泡沫の自由

独一焔

こぽこぽ

「存外腐らないものだな」、と思った。

 いつものようにがりがりと爪で引っ掻いてみるが、木造の格子はびくともしない。

 吐いたため息は、水の泡となって上って消えた。


 場所は精蓮せいれん村、水深150メートル。

 もういつの事だか分からない昔に、ダムの奥底へと沈んだ廃村である。


 村には、とある言い伝えがあった。

 大雨の夜に産まれた男児に魚の切り身だけを与えて育てると、その男児は村に永遠の繁栄をもたらす『人魚』になるという。


 格子に──座敷牢に囚われた青年は、そうやって人魚だ。

 上半身こそ人間の男そのものだが、下半身は二本の脚の代わりに、巨大な魚の尾がついている。

 鱗の色は血の如き緋色だが、灯り一つない水中の牢の中では分からないだろう。

 ……どのみち、人魚には『色』という言葉も分からないのだが。


 人魚には人としての名は無い。周囲の人間達からは、『人魚様』と呼ばれていた。

 物心つくかつかないかの頃は確かに人間の脚があったはずだが、五つになる頃には今のような尾になっていた。

 人魚はその頃から大人と同じように考える頭はあったものの、人魚にそれを教える人間はいなかったので、人魚は今も難しい事をあまり考えられない。


 ただ水中の牢に囚われながら、「退屈だ、退屈だ」とぷかぷか不満じみた泡を毎日漏らすだけだった。


 こうなる前、村がダムの奥底へ沈んでしまう前までは、人魚は退屈ではなかった。

 人間達は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるし、魚の切り身を捧げてくれる。

 人魚にもできる手遊びも教えてくれたし、外にあるという綺麗な石を見せてくれる事だってあった。


 だが、今はどうだ?


 良い事と言えば、あの窮屈な水槽が必要なくなった事くらいだ。

 水中でも呼吸はできるし、腹も全然減らないが、退屈だけはどうしようもない。


 嗚呼、せめてこの格子さえなければ!


 どうして、人間達は人魚を置いていったのか。

 新しい村に水槽は邪魔だったのだろうか? ──人魚は、邪魔だったのだろうか?


 初めは寂しさのあまり泣いた日だってあったが、どれだけ涙を流しても意味がないと分かってからは止めた。


 今の人魚の望みは、格子から出て自由に泳ぐ事だけだ。

 それさえできれば、何の文句も無い。


 外に、外に、外に、外に、外に、格子の外に!


 この憎々しい格子を出て、思うがままに泳げたなら!!


 格子を掴んで揺さぶろうが、人魚の細腕では外れるはずもない。

 ……これも、結局はいつもの事。

「もう寝てしまおう」、と人魚は格子に背を向けた。

 眠っている間は、あの頃の夢が見られるから。


 目を閉じようとした、瞬間。



 こぽこぽ、こぽこぽ。



 自分以外の泡の音が聞こえる。


 人魚は驚いて、いつもより大きな泡を吐き出した。

 慌てて格子から顔を出さんばかりに目を凝らすと、



 格子の外に、人魚がいた。



 人魚の胸の辺りが早鐘を打つ。

 その人魚は枯れ枝のような自分と違って肉付きが良かったし、鱗だって一枚一枚が輝いていた。

 悠々と泳ぐ姿は、正に自由そのものだ。


 初めて出会った、自分以外の人魚!


 どうして来たのだろう、どうやって来たのだろう、どこから来たのだろう!?


 聞きたい事が多すぎて、言葉よりも先に泡ばかりが出る始末。

 それをくすりと笑われて、人魚は何故か顔が真っ赤になった。


「覚えてる?」、ともう一人の人魚が問いかけの泡を投げかける。


 人魚はしばし首を傾げたが、やがて「嗚呼!」、と気づきの泡を出した。


 もう、いつの事かも分からないけれど。

 一度、村の外から──人魚にとって格子の向こうは全て『外』だが──来たという人間と会った事がある。


 人間は人魚を見て大層驚いたあと、色々と騒いでいた。

 外の人間の言葉は全然分からなかったので、ただ「姦しい人間だな」、としか思えなかったが。


 よく見れば、人魚はその時の人間と同じ顔をしていた。


「迎えに来たよ」


 外の人魚の泡が届く。


「迎え?」


「そう。今出してあげる」


 外の人魚は、首から下げた鍵で格子の錠を開けた。

 扉を開き、人魚に手を伸ばす。


 人魚はおそるおそるその手を取って、生まれて初めて格子の外へ出た。


 かつてない胸の高鳴りと共に、二人で地下を抜け、上に建っていた倉を抜け、外へ出る。


 まるで、空を飛ぶように、軽やかに。


 尾を絡ませながら、二人の人魚は村を泳いだ。


 頭上からは鈍い光が降り注いでいる。


 人魚は思うがまま、今までの鬱憤を晴らすように泳いだ。

 どんなに速く泳いでも外の人魚はついてきてくれて、人魚にはそれが嬉しかった。


 しばらく泳ぎ続けて、ようやく人魚にも疲れが見え始めた頃。


「上で村の人達が待ってるよ」、と外の人魚が人魚の手を引っ張った。


 しかし、その笑顔はどこか硬い。


 それでも、「もう一度皆に会えるなら」、と人魚は従った。


 二人の人魚が、泡と一緒に上へ上へと上っていく。


 握った手がわずかに震えている気もしたが、外の世界への興味の方が勝ったので、人魚はそれを指摘しなかった。


 水面を突き抜け、顔を出す。


 眩しさに目が潰れそうになって、人魚はしばらく目蓋を開けられなかった。


 何も見えない中、外の人魚の声と、他の人間の声が聞こえる。



「こっ、これで……、これで、僕を食べずにいてくれるんですよね!? ほら……、ちゃんと連れてきたんですから! ですよねっ、ねっ!?」


「ああ、約束は果たすとも。よくぞ人魚様をここまで連れてきてくれた。安心しろ」


「──お前を喰うのは、次だ」


「……あ、あぁああ、あぁ……!!」



 外の人魚が泣いている。どうしてだろうか?



 



 やはり、外の人間は分からない。

 村人達にうやうやしく水揚げされながら、人魚はただ不思議に思った。


 話によると、最後のおつとめは七日後になるらしい。

 あの水は汚れているから、まずはその汚れを落とさないと美味しくならないのだと言う。


 動く鉄の箱の中、窮屈な水槽に入れられて運ばれる。

 新しい村で、またあの日々が始まるのだろう。


(──嗚呼、だけど)


 人魚は疲れから来る眠気に身を委ねながら、ぼんやりと数刻前の自由を回顧した。


(あれが最後になるのなら、もう少しだけ泳いでいたかった──)



 旧精蓮村、水深150メートル。

 そこにはもう、何もいない。

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泡沫の自由 独一焔 @dokuitu

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