耳元で囁くもの

春海水亭

芳一の耳に


 ◆


 芳一くん。


 芳一の耳にそっと囁く声があった。

 聞こえるはずのない声だ。

 芳一は目を閉じ、何も聞こえていないような顔をして必死に黙っている。


 芳一くん。

 扉を開けてくれないかな。


 柔らかく甘い、女の声だ。

 聞いているだけで、こそばゆくなるような声をしている。

 聞こえてはいけない声であった。

 それが耳元で聞こえる。

 目を開いて確かめたいという気持ちと、絶対に目を開いてはいけないという警戒心で芳一の心は揺れていた。


 春原芳一は十四歳の少年である。

 別に特別な人間というわけではない。

 数学が苦手で、国語が得意。部活は陸上をしている。

 苦手な数学だって別に学年の最下位を争うほど酷いワケでは無いし、国語もトップ層と鎬を削るワケでもない。短距離走の日本記録に名前を刻むようなことだって永遠にないだろう。


 そんな普通の少年である彼が、今は異常の中にあった。


 床、壁、天井――至る所に読めないが何かしらの意味があるであろう呪文が書かれ、等間隔に何らかの御札が貼られている。そんな小屋の中心で体育座りをして抱えた膝に顔を沈めるようにして必死で目を閉じているのである。


 昼の三時頃にこの山奥の小屋に入れられ、「朝になって外から扉が開かれるまでは決して目を開けるな、そして扉を開こうともするな」と言われている。


 壁の厚い小屋である。

 窓の無い小屋である。

 電気の通っていない小屋である。

 スマートフォンを持ち込むことは出来ず、ロウソク一本ほどの照明のないこの部屋は朝であろうと真夜中であろうと、同じ闇に包まれている。

 目を開くのも、閉じるのも大して変わりのないような闇の世界である。


 芳一くん。


 耳元で囁く声は甘い。

 肌に触れる柔らかな息も甘く肌をくすぐる。

 声だけでなく、鼻孔をくすぐる甘い匂いもする。


 その声にも、息の感触にも、匂いにも、芳一は一切心当たりがない。

 知らない誰か――いや、何かが芳一の目を開かせようとしている。


 何故このようなことになってしまったのか、と芳一は思う。

 肝試しのつもりであった。

 自身の住む町内にある、誰も住んでいない民家――夜中になって、そこに友人たちと一緒に侵入したのである。

 窓ガラスであるとか、リビングと庭をつなぐガラスの引き戸を割ってまで入ろうとは思っていなかった。

 ただ、鍵が開いていたから――折角だから、何が折角だからなのか、今となっては何故そんなことを思ってしまったのかわからないが、入れるから入ろうと思ってしまったのである。


 二階建ての、二十年は誰も住んでいない家である。

 前の住人が使っていたであろうカーテンで家中閉め切られていて、中の様子はわからない。

 一家心中があったという噂は聞いているが、少なくとも周囲の人間は詳細を知らない。大人も、そのような噂があったらしいと伝聞で語るぐらいである。


 実際に心霊現象があったという噂を聞いたことはないし、管理会社かあるいは誰かが管理しているのか、少なくとも庭の雑草が伸び放題になっていることはなく、窓が割れていたり、落書きがされているようなこともなかった。

 ただ、誰も住んでいない――それだけの家である。


 不法侵入にはなるが、家の中の物を盗んだり壊したりするつもりはなかった。

 ただ、みんな刺激に飢えていただけである。

 それで入った。

 もしもバレたら説教は食らうだろうが、それ以上のことにはならない――みんなそう思っていた。


 平日の昼――開校記念日を狙った。

 肝試しならば夜のほうが良いだろうが、夜に家を抜け出そうとすれば、まず家族の視線を掻い潜らなければならなくなるし、平日の昼ならば大抵の人間は仕事に出ているだろうから、バレにくいだろう――そう思った。それに翌日に学校に土産話を持っていくことも出来る。


 雲ひとつない晴天だった。

 空を見上げれば、引かれて落ちてしまいそうな程に澄んだ空だ。

 肝試しには向いていないが、こんな晴れたいい天気に曰く付きの空き家に忍び込むというのが滑稽に思えて、芳一たちをなんだか愉快な気分にさせた。

 

「行くぞ」

 ドアノブに手をかけた明彦が言った。

 同じ町内で育った芳一の幼馴染である。


「おう」

 敬司が力強く返す。

 芳一も敬司と同じように返事をした。


 玄関の扉は客人を待っていたかのように、あっさりと開いた。

 特別な人間ではない芳一の、百万回は語られたであろう、ありふれたホラーの始まりだった。


 電気のついていない部屋に、外からの光が射し込む。

 陽光に照らされて、十年も暗闇に包まれていた玄関がその姿を顕にする。

 天然石風のフロアタイルに並ぶ靴はない。

 その右手には靴を収納するための棚。

 棚の上にはかつての持ち主のものか、陶器製のピエロの人形と木製の籠が置かれている。


「……結構、綺麗だな」

 明彦が言った。

 やはり、見えないところでしっかりと管理されているのだろうか。

 玄関にも棚の上にも埃一つ積もっていない。

「俺の家より綺麗かもな」

 そう言って、芳一は笑う。


 がちゃ。

 玄関の扉が閉まる。

 陽光が遮られ、家の中が薄暗くなるが――それでも僅かに光が射し込む。

 三人はそれぞれ、スマートフォンを持ってライトを起動した。


 出来れば、すぐに逃げられるように靴のまま入りたかったが、出来るだけ痕跡を残したくなかったので、三人は用意していたスリッパに履き替えた。

 ただ、スリッパを持っていなかったとしても想定外の綺麗さに気が咎めて、靴を脱いでいただろうと芳一は思う。


 ぺた。ぺた。ぺた。


 やたらにうるさく、スリッパの音が家の中に響く。


「この家の中で死ぬとしたら……どこだろうな」

 敬司が言った。

「どこって……」

 自分の家に当てはめて、芳一は考えてみる。

 家族で心中する場所はどこか――リビング、寝室、キッチン、まさかトイレということはないだろう。

 ただ、死ぬ場所を考える気持ち悪さがあって「なに言ってんだよ」と敬司を茶化してやろうとしたその時である。


「……寝てる家族を殺して、自分も殺すから寝室じゃねぇ?」

 明彦が言った。

 返事をしよう、いや、しなければならないと芳一は思う。

 なんでもいい。


「何言ってんだよ」でも「プロファイリングガチってんじゃねーよ」でも「将来殺す予定じゃねぇだろうなぁ」でも、なんでもいい。

 イヤな沈黙があった。

 口の中が乾いて、芳一は言葉を発せなかった。


「じゃあ、寝室か」

 敬司がそう言って、玄関の前にある階段を上る。


「寝室だな」

 それに続いて、明彦も上る。


「二階だな」

「二階だ」

 二人が言った。 


「待って……」

 絞り出すように、芳一は言った。

 当然のような口ぶりでそう言って、階段を上がる二人が恐ろしい。

 わかる。

 肝試しなのだ。

 心中したらしい場所に行きたい、恐ろしいものが見たい。

 それはわかる。


「なんで、寝室が二階にあるってわかんだよ」

 けれど、何故知っているかのように二階に上がれるのだ。

 明彦も敬司も、そして芳一自身もこの家の内装は一切知らない――はずである。


「それもそうだな」

「なんで俺ら、二階に寝室があるって思っちゃったんだろうなぁ」

「聞いてみればわかんじゃねぇ?」

「そうだな」


 瞬間、三台のスマートフォンが同時に鳴った。

 着信。


 明彦と敬司が耳にスマートフォンを当てる。


「すみません、あの……俺らってなんで二階に寝室があると思っちゃったんですかね?」

「別にこういうの一階でもいいですし、っていうか……殺すなら寝室以外でもいいですよね」

 二人が丁寧な口調でスマートフォン越しの相手に尋ねている。


「うわぁっ!」

 芳一の口から悲鳴が漏れていた。

 自分の手の中で軽やかな着信音を奏でながら、スマートフォンが震えている。

 画面に写っている発信元は母親の名前だ。

 このタイミングで偶然に母親からの着信が――あるわけがない。

 芳一はスマートフォンを放り投げて、玄関に向けて駆けた。


 がちゃ。

 がちゃ。

 がちゃ。


 ドアノブに手をかけ、何度も回す。

 鍵が閉まっている。

 そんなはずはない。

 さっきまで鍵は開いていたし、そもそも視線の先にある内鍵はかかっていない。

 であるというのに、開かない。


「あああああああ!!!」

 恐怖が叫びとなって芳一の内側から溢れた。

 二人と恐怖を共有することは出来ない。

 階段の二人は楽しそうに誰かと通話を続けている。

 芳一のスマートフォンはまだ主を求めて、自身の存在を訴えていた。


 ガラス。

 芳一の脳裏にその言葉がよぎった。

 リビングと庭をつなぐガラスの引き戸がこの家にはある。

 そのガラス戸を割って、この家から逃げ出す。

 他の二人のことであるとか、逃げ出した後のことであるとか、そのようなことは考えられなかった。

 ただ、芳一はピエロの人形を手に取って廊下を駆けた。

 居間へ。


「……えっ」

 恐慌状態にあった芳一から、思いの外、素の人間の呆けた呟きが零れた。

 リビングに着いた彼が見たものは、ごく穏やかな光景であった。

 中年の男が五歳ほどの幼児と向かい合って、焼きそばを食べている。


――人がいたのか。


 安堵感に包まれ、芳一はその場にへたり込んだ。


 目の前の住人。

 両親。教師。

 そして警察。


 どれほどの人間にどやされるかわかったものではない。

 それでも、さっきまで存在していた非日常から解き放たれ、芳一はようやく日常に指先をかけたような気がした。


 ずっ。

 ずっ。

 ずっ。


 焼きそばをすする音。

 幼児の汚れた口元を拭って、中年の男が笑う。


「あの……」

 何をどう言えばいいのか。

 本来ならば謝罪が先なのだろうが、安堵感で芳一の思考は白く白く染まっている。


「この子ね、私の息子じゃないんだよ」

 穏やかな笑顔で男が言った。


「えっ?」

「嫁さんはこの子を残して、どっかに逃げちゃって……で、私は……しばらく、そうだな。二週間ぐらいしてから、お腹がいっぱいになって眠ってしまったこの子の寝顔が嫁さんに似てるのを見て、衝動的に殺してしまったよ」

 どこまでも穏やかな、子供を愛する父親の顔で男が言葉を続ける。


「――たまにね、君みたいなお客さんが来るから、家の中はちゃんと綺麗にしてあるんだ」

 一瞥すらせず、その視線をずっと息子に向けたまま、男は芳一に向けて語る。

 治まっていたはずの恐怖は、すぐに芳一の中で育ち――再び花開いた。


「――やはり、一人だと寂しいと思うからね」

「うわあああああああああああああああああああああああ」

 カーテンを思いっきり開いて、ピエロの人形を芳一はガラス戸に叩きつけた。

 一発であっさりと割れてくれはしない。

 何発も何発も叩きつける。

 陶器のピエロが先に割れ、芳一は鋭利な破片だけを手に持っている。

 それでも何度も何度も叩きつける。

 破片を握りしめる芳一の手が血に染まる。

 それでも、続ける。


 ガラス越しに陽光が射し込む。

 部屋の中は昼の光に包まれて、外と変わらないぐらいに明るい。

 空は青く、芳一の手は赤く染まっている。

 この家の外では、名前も知らない人が普段通りの日常を過ごしているのだろう。

 その日常に芳一は帰れない、ガラス一枚に隔てられて。


「おかえり」

 男は庭に続く引き戸を開け放ち、穏やかな声でそう言った。


「えっ……?」

「そんなに帰りたいのなら、無理強いはしないよ」

 穏やかにそう言った後、やはり殺意を顕にするでもなく、芳一を脅すでもなく、穏やかな口ぶりで「君と一緒に行ってもいいかな?」と言った。


「一緒に……?」

「君を帰してあげるから、私も君と一緒に外に行きたいんだ。それだけだよ」

 その言葉に恐ろしいところはない。

 殺すであるとか、死ねであるとか、祟るであるとか、そういう言葉を吐き出したわけではない。

 それでも、総毛立った。

 ぞわと、恐怖そのものに撫で回されたような感覚が芳一にはあった。

 頷けば、恐ろしいことになる。

 それでも、芳一にこの家を出る以外の選択肢は無かった。


 ◆


 翌日。

 明彦も敬司も帰ってこなかった。

 自分の家に戻った芳一は何も出来ないまま、外の全てを遮断するかのように布団を被って意識が消えるまでそうしていた。

 いつか、来る。

 今日ではなかった、明日でもないかもしれない。

 それでも、あの男はいつか来る――その確信だけがあった。

 

 恐ろしい――だが、どうすればいいかわからない。

 親に相談するか、友人に相談するか、教師か、警察か、

 どうすればいいのか、わからない。


 両親には体調が悪いとだけ言って、学校にも行かず布団の中で怯えていると、突然にインターホンが鳴った。

 両親はいない。

 父は会社に行っているし、母親もパートだ。

 芳一は食事も摂らずに、布団の中に籠もっていた。


「すいませぇーん!」

 インターホンが連打され、玄関で大声がする。

 女の声だった。

 あの男の声ではないが――とても出ていく気にはならない。


「入りまぁーす!」

 何度か繰り返された「すいません」が唐突にそれに変わった。

 玄関が開き、足音が二つ――芳一の自室がある二階へと上がってくる。


「ごめん、入るね」

 部屋の扉が開き、誰かが芳一の布団を引き剥がした。

 芳一のベッドの側に、知らない二人組が立っていた。


 女がいた。

 身長が百七十はあるだろう。

 タイトなスーツを僅かに着崩し、金に染めたミディアムの髪を遊ばせてウルフカットにした、女ホストのような風貌の女であった。

 金色の瞳が、芳一を見据えている。


 左手が無かった。

 正確に言えば、左の肘から先が無い。

 左肘の先の袖には存在するべき厚みはなく、ただ薄っぺらな空気だけを包んで垂れ下がっている。


「バランスが」

 女が言った。

「はい?」

「今、左がなくてバランスの悪い女だなぁと思いました?」

「……いえ」

「そのうちに右腕も無くしてバランスを取ってやろうかな、って思ってるんですよねぇ」

 そう言って、心底愉快そうに女が笑う。

 あはぁ。

 開けた大口から鋭い犬歯が覗く。

 もしかしたら、それは彼女なりの冗談だったのかもしれない。

 芳一はとても笑う気にはなれなかったが。


「……あ、はじめまして、小泉心霊相談所の小泉です。やってます、霊能者を」

 女――小泉はそう言って、頭を下げた後に左袖で傍らに立つ少年を差して言った。


「そして、この少年は私の左腕です」

「八雲です、小泉先生の弟子をやらせて頂いています」

 僅かに低い声で、少年がそう言って頭を下げる。

 黒髪の美しい少年だった。

 身長は小泉よりも低い、百五十ほどだろうか。

 声変わりは済ませているのだろうが、芳一よりも年下のように思える。


「ちなみに私の右腕はこれです」

 そう言って、小泉が右手でピースサインを作って笑った。


「超面白くないですか?」

「超面白くないです」

「ちぇっ」

 八雲に嗜められて、頬を膨らませる小泉。


「どうやって家の中に……」

 その時、芳一は霊能者という言葉を思い出す。


「霊能力……」

「ピッキングです」

 縋るように言った芳一の言葉を、八雲があっさりと切り捨てる。

 不法侵入者であることはわかりきっていたが、それでも霊能力であってほしかった。


「なんで……僕の家に?」

「見せたげて」

 小泉の言葉に八雲がタブレットを構える。

 タブレットには、例の家の外観が写っている。

 スワイプするたびに撮影した箇所が変わる。

 玄関、二階、庭――「あっ!」

 芳一が悲鳴のような声を漏らした。


 庭に続くガラス戸が粉々に砕けて、その破片が室内に散らばっている。


「犯りました?」

「……いえ」

「でしょうね」

 そう言って、小泉が「出たな」と小声で呟いた。

 そして、右手で芳一にスマートフォンを投げつける。

 芳一のものだ。


「あっ、僕……の……」

「そのスマホがあの家にあったので、君のものかなぁ……と」

 そう言った後、小泉が大きく首を振った。


「あっ、個人情報は見たけど、検索履歴は見てないからね」

「……」

「なんで……?」

 曖昧な問いだった。

 聞きたいことが多すぎて、芳一自身にも何を聞けばいいのかわからなかった。

 精査するでもなく、小泉が答える。

 

「二つの死体が見つかったって、通報があったからさぁ」

「死体って……?」

「つーがくせー」

 小泉がそう言って、右手でピースを作る。

「最悪ですよ、それは」

 八雲が脇腹を小突く。

「うっせ、この稼業は正気のやつから死ぬんだよ。笑え笑え」

「面白くないですが」

 二人の言葉は芳一の耳には入らなかった。

 ただ、二人の死のイメージが頭の中で膨れ上がって、処理できないでいる。

 明彦、敬司。

 二人は死んで――自分だけ生き残って、いや――次は自分なのか。


「除霊するんで、来てくれる?」


 ◆


 そして、こうなっている。

 小泉が所有するという小屋は昼の陽光が射し込んでも、消しきれぬだけの暗闇を有していた。

 その暗闇の中心で芳一はただ、座っている。


 芳一くん。

 扉を開けようよ。

 ボクが開けちゃダメなんだよ。

 芳一くんが迎え入れないと意味がないんだ。


 声がする。

 誰のものかわからない声が。

 あの家の男ではない。

 勿論、小泉の声でもない。


 自分の存在を殺すかのように、深く深く身を縮こめて、芳一は黙る。


 芳一くん。

 この暗闇の中で待ち続けるのはつらいよ。

 時間の感覚はある?

 まだ一分も経っていないんだよ。

 目を開いて。

 扉を開けて。

 彼を受け入れたほうが良いよ。


 待ち続けるのはつらいよ。

 開けよう。


 ねぇ。

 芳一くん。


 ダメかな?


 いっそのこと、言葉に従ったほうが良いような気がする。

 待つのはつらく、そして恐ろしい。

 本当に小泉は迎えに来るのだろうか。

 永遠に扉は閉まったままではないのか。

 結局、あの男は来てしまうのではないのか。

 だったら、耐え続けるよりも一瞬で解放されてしまいたい。


 甘い匂いに包まれて、甘い音の中で、ただ芳一は無限に湧き上がる絶望に耐え続けている。


 それが良いよ。

 芳一くん。


 扉を開けなよ。

 開けよう。


 耳元で何かが囁き続ける。

 芳一の精神は限界だった。

 

 その時、外で車の音が聞こえた。


 ちぇっ。

 芳一くん、時間切れだね。


 よく頑張ったね……残念。


 なにか柔らかいものが芳一の頬に触れた。


 扉の開く音がする。

 芳一が顔を上げると、開いた扉の先には誰もいなかった。


「えっ……?」

 それから何も出来ないまま、三分ほどが経過して、開け放たれた扉の先に二人がいた。


 「……芳一くーん」

 小泉の右手が固く握られ、芳一の頭部に当てられた。

 背後に回った小泉はそのまま、八雲に呼びかける。


「我が左手よ、この愚かな少年に罰を下してやるぞ、ゲンコツで両側からグリっと」

「イヤですが」

「左腕甲斐の無い奴!」

「帰りましょうよ……タクシー待たせてるんですから……」

 そう言って、八雲は再び外に出た。


「……小泉さんじゃなかったんですか?」

 掠れた、弱々しい声が芳一の口から出た。

「はぁ?」

「……扉が開いたんです、僕じゃなくて……誰かが開けて……」

「……嘘だろ?」

「ずっと、若い女の人の声がしてました……扉を開けようって……僕に……」

「……あのさ、芳一くん」


 いないんだよ、と小泉は言った。


「いないって……」

「あの家について調べてみたけど、若い女の犠牲者なんてのはいなかった」

「だったら……だったら……」

 芳一は答えを見つけなければならなかった。

 だったら、あの声は一体――誰のものだったのだ。

 とうとう探り当てた答えを芳一が言おうとするよりも先に小泉が首を振る。


「あの男の嫁さん……今も生きてるよ」

「……だったら、アレは」

「あの男が女の声真似でもしてたんじゃない?」

 軽い声で、小泉が言った。


「……は?」

「怪異がそういう声真似をするだなんてのは珍しくないしさ」

「それで……」

「君をもうあの男が襲うことはない……だから、もうそれでいいんだよ」

「……はい」


 タクシーの後部座席に、八雲と芳一を乗せて小泉は助手席で目を瞑る。


 あのガラス戸の破片は部屋の内側に広がっていた、ならば誰かが――外側からガラスを割った。

 そして――その誰かはあの小屋の中に潜んでいたのではないか。

 小屋が除霊のために利用されるとわかって、芳一に扉を開かせるために――闇の中にずっと潜んで、芳一に囁き続ける。


「正気の考えじゃないなぁ」

 小泉はそう独り言ちて、自嘲の笑みを浮かべる。


――けど、まぁ……正気じゃない奴っていうのはいるからなぁ。


 ルームミラーに映る八雲を見ながら、小泉は心の中で思った。

 そして小泉は八雲に向いた視線を、眠る芳一に移す。

 タクシーが芳一の家の前に停まる。


「おかえり、君の日常へ」

 小泉は穏やかな声でそう言った。


 扉が開く。


 おかえり。


 母親のものではない若い女の声を聞いた気がした。


【終わり】

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耳元で囁くもの 春海水亭 @teasugar3g

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