五.
葵は再び、あの男の家の前に立っていた。
胸が早鐘を打ち、緊張で汗が頬を伝い全身が震える。
胸元にある勾玉を硬く握り締め、逸る心を落ち着かせる為に深呼吸をして中に入る。
男はリビングで椅子に座ってパソコンに向かい合っていた。
どうやら今この家にはこの男しかいないらしい。
葵の鼓動に合わせて勾玉がドクンドクンと脈打ち始めた。
やるなら、今なんだろう。
背後に立って見下ろす。
あの時どれほど手を伸ばしても届かなかった相手がいる。
勾玉が漆黒の短刀に姿を変える。
柄を握る手に汗が滲み、息が乱れる。
振り下ろせばこの男は死ぬ。人生をめちゃくちゃにした男に復讐できる。
「お前なんか……死んでしまえばっ……!!」
叫びながら振り上げた短刀は、男の心臓めがけて振り下ろされ───
カランッ。
突き刺さる直前に、葵の手から滑り落ちた
。
男は気付いた様子もなく画面に目を向けたままだ。
「……っ。でき……ないっ……」
会ったら絶対に殺してやろうと思っていたのに。
葵の目から大粒の涙が溢れだし、床へ落ちていく。
拭うことも忘れ、ただ立ち竦む葵。
今殺したら、あの乳児の父親がいなくなる。
赤ちゃんもその母親にも罪はないのに。私怨で関係ない二人を不幸にすることになる。
感情に支配されるがままに人を殺してしまった池波と、同じ道を辿る。
池波の記憶の中で体験したことを、今度は自分が自らやろうとしたことに気付き背筋が凍る。
感情に支配されて、考えることもせずに。
もし、殺せば葵の大好きな家族を裏切ることになるのに。
アオも天音も姿は見せないし、何も言わない。
キーボードを打つ音と、葵のもらす声にならない嗚咽だけが室内に響く。
『殺すことによる復讐は何も生まない』
祖父の言葉が頭の中を駆け巡る。
未だに怒りの感情も、恨みの感情もある。
それでも再び、短刀を手に取ることが出来なかった。
短刀が勾玉の姿に戻る。
これでもう二度と、目の前の男を自分の手で制裁することが出来なくなった。
「……ごめ……なさい」
何に対する謝罪なのか自分でも分からなかった。
落ちていた勾玉を拾い上げ、走って家を出ていく。
その家にはもう行きたくなくて。
辛くて、苦しくて、でもどうすればいいのか分からずに走った。
走って、走って。
結局行き場所が思いつかず、近くにあった見知らぬ公園のベンチに座った。
木が多く植えられているその公園は手入れがあまりされていないのか、雑草が生い茂り寂れた感じだ。
「どうしよう……これから」
黒緋に何も言わずに出てきてしまった。
二日前に勾玉を渡された後から、彼を見ていない。
連絡も取り合っていない状態だ。
黒緋の家に行く事に躊躇いを覚える。
本当に、自分の選択肢が正しかったのか分からない。
色々な考えがぐるぐるとまわって纏まらないまま、項垂れる。
こんな憂鬱な気持ちなのにお腹は減るのか。
自分の腹の虫が小さく鳴いたのが聞こえ、葵は乾いた笑みを浮かべる。
そういえばこの二日間、塞ぎ込んでいたため食欲が湧かずまともに食べていなかったことを思い出す。
着の身着のままに出てきてしまったため、買うことも出来ない。
自分の中の大部分を占めていた感情が行き場を失い、虚しさに変わる。
「───おや、お腹空いてるんですか?じゃあちょうど良かった。どうぞ、暁月の作ったおにぎりです。いやぁ、らっぷ?っていうのは便利でいいですね」
そう言われたと同時に、俯いていた葵の前にラップに包まれたおにぎりが差し出される。
まさかと驚愕で目を見開き、ゆっくりと顔を上げる。
「本当に……びっくりしましたよ。何も言わずに姿を消して。でも───よく、乗り越えたね」
動くことが出来ない葵の頭を撫でながらたった一言。
だけど、それだけで充分だった。
胸が熱くなって止まっていた涙が再び溢れる。
泣くことでしか気持ちを落ち着かせることが出来ない。
「泣き虫だね、君は。ほら、とりあえずおにぎり食べなさい」
葵の隣に黒緋が腰をおろす。
促されるがままにおにぎりに葵は齧り付く。
「美味しい……」
思わず笑みがこぼれる。
具材はサケとツナマヨ。ほのかに柚子胡椒が効いておりそれがまた美味しくて。夢中で食べた。
そこそこの大きさがあった為、胃が一つで満たされる。
「良かった。全く、心配したんですよ?私も、暁月も───『あの人』も」
「『あの人』……?」
「貴方に合わせたかったもう一人。───暁月、もういいですよ」
「ようやくかよ……揃いも揃ってお前らは……。それと、今にも飛び出しそうだったからとりあえず鬼灯の中に入ってもらってたわ……」
暁月がベンチの少し横に植えてある木々の間から姿を見せた。
渋面を作った暁月が「ほら」と淡く光る鬼灯の一つに触れる。
赤い提灯のような萼がくがゆっくりと開き、中から魂が出てきて葵と黒緋の前で停る。
そして徐々に魂が形を変え、人の形となり
「───葵っ!!」
勢いよく抱きつかれた。
ドンッと背中がベンチに打ち付けられる痛みすら気にならないほどの衝撃。
その人物はぎゅっと抱き締めたあと、身体を起こし葵の頬を両手で挟み込むように触れる。
ようやく見えたその人の姿に、葵は我が目を疑った。
「……お母さん?」
「うん、久しぶりね葵。びっくりした?」
にっこりと笑う母は、葵の記憶の中にある元気な頃と同じだった。
「今回の迎魂対象の名前は津長律───貴方の母親だったんです。ずっと生前の貴方の傍に居たんですよ。葵が死んだあとは貴方の祖父母の様子を見ていて」
「だって、心配だったから。おばあちゃん達も、葵も。あんなことがあったから、離れるに離れられなくて。だから私の前に現れた黒緋さん達に頼んだんだ。せめて、葵がどうするのか、最後に見届けさせてって。そうじゃなきゃ意地でも動かないって」
「家の方でも一人で災難から家族を守ってたからな。凄いよ、お前の母親は」
昔からそうだった。一度決めたら絶対に最後までやろうとする人。警察だった母は正義感が強くて、かっこよくて葵の憧れだった。
ずっと家族を守ってくれていたんだ。
「やっぱり……凄いなお母さんは。俺は……守れなかった……。ばあちゃん達も田邊さんも……」
「確かに、結果だけを見るならそうだけど。でもね葵、葵のやった事はとても凄いこと。だからあまり自分を責めないで。大丈夫、そこのこわーい鬼さん達が、葵達の分までちゃんと罰を与えてくれるから。それこそ何倍も。そうでしょう?」
「お、おう……」
立ち上がり暁月と黒緋を見た律は満面の笑みだ。だが、その笑顔が怖い。向けられた暁月が僅かにたじろぐ程に。
言外に絶対にやらないと許さないと言っているようだ。
「勿論。犯人にも、それに手を貸した者たちにも、必ずもう消えたいと思うほどの地獄を用意しておきましょう。消えることの無い罪には終わることの無い罰を。───私達はその為に居るのだから」
「貴方が言うなら安心。ちょっと怖いぐらいだけど。じゃあ、私もそろそろ行かなきゃ。お願いしますね、黒緋さん」
「───任せてください」
「え……」
思わず立ち上がり、手を伸ばしてしまう。
また、会えなくなるのか。
せっかく会えたのに。いっぱい話したいことがあるのに。
律は寂しげに笑いながら、それでも最後に再び抱き締め、
「あまり長くいると離れたく無くなっちゃう。でも、それは駄目だから。───大きくなった葵に会えて、話せて良かった」
「───うん、俺も」
「送ってきますね」
それだけなんとか言って、黒緋と律を見送った。
「俺は帰るが、お前はどうする?」
「───帰ります、地獄の一丁目に。黒緋さん、家に居させてくれるかな」
「怖いんじゃなかったのか?」
「確かに時々怖いですが、やっぱり黒緋さんの近くにいたいです」
「むしろ居てくれ、じゃないと家が悲惨なことになる。たまに片付けに行くとやばいんだよあいつの家。お前が居てくれるなら負担が減る」
暁月の言葉に葵は声を出して笑う。
「ああ、そうだ。黒緋が渡した勾玉、持っていろ。御守りだから」
「そうなんですか?」
「その勾玉の石は黒瑪瑙。悪運や邪気から守ってくれるのと、もう一つ。意思や信念を強めて、やり抜く力をくれるんだとさ」
「じゃあ───大事にします」
握りしめた勾玉は、じんわりと温かくてそれが黒緋の優しさに感じた。
***
今日も誰かが地獄へと行く。
犯した罪を償い、穢れを払い、転生出来るように。
そんな地獄にある一丁目で今日も甘い香りが漂う。
「───またホットケーキですか……?」
「いいじゃないか。暁月のところだと食べれなかったんだから」
黒緋のあっけらかんとした態度に、葵はため息を着く。
「───やっぱり暁月さんのところに行こうかな……」
「暁月の所だと辛いものばかりになるよ?あとぬいぐるみに溢れてる」
「……明日は俺が作ります……」
「それは嬉しいね。───おや、仕事だ。葵行けるかい?」
「行けますよ」
今日も葵は獄卒として働く。
以前よりもやり甲斐を感じながら。
ここは地獄。 咎人が落ちる場所。
───地獄で今でも待っている。
堕獄罪科 南雲紫苑 @makokinoko
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