形の先輩はどれも川に捨ててしまったけれど、下流の都市まで流れ着いたものもいるかも知れないなとわたしは想像する。



 ◆ ◆ ◆



『外来種とはなんでしょう』

『人間の活動によって、地域の外からもたらされた生物のことです』


 静かな夜、ひとりには広すぎる家で、わたしは公共放送の特集番組を眺める。

 部屋には二年前にハーバリウムにした先輩だけがいる。円柱形のボトルのなか、オイルにつけて時間を止めたプリザーブした先輩が微笑みかけてくれる。


『環境の条件が合ったとき、そこで野生化するわけですね』

『ですので必ずしも危険ではありません。むしろ外来種のほとんどは異郷に根付きませんから』


 すっかり先輩を駆除した庭からは、夏の終わりを告げる虫たちの歌が届く。

 ほかに聞こえるのは、遠くの国道を走るトラックの低い響きくらいだ。

 運送会社の事務職を得たわたしは、あの音はどんな土地へ何を運ぶものだろうと思いを馳せる。


『稀に在来種を駆逐するケースが現れます』

『そのせいで生物多様性が失われてしまうなら問題といえますね』


 番組が最近の事例として先輩を取り上げるのを観てもわたしは驚かない。すでにニュースでもネットメディアでも散々取り上げられてきたから。

 二年前の夏から、関東中部圏を中心に急速に広まったらしい。警鐘を鳴らす専門家によれば特異なほど強いアレロパシーを持つという。

 とはいえ専門家の警鐘が真に受けられることはない。わたしたちは今日も地球を温暖化するガスを出しながら世界中に無数の品を運んでいる。

 一方で先輩の香りには気持ちを安らげる効果があり、プルースト効果のように良い想い出を呼び起こしてくれるといった民間ブームにも触れられていた。危機を訴えるトーンは抑え気味で、むしろグローバル化の進む現在、外来種の概念にどれほどの意味があるでしょうかと、言葉遊びのような疑問を投げかけて番組は終わる。

 この無関心さはヒトに内在していた脆弱性なのか、それとも先輩のアレロパシーによって生じたものなのかと、わたしは考える。

 どちらでもいい。

 そのお陰で、わたしにとっての外が壊れてくれるなら。

 隣の家は静かになった。その庭には野生化した先輩が生い茂っている。

 わたしは時折、町で見かけた先輩をちぎっては口に入れる。先輩を食べることで、わたしも異物になるのだと感じる。



 ◆ ◆ ◆



 わたしは静かになった町を眺める。

 ローカル鉄道と国道、そして田畑だけの風景に、巨大な先輩が影を落としている。送電鉄塔のように五つ六つと聳え立つ〝巨木種〟は、涼しげに町の彼方を眺めている。

 空を覆う雨雲は四六時中陽光を遮り、このごろは時刻も季節も曖昧だ。

 政府は数年前に緊急事態を宣言して先輩の本格的駆除に乗り出したけど、いまひとつ効果は上がらなかった。そのころには先輩は国中を覆い、先輩の密生する空間ではヒトも動植物もゆっくりその存在をやめるようになっていたからだ。政府機能の九州移転だとか、先輩を駆除して自給自足で暮らす山間部のコミュニティだとかの話も聞くが、ネットが使えなくなって久しく、近況はわからない。

 わたしはまだここに住んでいる。

 居間では、ずっと以前にハーバリウムにした先輩がいまも当時の姿のまま笑っている。

 人気のなくなった民家の庭や駐車場の端々に、先輩が――わたしと同じくらいの草丈の〝ヒト型種〟が立っている。

 ふとゼラニウムの香りが満ちると、そこは通学路で、廊下で、教室になる。

 世界は学校の内側だった。

 どこへ行ってもたくさんの先輩が笑いかけてくれる。

 わたしは学校生活のなかで、気の赴くまま先輩との会話を楽しむ。先輩はクラスメートで、親友で、そして恋人。

 わたしはときに口づけし、唇の柔らかさを味わって、それから舌を頬へ這わせる。首すじへ、手のひらへ。

 そして薬指の付け根あたりに歯を立てて、ぷつりと噛み切る。じゅっと口のなかを焼く液体が溢れる。ごく、とそれを飲み込むとき、わたしは自分が先輩に呑み込まれるのを感じる。

 電気も水道も止まり、トラックの音も途絶えたこの学校生活のなかで、わたしはとりあえず生きられるところまで生きるだろう。

 いまでもたまに、虚ろな顔でうろつくヒトの姿をみかけることがある。いずれ意識らしい意識もなさそうだけど。

 あなたたちの世界のほうが箱庭だったね、とわたしは思う。

 あなたたちの庭には、世界を壊す無数の種が眠っていたんだ。


 わたしは好んで川沿いを歩く。

 通学路を、あるいは校庭を流れる川は、長年の雨ですっかり増水している。

 水辺には変わった先輩が多いから飽きない。

 この世界には生物多様性がある。

 光合成をする先輩。草を食んで移動する先輩。それを捕食する先輩。先輩の死骸を分解する先輩。

 川面を流れる小さな〝浮草種〟の先輩の向こうで、川の主のように大きな〝海牛種〟の先輩が体を水の上に覗かせ、深海魚みたいに一部を光らせながら流れを下っていく。まだネットが使えたころ、海を越えて流れ着いた大陸で繁殖する先輩の映像を見た。多様性に満ちた先輩の森に沈む異国の街々。いまこの星はどこまで学校になっただろうか。

 わたしたちは外を壊し続ける。

 外がぜんぶ壊れれば、世界は先輩とわたしだけのものだ。

 嵐を予感させる強風が、ふわふわと浮かぶ〝気球種〟の先輩を胞子みたいに吹き飛ばした。

 無数の先輩が飛んで行く暗い空を眺めながら、あの彼方にも外があるのだと思い出した。見なくなって久しい月の光。星座の輝き。

 わたしは想像する。

 零下二七〇度の暗黒のなか、降り注ぐ宇宙線の雨のなかで、殖え続ける先輩を。

 やがて収縮した星間ガスの核融合反応のなかで、先輩は煌々と宇宙空間を照らし出すだろう。


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