Just a long, empty story.

赤鐘 響

Just a long empty story


「……チッ」

 深夜二時。街は眠りに落ちて、明日に備えているにも関わらず、自身の前で煌々と光を洩らすモニターに向かい、私は舌打ちを唱えた。液晶に表示されている将棋盤の全面には、ご丁寧に誰が見ても分かるように【アナタの負けです】と表示されており、対局画面の下部にある小さなチャットウィンドウには、相手からの挨拶の文言が記されていた。苛立ちながらマウスカーソルを移動させ、私も同じような定型文の挨拶を返送する。

 ふと窓を見ると、手前には間抜けな自分の顔が、奥には密度の濃い闇が、手招きをするかのように静かに佇んでいた。

 視界のピントを反射した間抜け面に合わせる。なんとも度し難く、勝てないのも納得できる顔だ。対局中は、もう少しマシな顔をしていたと信じたい。今度カメラでも設置して、対局中の様子を確認してみようか。無意識に現れる思考中のクセなんかも分かるかもしれない。

 椅子から腰を上げ、街の眠りを妨げぬよう、安物の布切れ同然のカーテンを乱暴に閉めて、モニターに表示されていた投了図を削除する。

 とてもじゃないが、感想戦などする気になれなかった。それほどまでに酷い対局だったから。

「弱いなぁ……」

 一言つぶやき、乱雑するデスクに積み上がっている煙草の箱を手に取って、一本咥えて火をつける。

 先端からゆらゆらと白い煙が細くしなやかに、部屋の中を巡る。背後に設置してある空気清浄機が、自分の出番だと言わんばかりに忙しそうに稼働を始めた。

 深く味わうように一口目の煙をわざとらしくモニターに吹きかける。最近買い替えたばかりのモニターは、当然ながら咳き込む事などせず、青白い光を放つだけであった。

 灰皿代わりに使っている、コーヒーの空き缶に灰を落とすと、何かを入れる事を想定していない、狭い呑み口から幾つかの灰が溢れて、デスクに落ちた。

 私はそれらを掃除することなく、ただ見つめたまま、先程の対局の様子を脳内で振り返っていた。

 感想戦を拒んで、ヤケクソ気味にウィンドウを閉じて煙草をふかしているにも関わらず、脳内で駒を動かしているあたり、私はつくづく将棋が好きなのだと思わされる。

 いや、これは最早呪いと言っても差し支えのないものなのかもしれない。

 大学に入って二年、授業とバイトの往復を繰り返す彩りのない日々に、ささやかな趣味でもと思って将棋に手を出したのが間違いだった。

 まさかここまでハマるとは、一体誰が予想できただろう。

 しかし、大した金もかからず、インターネットが普及した昨今において、それこそ今現在の深夜帯でも誰かと指せる環境がある。人付き合いが得意ではない私にとって、将棋というゲームは非常にマッチした趣味と言えるのではないだろうか。

 ただそのおかげで、私が人と関わる時間は今まで以上に少なくなってしまった。同年代の人で将棋を指している人は少ないし、更に言えば同性、つまり女性の将棋指しもかなり少ない。必然他者との交流の機会も減る。バイト先の人くらいしか、私が気軽に話せる相手は存在しなかった。

 しかし、失うばかりではなく、将棋を始めて私は自分自身の一つの特徴に気がついた。

 それは、私が負けず嫌いだという事だ。

 幼少の頃から薄々感じてはいたが、将棋を始めて私はそれを確信した。まぁそもそも負けず嫌いの人でなければ将棋は続かないと思うが。

 脳内で振り返った対局で、マトモな勝ち筋が見つからず口元から乾いた笑いが出るのと同時に、火をつけた煙草の先端が指元まで迫っているのに気がついた。

「あー……」

 2.3口しか吸っていない煙草を、空き缶の中に詰め込んでポケットからスマートフォンを取り出す。

 同時に振動と共に、一人の人物名が液晶に表示された。

「はい、何でしょう」

 液晶を指でスライドさせて、スマートフォンを耳にあてる。

「早いね」

「丁度スマホを手に取った所でしたから」

「本当?なんだか運命を感じちゃうね」

「……要件は何でしょう」

「冷たいねぇ。先輩に対して失礼じゃないかい?」

「この時間に架けてくる方がよっぽど失礼ですよ」

「はは、そりゃあそうだ。なら失礼ついでにもう一つ。今から家に行ってもいいかい?」

 今すぐ電話をたたっ切ってやりたい衝動を必死で堪えながら、私は「今からですか?」と返した。

「そうだよ。今から。駄目かな?」

「駄目って言ったらどうするんです?」

「そうだねぇ、明日の朝まで路上で過ごすかな。この時期は寒いからねぇ、凍えて死んじゃうかもしれない」

「マンガ喫茶とかに行けばいいじゃないですか」

「またまたぁ、そんなお金があるなら君に電話しないよ」

「……分かりましたよ。今どこですか?どうせならもう迎えにも行きますよ」

「いや、それには及ばないよ」

 電話口からその言葉が聞こえた刹那、軽快なチャイムが室内に響き渡った。

「……来てるんですね、もう」

「そういう事」

 スマートフォンを耳から外して、ベッドに放り投げた後、私は玄関へと足を運んだ。

 真冬の厳しい寒さで、氷のように冷たくなっているドアノブを回してドアを開けと、分厚いコートに身を包み、赤面した先輩が小さく蹲っていた。

「どうぞ」

「どうも~」

 先輩はそう言って、ショートブーツを脱いで、実に軽やかな足取りで室内へと向かう。その遠慮という言葉を母体に置いてきたかのような振る舞いに、私はため息を付くことしかできなかった。

 廊下兼台所に置いてある小ぶりの冷蔵庫から、自分と先輩の分のミネラルウォーターを取り出して、私も自室へと向かう。

「いやぁ、本当に助かったよ。ありがとうね」

 私が先程まで座っていた椅子に腰をかけて、先輩は優しく微笑んだ。いつの間にか着ていたコートも脱いでおり、床に直接置いてあった。私はそれを拾うことなく、コートの横に腰を下ろした。たった数秒で、これほどまでの傍若無人っぷりを発揮できるのは、最早才能ではないだろうか。

「こんな時間まで飲んでたんですか?」

「まぁね」

 私の手からミネラルウォーターを受け取り、キャップを外した後、先輩はそれを口元で傾けた。

「よくもまぁこんな時間まで一人で飲めますね」

「一人とは限らないだろう?」

「いいですよそんな見栄。いつも一人で飲んでるじゃないですか」

「残念、今日は一人じゃないよ」

「誰と飲んでたんです?」

「ん?男友達」

「そうですか。というか一人で飲んでなかったのであれば、そのお友達の家に行けばよかったじゃないですか」

「私あまり人の家に泊まりたくないんだよね」

「よくこの状況でそれが言えますね」

「君はいいの。特別なんだよ、君は」

「そうですか」

 私が返すと、先輩は椅子の上であぐらをかいて、溶けるような瞳をこちらに向けながら「だから許してね」と言った。

 特別だなんて言われると、存外悪い気はしない。

 と、思うあたり私は案外チョロい性格なのかもしれない。

 とは言え、独特の雰囲気を纏う彼女に、微酔して赤面した状態でそう言われると、誰だって大抵のことは許してしまうのではないだろうか。そう、深夜に突然押しかけてくるような破天荒さえも。

 掴みどころのない人だなぁとは思う。

 この人は私が今バイトとして勤めている喫茶店で、先に働いている。年は私のひとつ上で、私とは違い大学生というわけではないらしい。まぁ所謂フリーターというやつなのだろう。入社して一番最初に仕事を教わったのが彼女だったが、ずっと今のように終始飄々としていた。付き合いは1年と半年くらいで、決して短い訳ではないが、未だに私は彼女の事がよく分からないでいた。

「ところで」

 少しだけ中身の減ったペットボトルを、片手で遊ばせながら、先輩は座ったまま椅子をクルクルと回す。

「突然押しかけた私が言うのもなんだけど、こんな時間まで何をしてたの?」

 先輩からの何の気ない世間話の切り出しに、私は「まぁ、色々と」と当たり障りのない返事をした。

 人付き合いが上手くいかないのは、こういう部分が起因しているのかもしれない。無理やり押しかけてきたとは言え、先輩自ら話題を提供してくれているのに、こんな返事をしてしまう自分に少しだけ嫌気が差した。

 でもまぁ、バカ正直に「将棋で負けて煙草ふかしてました」と言っても、それはそれで会話が途切れるだろう。リアクションに困る返答だ。

「全く……少し位話題に乗ってくれてもいいのに。それとも人に言えない事でもしていたのかな?」

「別にそういう訳では……」

「冗談だよ、そんな顔するな。別に深入りする気はないよ」

 ほんの少しだけ寂しそうな目をした彼女を見て、私はつい「将棋」と口にしてしまった。

「ん?」

「将棋です、将棋。実は私将棋が好きで、さっきまで指してたんです。そのパソコンで。すみません、面白くない回答で」

 少々早口でそう伝えた私の言葉に対する彼女のリアクションは、予想とは遥かに異なるものだった。

「へぇいいね。私も好きだよ、将棋」

 突然の申し出に対し、私は驚きを隠せなかった。

「え?先輩将棋指せるんですか?」

「うん、少しだけね」

「どこで将棋を?」

「小さい頃おじいちゃんに教わった。今もたまにおじいちゃんとやるよ」

「そうだったんですか」

 私の返答に対し、先輩は笑いながら「意外だったかい?」と聞いた。僅かに頭を縦に振って肯定する。

「前から思っていたんだが、君は少々物事を固く捉えている節があるね」

「どういうことです?」

「んー、◯◯さんはこれをしない、◯◯さんはあれをしない、◯◯さんはこれをしてそう、◯◯さんはあれをしてそう、とかそういうやつ」

「偏見って事ですか?」

「偏見って言うと少し違うかもね。けどまぁそれに近いよ。先入観と言ったほうが分かりやすいかもね。相手に対し、自分の中で人物像を作りすぎている。それは面白みに欠けるのさ」

 両手の人差し指でバツを作りながら、先輩ははにかんだ。

「君の中で私は将棋をする人じゃないって決まっていたんだろう?」

「……かもしれません」

 私の小さな声に対し、先輩は自身の頬を軽く叩き「ごめん」と言った。

「酔ってるとダメだね。なんか説教っぽい事言っちゃったよ。君を否定しているわけじゃないから、気を悪くしないでくれ」

 先輩の謝罪に対し、「大丈夫です」と返事はしたが、先輩の言う通りかもしれない。私が人と関わるのが苦手なのは、それに起因しているのだろう。

 他者への決めつけ、余計な先入観を持っているが故に、踏み込まれないよう壁を作り、自身もまた踏み込まないよう足を竦ませているのだ。

 そういう意味では、彼女のような性格は羨ましかったりもする。

「まぁそこが君の良いところでもあるんだけどね。そうだ、折角だから将棋やろうよ。これ入ってる?」

 明らかに気を使った提案をしながら、先輩は将棋のアプリが表示されたスマートフォンをこちらに向けた。

「是非」

 急いで私は立ち上がり、ベッドに転がっていた端末を拾い上げた。無論、同じアプリは既に私の端末にも入っていたので、先輩のアカウントIDを入力し、対局の文字をタップした。

「お手柔らかに頼むよー」

「こちらこそ、よろしくお願いします」



 10分ほど経っただろうか。

 手心というか手加減と言うか、忖度と言うか。どう表現したらいいのか分からないが、ただ一つ確かなのは、先輩が後輩の為にわざと負けてあげるような事をする気は一切ないという事だった。

 もっとも、手加減された所で私がそれを勝利だと認めない性格なのを分かってそうしたのかもしれないが。それにしても、もう少し、それこそお手を柔らかくしてくれてもよかったのではないかと思えるほど、一方的な勝負だった。

「負けました」

 私は頭を下げた。

 私自身、自分が強いと思っている訳では無いが、決して弱くもないと自負していた。趣味とは言え2年以上やっているし、勉強もそれなりにしている。持ち時間の違いこそあれ、調子が良ければ負けない日だってあった。

 ここまで一方的に、蹂躙と呼んでも差し支えない負け方をしたのは初めてだった。

 これも先入観が災いしたのかもしれない。

 先輩はおじいさんとたまに指しているだけ、なら精々ルールを知っているくらいのレベルだろうと、自分の中で勝手に決めつけていたのかもしれない。

 つい先程、指摘されたばかりにも関わらず。

 舌の根も乾かぬうちにとはまさにこの事だ。

「久しぶりにやると楽しいねぇ」

「……もう一回お願いできますか」

「ふふっ、いいよ、やろうか」

 先輩はすんなりと再戦に応じてくれた。

 私は先程の対局を踏まえ、さっき以上に集中して対局に臨んだ。

 が、まぁ結果は誰もが分かる通りであった。

「もう一回」

「いいよ」

 敗北

「もう一回」

「いいよ」

 敗北


 右を見ろと言われたから右を見る。左を見ろと言われたから左を見る。ひたすら先輩の手のひらの上で踊らされ続け、街が目覚める時間だと気づいたのは、丁度10個目の黒星が刻まれた頃だった。

「……宿泊代は払えたかな?」

 呆然と時計を見つめている私に、先輩から声がかかる。

「充分です。すみません」

「いやいや、私も楽しませて貰ったよ。君の知らない一面も見れたし満足さ」

 途端に恥ずかしさが込み上げ、私は思わず顔を伏せた。しかし、折角伏せた顔は、直後の先輩の提案で、直ぐに上げることになる。

「ねぇ、海行こうよ」

「はい?」

「いや、だから海行こう、朝日がキレイに見えると思うんだよね」

「今から行くんですか?」

「だからそう言ってるじゃない」

「どうやって」

「そりゃあ車だよ。15分くらい走れば着くでしょ?」

「誰が運転するんです」

「さっきからおかしな事を聞くね。今この場には私達しかいなくて、免許と車を持っているのは君だけだよ」

「徹夜してるんですけど」

「今なら交通量も少ないから平気だよ。それに寝かせてくれなかったのは君じゃないか」

「変な言い方しないでください」

 まぁ確かにムキになって挑み続けた結果、徹夜を先輩にも強いてしまったのは私の責任である。

「ね、行こうよ」

「……分かりました。将棋に付き合ってもらいましたから、私も付き合います」

 そう返答しながら、内心家に上がらせてあげたのだから、将棋に突き合わせた事はそれでトントンになるんじゃないか?と思ったが、あえて口には出さなかった。

「よし!じゃあ行こう」

 勢いよく椅子から立ち上がり、先輩は床のコートを拾って羽織る。パタパタと愉快な足音を鳴らせながら玄関に向かう様は、まるで遊園地に向かう子供の様だった。

「着替えるので少し待ってください」

 玄関に向かってそう言うと、「駐車場で待ってるー」と声だけが帰ってきた。

 先輩を待たせないよう、私はできるだけ早く着替えを済ませ、厚手のコートを体に纏わせた。

 幸い、対局続きで目も頭も冴えてはいたが、私は一応冷蔵庫からエナジードリンクを一缶取り出して、先輩の後を追うように玄関を出る。

「君の車に乗るのも久しぶりだ」

 私が外に出ると、駐車場で待機していた先輩が、白い息を吐き出した。

 ポケットに鍵を突っ込んだまま、指先で電子キーのボタンを押す。車体が黄色い光を点滅させると同時に、先輩が助手席へ乗り込んだ。



 人通りは少なく、まだ少し微睡んでいる街をしばらく走り、浜辺の見える堤防沿いに車を停めた。

 道中では延々話続ける先輩の言葉に、時折エナジードリンクで喉を潤しながら相槌を打っていたのもあり、徹夜明けとは思えないほど快適に運転ができた。

「さぁ行こう」

 そう言って助手席から先輩が飛び出す。

 私も絶対に来ないであろう後続車に気を配りながら、運転席から外へと身を出した。

「綺麗だね」

 呟く先輩の前方には、黎明の鮮やかな光がゆったりと膨らんだ青を鋭く突き刺しており、直後朝風に誘われた潮の香りが鼻孔をくすぐった。

 自分の良く知る夏の海とは違い、浮遊物もなく、喧騒とは程遠い静かで美しい別の姿が、そこにはあった。

「そうですね」

 初めて生で目にする、海岸の朝日の美しさを表現する語彙力を持ち合わせていない私は、ただ先輩の言葉に肯定する以外なかった。

「折角だし少し歩こうよ」

「汚れますよ」

「後で拭けばいいさ」

 ブーツの踵を鳴らしながら、進む先輩の後ろを、私も追随する。

 なめらかなでもあり、重量感もある堤防の斜面を下ると、柔らかい砂の感触が足の裏に伝わった。

 「ついておいで」と言わんばかりの、先輩が無言で残す力強い足跡を辿り、私は彼女の背中と、近づくにつれ輝きを増す海面を眺めた。

 辺りには二人の足音と、心地の良い波の音だけが響いており、まるで世界に二人だけしかいないように思えた。

「さぁ、帰ろうか」

 海水の当たらない部分を、海面と平行にしばらく歩いた後、先輩が口を開く。

「もう帰るんですか?」

 乗り気ではなかったくせに、いざ来ると今度は名残惜しく感じる自分がいた。

「泳ぎたかった?」

 背中をこちらに向けたまま、先輩は問う。

「死にますよ」

「意外と大丈夫かもよ?寒中水泳なんて言葉があるくらいだし」

「試してみます?」

「いや、辞めておこう」

 車の方向へ歩きながら、先輩は手のひらを振る。

「そうだ、折角だしどこか喫茶店にでも寄って朝食を食べていかないかい?」

「……そのお金は誰が出すんです?」

「私が払うよ」

「漫画喫茶に行くお金もないって言ってませんでしたっけ?」

 私が嫌味っぽく言うと、先輩は足を止めて、顔だけをこちらに振り向かせた。

「そんなの口実に決まってるだろう?」

 私は笑った。

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