期待せず生きる
文筆業を始めて数年した或る日、昔馴染みの男が結婚をしたのだと聞いた。御丁寧に私の元へも報告を寄越してきた。良い縁あって、それは美しい娘を妻として迎える事が出来たという。彼女は物静かではあるが、笑顔を絶やさず、その笑顔はまるで春の暖かな陽気、桜の儚さを備えたような様子だという。
ああ、遂にこの男まで結婚をしてしまうのか。全く男とその様な話の出ない私には、昔馴染みである彼なら或いは、と思わなくも無かったが、期待をしないでおいて正解だった。そう上手くいくものでもない。
簡単に祝いの手紙を書いて封をして、郵便に出そうと玄関を出たところ、久我がそこに来ていた。何の用かと尋ねれば、彼は手紙の束を見せてきた。
「先生の作品の感想だよ、何時も通り、ほら」
「有難う御座います」
「おや、先生も手紙を持ってるのか。誰に?」
「友人の様な何かです」
結婚したらしいので、と私が言うと、久我は相変わらず腹の立つ笑顔で覗き込んで来るのだ。
「失恋?」
「違います」
全く、気があった訳ではない。本当に。ああ、しかし、気に食わないのは、そうかもしれない。しかし気にした所でどうにもならない。久我が鬱陶しいので私は郵便屋に早足で向かった。然し久我は私よりもずっと脚が長いし、着物ではなく洋装をしているので、簡単に追いつかれてしまうのだった。
「久我さん、もう用は済んでますよね」
「君は必要な事しかしないじゃないか、気が狂うと思うぞ」
「狂いません」
ポストに手紙を投函して振り返ると、しつこく目の前に立っていた久我と目が合い、私は深く溜息を吐いた。
感想の手紙など、どうせ目新しいことは書いていない。いつも同じ。男は喜ぶようだったが、女の読者は大抵あまり面白くないと書くのである。私の書く物語は、女に疲れた男の話が多いのだ。今だって、女の書く手紙の謎の圧力に、何やら押し潰されている様な気がする。ああ、女は多くを期待し過ぎる。だからこうも、重いのだ。よくも、そう多くの事を期待できるものだ。その期待のうちどれだけが叶ったのか。多くが叶ったから望めるのか。叶わなくとも望むのか。どちらにせよ、見ている私からすれば、想像するだけで、何となく、疲れる。
ロマンチックな雰囲気が足りない、と、或る手紙には書いてあった。浪漫とやらを求めるなら、私の小説は向いていないから読むのをやめれば良い。夢は期待の塊の様なもの。それを描くのは、期待しないという主義の私には、一番向いていない事なのだ。
人間の欲は、煩い。
絶筆準備 麻比奈こごめ @Spiraea
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