『彼女ともう一度出会いたくば。心臓を喰らうな』
小田舵木
『彼女ともう一度出会いたくば。心臓を喰らうな』
僕の中の怪物は眼の前の人間の心臓を奪う事を欲している。
僕がその欲求に従ってしまえば。人間ではなくなる。
それが惜しい。僕は人間を辞める訳にはいかないのだ。
人の
それだけはできない。僕にはまだ人間で居る理由があるのだ。
人のコミュニケーションの本質とは。同質性にある。
自分と同じような存在だからこそコミュニケーションは成り立つ。
僕が永久の命を得てしまったら。彼女を置いていく事になる。
病室に押し込められた彼女。臓器が壊れてしまった彼女。
彼女には僕しかいない。だから。僕は内なる欲求を抑えこむ。
彼女が生きている限り。僕は内に居る獣と戦い続けなければならない。
こうやって。僕は絶好の機会を逃す。
酔っ払って倒れた呑気なサラリーマンの心臓を取り逃す。
だが。それでいいのだ。
僕の中に残る人間は言う。彼女を置いて永久の命を得る無かれ。
それは彼女に対する裏切りである―
◆
僕はある日気付いたら。
心臓を欲するようになってしまっていたのだ。
それはあっという間の変化であった。
特に大きなイベントが起きた訳ではなく。
ただ。いつもの食欲の中に心臓を欲する欲求が混じっていたのだ。
それはあまりにも自然で。大きな欲求であった。
だから僕は何度も折れそうになるハメになる。
だって、君。食欲の中に混じりこんだ欲求だ。我慢するのは中々難しい。
僕は幾度もコイツと戦うハメになっていくのだが。
僕は病室で。彼女を見舞う。
彼女とは病気の繋がりで知り合った。
僕もかつては。臓器の機能不全で入院していたが。今は臓器の機能を補う薬のお陰で、ただの高校生だ。
僕だけが先抜けしてしまったという事実は僕に重くのしかかる。
僕だけは命の危機を逃れてしまったのだ。
その上。やろうと思えば永久の命を得れてしまう。
ああ。僕は彼女に対して不義理をしてばかりだなあ、と思う。
そんな考えが顔に浮かんでいたらしい。
彼女はそれを目ざとく発見し。僕に問いかけてくる。
「どうしたの?そんな難しい顔をして」ベットの上にいる彼女には色々な管が刺さっており。それは痛ましい。
「…別に。何食おうか悩んでいただけだよ」本当は―心臓を喰らいたいという欲求を我慢しているだけなのだが。
「良いよねえ。君は。食の自由があって」
「病気の時はなかったからな。今は楽しませてもらってる」
「羨ましい」彼女は心底羨ましいという顔をしている。
「ハンバーガーとか健康に悪いけど。美味いんだよ」
「…食べた事ないから想像するしかないねえ」
「その内食えるようになるって」僕は励ましてみるが。その可能性はあまりに小さい。彼女の臓器は不可逆なダメージを負っており。回復の見込みは薄い。ただ、ゆっくりとした死を待つだけなのだ。
「退院したら。
「…待ってるぜ」なんて僕は言うが。こういう空手形を切り続けるのは精神の健康に悪い…
◆
僕は病院の中庭を歩きながら。
彼女の事を考えている。
僕は彼女と共に病と戦ってきた。だが。僕の病の方は臓器の機能を補えばどうにかなる問題で。先抜けができてしまった。
僕と彼女の出会いは院内学級だ。僕の病がどうしようもなかった頃。僕たちは出会った。
当時の彼女はまだ元気があった。肺を病んでる割には活発な子どもで。
僕は彼女に圧倒されたものである。一方の僕は肝臓を病んでおり。それなりに具合が悪かった。
彼女は何時でも笑顔を絶やさない子どもであった。病に
重病を背負う子ども達は。ある種の
だが。彼女は無邪気にも。私はまだ死にはしない、というような態度で生きていた。
僕はそれが不思議だった。彼女だって知らされていたはずなのだ。一歩間違えば死に落ちて行くと。
明るい彼女を見ていると。
病気を気に病んでいることが馬鹿らしくなる位、彼女には希望が溢れており。
僕は彼女を太陽代わりにして。病気と戦った。
だから。彼女は盟友なのである。
その盟友を置いて僕は先に病気を克服し、退院し。ただの高校生に成り下がった。
その上。今は永久の命を得ようとしている。
ああ。僕は何処まで彼女を置いていけば良いのだろう。
◆
僕は以前から考えれば。びっくりするほど普通の生活を送っている。
それが不思議でしょうがない。
僕の病気だって。それなりにクリティカルなモノだったのだ。
肝臓の機能が低下していた僕は。体内に溜まる毒素を分解できず。
それなりに苦しんでいたのだが。今は薬が発明されてしまい。
それで肝機能を補えば。ただの人として生活出来る。
僕は高校の教室の自分の席に座りながら。不思議な気分になる。
僕は本来ここに居るはずではないのに。
そういう思いが頭に上る。
間違っているとさえ思う。
それは僕が彼女に引け目を感じているからだ。
死という不可逆な運命と戦う土俵から先に上がってしまった引け目があるからだ。
僕がどれだけ引け目を感じようが。
世界は回る。未来へと向かって。
その未来には。確実に葵の死がある。
僕はそれを回避したいのだが。それは不可能に近い。
彼女の肺の細胞はゆっくりと死に絶え。彼女の呼吸を浅くしていってる。
いつか彼女は息ができなくなって死ぬだろう。
決まりきった未来。それを甘受する事が僕に出来る唯一の事で。
そう思うと憂鬱になる。
◆
僕は心臓を抜くことができる…
やった事はないが、確信が持てる。
だが。僕は思うのだ。何故選りに選って心臓なのかと。
肺が抜ければ良かった。そうすれば。生きる価値のない奴から肺を拝借して、葵を治してあげる事ができたのに。
神はどうでも良いようなモノを僕に与え給う。まったく。世の中はうまくいくようにできていない。心底思う。
僕は今日もどうしようもない欲求と戦っている。
ああ。心臓を喰らってしまいたい。
溢れ出る欲求。それに折れてしまうのは簡単だが。
僕は葵の顔を思い出すことで、欲求を遠ざける。
日々は漫然と過ぎていく。
そして葵は日に日に弱っていく…
僕には打てる手などありはしない。
ただ。見守る事しか出来ない。
そして。彼女の側に居る為には。人間を辞める訳にはいかない。
僕はもう彼女を裏切ってしまっているのだ。
その上、永久の命を受けようものなら。僕は二度と彼女と顔を合わせられないような気がする。
街には人が溢れており。
その中には心臓が
僕はその景色を見るだけで。欲求が高まってしまう。
ああ。心臓を食べたい…
僕の日々は戦いである。昔は病…死との戦いだったかが。今は生との戦いである。
僕はこの戦いに負ける訳にはいかないのだ。
◆
僕が欲しいと願って止まなかった日常は。
手に入ってしまった。僕だけが平穏な日常を送っている。
僕は高校生生活というモラトリアムを心ゆくままに楽しんでしまっている。
今日だって級友と。食べ歩きをしながら無駄な話に花を咲かせている。
こんな日常を願って止まなかった僕たち。葵と僕。
僕だけが先に抜けてしまい。僕は漫然と日々を送っている。
ああ。これは裏切りだ。
僕は葵にずいぶん救われてきたというのに。
何も恩を返す事なく、平和な日々を送っている。
これを葵は知らない。味気ない病院食を食べてばかりいるのだ。
僕は彼女に教えてやりたい。友人と食べ歩きをするのは楽しいのだと。
だが。そんな願いは叶う事はない。ただ。死という運命を待つだけだ。
そこには対比がある。生を謳歌する僕と。死を待つ彼女。
元は一緒の空間にいたはずの僕は。そこから出てしまい。
彼女を裏切ってしまい。そして彼女を見守る事に終始させられてしまってる。
僕は無力感を常に感じている。
僕には何も与えられない。どうでも良いような可能性だけが手に残っている。
僕はそんな運命に抵抗したい。せめて永久の命は得ずにいたい。
そうすることで。少しは彼女に対して平等であれるような気がするのだ。
今すぐは死なないが。僕だっていずれは死ぬ。
死だけが。彼女との関係を取り持つ。
僕が死ぬことによって。初めて彼女と向かいあえる…
だから。永久の命を得ることだけはどうにかして遠ざけなければならない。
そうしないと。僕は彼女を永遠に失うだろう…
◆
彼女はベットの上から僕を見上げる。
彼女を見舞う事は一種の習慣になってしまっている。
僕は死という檻から出た鳥で。檻の中にいる彼女に世界を教える役目があるのだ。
「うっす。葵。死んでねえか?」これが僕たちの間の挨拶であり。
「虎口くん。まだ。私の肺は死に絶えてないよ」と彼女が応える。
「相変わらず。僕は高校生活を楽しんでいるぜ?」
「楽しそうでなにより。ねえ。聞かせてよ。外の世界の事を」
僕は葵に最近の話を聞かせる。
ほとんどがどうでも良いような日常の話だ。
だが。死という檻に囚われた彼女にはその日常が手に入らない。だから僕の話には価値があるのだ。
僕は彼女にできるだけ楽しそうに日常を話すようにしている。
本当は。退屈な日常だけど。話し方を工夫して。
僕は彼女が手に入れられないモノを掴んでる。
ならば。できるだけ希望に満ちているように話すのがスジってもんだろ?
話を聴く彼女は
僕はその顔を見ると。哀しくもなるが。楽しくもなる。
僕の日常が楽しみで彩られているように感じる。
不思議だ。聞き手のリアクションでこうも話の印象が変わるとは。
僕がひとしきり話をすると。
葵は満足したような顔をする。
そして僕は彼女の近況を訊く。
そこには明るいニュースはない。
ただただ。肺の機能が低下していっているのだ。
ああ。時は迫っており。僕はその事実に怯える。
今、眼の前に居る彼女が無に帰す。
灰になって消えていく。
…せめてそれまでは。僕は人間のままでいなくてはならない。
永久の命など以ての外だ。せめて彼女と同じ空間に立っていなければならない。
いずれ死を迎える人間としての空間に。
◆
僕は彼女の死後。どうやって生きていくのだろう?
こう考えざるを得ない。彼女は着々と死に向かっている。
僕は今のところは心臓を食べたいという欲求を抑え込んでいるが。
彼女がいなくなったら
だって。今の僕をヒトに押し留めているのは彼女の存在なのだ。
僕はつくづく彼女に依存しているな、と思う。
病気の時も明るい彼女に導かれていたし。今は薄暗い欲求を彼女の力で抑え込んでいる。
まったく。僕には僕の意思がないのだ。
こんな事で生き残っていけるのだろうか?
生き残る。
病気の頃から比べれば。大きく進歩しちまったモノだ。
僕は現代科学の恩恵で何とか生き残ってしまっただけなのに。
世界はつくづく公平に出来ていない。
僕は世界を憎んでいる。
彼女を置いて病気を克服した僕を憎んでいる…
そして。永久の命をどうしようもなく欲してしまう僕を憎んでいる。
世界は平等ではない。不公平だ。
何故。彼女だけが助からないのだろう?
僕なんかを救う前に。彼女を救ってやって欲しいモノだ。
永久の命なんか。僕には必要ない。
彼女にこそ与えたい。
だが。それは叶う訳のない話であり。
僕は漫然と彼女の死を待つばかりだ。
◆
日々は溶けるように消えていき。
彼女の命の砂時計の砂は残り少ない。
僕は彼女の病室のテーブルを借りて。受験勉強をしている。
彼女はそれを横目で見守っている。
僕だけが。未来を与えられている。
そして彼女はそれを覗き見ることしか出来ない。
これを不平等と言わずして何と言うのか。
だが。彼女は僕を欲している。
檻の中から。世界の
だから僕は。残酷だなと思いつつも。ここで受験勉強をしている。
「虎口くんは…どの大学のどの学部を目指すの?」ベットの上の彼女が問う。
「…あの大学の薬学部」僕は
「まさか。私の病をどうにかしようとしてる?」
「まあね」僕は
「…ゴメンね」
「なんで謝るのさ?」
「なんだか私が君を縛ってるみたいで」
「僕は…君に導かれてきたから」
「私は何もしてないよ」
「明るい生き様にずいぶん救われた」
「ただの性格だって」
「そういうモノは得難いもんだ」
「そうかなあ。ただ。そういう風に生まれちゃっただけなんだけど」
「…君が側に居たから。僕は病気と戦えた。今度は僕が君に何かをしてあげる番だ」
「十分。君は私の生きる支えになっている」
「それだけじゃ足りない」
「…あまり無理はしないでね」
「してないって」なんて会話もいずれは出来なくなる。
◆
僕はとある大学の薬学部に合格する。
これで夢に一歩近づけた訳だが。
それは同時に彼女の死が一歩近づいたという事でもある。
僕が生きれば。それだけ彼女の死は近づく。
この皮肉さよ。僕は世界を憎まざるを得ない。
僕はだんだんシニックな人生観を身につけ始めている。
どうしようが絶望。それが僕の人生に与えられたモノであり。
僕はどうしようもなく。欲求に折れそうになる。
日に日に。心臓を喰らいたいという欲求は高まっており。
僕はそれを退ける事が難しくなってきている。
彼女と平等で居たい。それだけが僕を人間に押しとどめている。
それは杭としては脆弱なものだ。
彼女は最近、意識を失っていることが多い。
もう。世界を僕を通して見ることさえ止めてしまっている。
僕は自暴自棄になりそうな心をどうにか押し留め。
勉強に身を捧げる事で。ギリギリ人間で居続けている。
◆
僕は。彼女に意識がなかろうが。病室を訪れる事を止める事が出来ない。
それは一種の儀式なのだ。
僕が人間で居るための儀式。彼女を見ることで。
内から溢れ出そうになっている心臓を喰らいたいという欲求を消す。
僕が定命の存在であり続ければ。ギリギリのラインで彼女と同質で居られる。
僕の人生は長らく綱渡り状態だ。
生まれた頃から病気が治るまでは病に脅かされていて。
治ってからは、どうしようもない欲求に脅かされている。
息をつく暇なんかなかった。
心はボロボロになっており。ちょっとしたイベント―彼女の死―があれば。
僕は簡単に人間を辞めてしまうだろう。
僕の人生って何なんだろう?そう思わざるを得ない。
外からの圧力に屈してばかりなのだ。
◆
彼女は。現代医療のお陰でギリギリのラインで生き残っている。
僕は大学生活を何とか全うできた。これで院で博士号を取れば。一応は研究者として独立が出来る。
長い時は。彼女をボロボロにしてしまった。
僕は彼女を見舞って思う。
よく。ここまで生き残ったものだと。高校生の時は。もう後数年の命だと思っていたが。
お陰様で僕は。まだまだ人間のままで存在している。
溢れ出る欲求を何とか抑え込んでいる。
ただ。彼女と同質の存在でありたい。
その欲求だけが僕を人間に押し留めている。
◆
彼女を置いて。時は回り続ける。
僕は博士号を取得し。製薬会社に勤めるようになったが。
問題は。彼女がいつか死ぬことで。
僕に残された時間はあと
創薬はカネと時間が掛かる。尋常ではないほどに。
確実に間に合わない。僕は彼女の死を見送る事になるだろう。
その無力感。僕は欲求を抑えこむ事が難しくなっている。
心臓が食べたい。
僕は食欲以上になってきているこの欲求をどうするか悩んでいる。
最近は。もう折れても良いような気さえしているのだ。
どうせ。彼女は死ぬ。僕が何も出来ないままに。
人間であり続ける理由は。彼女しかない。
創薬には多大な時間が要求され。永久の命さえあれば。僕はどんな薬だって開発ができる…
ああ。この欲求。彼女だけで押し留めている欲求。
どうしたら良いものか。
◆
「どうした虎口くん?」
「いいや。何でもないですよ」
場所は焼き鳥屋であり。問うているのは、常連仲間である
僕は。この焼き鳥屋をよく訪れる。ここには鳥のハツの焼き鳥があり。
それを食べてさえいれば。少しは内なる欲求を満たせるからだ。
「いや。明らかに何かある顔じゃんね?」
「そりゃあ。社会人やってりゃ。それなりに悩む事もありますて」
「お姉さんに話してごらんよ?」新藤さんはそう言う。彼女とは長い付き合いになる。たまたまこの店に迷い込んだ僕に絡んできたのが彼女で。なんとなくの関係を数年結んでいる。
「言うほどの事じゃないです」僕は言う。言ったところで理解などしてもらえないはずなのであり。
「話してしまえば楽になると思うけどねえ」
「…事情が絡まり過ぎてる。説明するのが難しい」
「ふぅん?ま。良いけどさ」なんて言いながら彼女はビールを
「新藤さんは…最近フリーランスになったそうで。景気はどうです?」僕は話を振る。僕の方から矛先を
「ん〜?ま。ここに呑みに来ることが出来る位には稼いでる。景気は良くはないけど」
「何してるんでしたっけ?」僕と新藤さんは付き合いは長いが。お互いのプライベートに深く踏み込むような事はしていない。焼き鳥屋での軽い付き合いに留めている。
「何でも屋。オカルトから日常の雑事まで。新藤
「オカルト?」
「ん?話して無かったっけ?」
「ええ。新藤さん。そういう方向にもお詳しい?」
「まあね。家が神道やってるせいで。ある程度は」
「…」僕は考え込む。僕の内なる何かを。彼女ならどうにか出来るかも知れない。出来ないかも知れない。
「どしたの?妙にマジな顔になっちゃって」
「…まあ。色々ありまして」
「…ま。ある程度は察してやることも出来なくはないが」彼女は鶏皮を貪りながら言う。
「どういう事ですか?」僕はハツの串を食べながら問う。
「君がヒトの心臓を喰らいたいって欲求を我慢してる事位は察してやれるというだけの話さ」新藤さんは僕の目を見ながら言う。
「…オカルト。心臓喰らいも
「と言うかね。専門でさえある」彼女は軽々と言い。
「…僕は―」
◆
僕は新藤さんに今までの話をじっくりとする。
彼女はふんふんと話を聴いていて。
あらかた話終えると一言こう言った。
「私にしてやれる事はないよ。虎口くん」
「…僕は一生この欲求と戦っていかねばならないのですか?」僕は絶望する。
「そうだねえ。ヒトでありたいと願うなら。君は戦うべきだろう」
「…欲求に折れそうな僕が居る」
「君はよく戦ってきた方さ。それは専門家だから太鼓判を押せる」
「僕は。彼女を失ってしまえば。あっさりと折れる」
「もし折れて。ヒトを襲ってみろ。即刻私が祓うぞ?」いつものヘラヘラが後退した彼女はシリアスな顔をしている。
「選りに選っての人に相談しちまった」僕は零す。
「…君がこの店に来ちまったのが運の尽きだね」
「ここになら。鳥ハツがある」
「ハート・スナッチャーを呼び寄せる魔の店」新藤さんは冗談めかして言う。
「営業妨害」女将さんが突っ込んでいる。
「
「女将さん用のメニュー?」僕は問う。
「彼女も心臓喰らいのお仲間だよ。そして欲求と戦う者でもある」
「…」僕は。女将さんに感心する。よくあの欲求と戦っているものだ。
「私には愛があるから」女将さんは一言そう言った。
◆
愛があれば欲求を遠ざけられる。
これは陳腐な物言いかも知れないが。厳然たる事実である。
僕はそう思う。僕は藤山葵を愛しているのだ。
改めて確認すると気恥ずかしいものだが。
僕は彼女と同質であり続けたいが為に。心臓を喰らいたいという欲求を抑えてきた。
それは僕なりの愛なのである。せめて。彼女と同質の存在でありたい。
この欲求だけが僕を導いてきた。
それは正しい事だったらしい。新藤さん
そして。僕はそれを続けている限りは。彼女に祓われることはない…
僕はこの先。確実に彼女を失う。
それは分かりきった事だ。
そし彼女を救えない事も分かりきった事だ。
…僕は絶望せずに生きていけるのだろうか?
僕は新藤さんに祓われずに生きていけるのだろうか?
これは難しい問題だ。
僕は葵に依存しすぎている。
ああ。人生はうまくいかない。
◆
そうして。僕が悩みの中に沈んでいる内に葵は亡くなった。
決まっていた未来が来ただけだ。
僕は何も出来ないまま。彼女の死を迎えた。
僕は棺桶に収まる彼女を見て。泣くことが出来なかった。
ただ。深い喪失感が僕を襲い。僕の存在は揺さぶられる。
ああ。内なる欲求に従ってしまいたい。
僕は葬式の間
彼女の死を弔う事も出来ない自分に絶望した…
火葬場を眺める。
彼女は煙になって。天へと登っていく。
彼女の存在はこの世から消えて。
予定通り僕だけが残っている。
今のところは人間に留まっている僕だが。
もう。
もう。生きる道標を失ってしまった。
だから。僕は新藤さんを訪ねる事にする。
もう。生きていたって意味はない。
そして。僕は人を害する可能性が高い。
ならば。先じて祓ってもらうだけだ―
◆
「断る」新藤さんは僕の申し出にそう言った。
「なぜ?僕は折れる事が確定したハート・スナッチャーだ…祓ってはくれまいか?」
「諦めんのが早すぎる」
「もう僕は10年近く。この欲求と戦ってきた」
「たかが10年だ」
「されど10年」
「…あのさあ。心さんを見てみろ。甘ったれた事言うな」
「彼女には愛する人が居る…僕には居ない」
「居なくなったからって彼女を裏切るつもりか?」新藤さんは僕の目を見ながら言う。
「…それは」
「君は。彼女と同質であることを誓ったのだろう?」
「そうだ…でも」
「でもも糞もあるかい。彼女は亡くなった、だが。君は依然として存在している。君は戦わなければならない。最後の日まで」
「最後の日を早送りしても良いだろう?」
「…それを彼女が望むとでも?」
「アンタに。何が分かる」
「分からんね。確かに。私は彼女じゃない。だが。彼女の心境を推し量る事は出来る。彼女は。君に生きる事を望むはずだ」
「…それが僕に課せられる運命だとでも?」
「そう言うね。君は彼女の分も世界を見ろ。欲求に負ける事なく」
「無茶苦茶だ」
「無茶苦茶だよ。私のワガママでもある。私は君に負けて欲しくはない。ただ。それだけだ」
「それだけでこの責苦を生き残れと?」
「…そう。やるだけやってみろよ。今まで頑張ってきた事を無駄にするな」
「…」
「ま。私に言えるのはこれだけだ。後は好きにしろい」
◆
僕は葵が亡くなってから。抜け殻のようになってしまった。
生きる道標を見失ってしまった。
そんな僕は死ぬことを願うが。その申し出は断られた。
僕の中には欲求がある。それは彼女の死を迎える事で
だが。
僕は。この欲求に従ってしまえば。彼女と同質な存在ではなくなってしまう。
いずれ死を迎える存在から外れてしまう。
だから。僕は耐えなければならない。
先に病気から抜けだしてしまった僕は。せめてこのラインだけは死守しなければならない。
この欲求と戦っていくのは一筋縄ではいかない。
だが。僕は居なくなってしまった葵ともう一度出会う為に、この欲求と戦わねばならない。
彼女ともう一度出会いたくば。心臓を喰らうな。
その誓いを胸に秘めて。僕はこの不平等な世界で生きていく。
彼女が見れなかった景色を見る為に。
いつかまた。彼女と同質な存在として出会う為に。
◆
『彼女ともう一度出会いたくば。心臓を喰らうな』 小田舵木 @odakajiki
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