檻の中

野村絽麻子

牢にて

 地下へと通じる階段は重そうな扉で閉ざされていた。鈍色の金属製。おそらく真鍮か何かだろう。扉の表面には数枚の札が貼られており、またそれ以上に、貼られていた札を剥がした後が幾つも重なって見えていた。蝶番のあたりには青緑の錆を浮かべており、長い年月を経てなおもここに立ち尽くしているのだと伺える。

 観音開きの戸に近寄ると、母屋から持ち出した燭台の上で短くなった蝋燭の炎が揺らめいたので、どうやら空気の流れがあるらしい。反対の手に握り締めてきた冗談みたいな形の古めかしい鍵を見る。大仰な鍵穴に差し込んで回すと、カチリ、と金属音がして風の流れが少し広がった気がした。それはまるでこの中に閉じ込められている何者かが吐いた溜息のようで、不安を掻き消すように掌に力を込めて押し開いた。

 わずかに紙の千切れる感触がして、札の残骸がはらりと足下に散る。


 ごお……ん……


 鈍い咆哮のような音がした。埃混じりの生温い塊が鼻先を撫でて、僕は生唾を飲み込んだ。


 ひとつ、蝋燭は指の一節よりも短いものを使うこと。

 ひとつ、髪、肌、目の色を覚えたら直ぐに引き返すこと。

 ひとつ、その者と言葉を交わさないこと。

 ひとつ、決して振り返らないこと。

 最後に、確かに施錠をしたら新たな札で封をすること。


 祖父の言いつけは五つ。もう次は迎えられないからと役目を引き継がれたものの、それまでこんな役目があることすら知らずにいた。どこか悔しそうに口許の黒子を歪める祖父は、すまない、すまない、と繰り返して言うばかりで、もはや断るという選択肢も思いつけないまま、間も無く祖父は他界した。

 不揃いな土の階段を降りる。このまま崩れてしまったらどうしようかという思いを抱きながら、しかし足は順調に地下を目指して降りていく。進むたび何かの匂いが濃くなる。水の匂いのような。土の匂いかも知れない。しんとした壁に反響する足音が途切れた時、目の前に現れたのは大袈裟な鉄格子だった。

 ほとんど腕くらいの太さのある格子で作られた壁の奥には、人影があった。


「……、」


 誰かいるの、と呼びかけそうになって慌てて口を閉じた。言葉を交わさないこと。そう言われていたのだった。無言のまま燭台を少し高く掲げてみる。ごそ、と何かがみじろぎした。


「もうそげん年か」


 掠れた低い声。この檻の向こうに人が居るのだ。「その者と言葉を交わさないこと」と言われた時点でその場所に誰かがいる事は分かっていた。燭台の灯に薄っすら照らされた男は年齢不詳だった。

 年老いている訳ではなく、少年でもない。それくらいしか分からなかった。男は総白髪の下に浅黒い肌をしているが、幾らか張りがあるように見える。そこへ不思議に人の良さそうな笑みを浮かべて、口を開いた。


「ほぅ、おまんは新か当番ね」


 言葉を交わすなとは言われているが、耳を貸すなとは言われていなかったので、じっくりと男を観察する。伸ばし放題伸びている髪の奥、顔の堀は深い。口元の皺が見える。


「ほいたら、あん男はどうしたと?」


 あの男、とはきっと祖父を指しているのだろう。にぃと吊り上げられた口の端。乾いた唇のめくれた薄皮までを視界に捉える。その口許にはどこかで見たような黒子がひとつ貼り付いていた。


「死んだぁか、居のぅなったか?」


 くくく、と男は肩を揺らした。何がそんなに楽しいのか。いつの間にか、祖父の家の蔵の下などに座敷牢なんて物があって、そこにこの男が存在している事を、僕は受け入れ始めている。


 男はぽつり、ぽつり、と言葉をこぼすように語り始める。昔、この辺りはよくある寒村で、旅の者を迎え入れて宿と飯を与える代わりに、村の女衆の相手をさせていた。人口が減り血が濃くなった村にはよくある習慣で、決して珍しい話ではない。

 ただこの村が他所と異なるのは、旅人を数ヶ月に渡り逗留させていたことだった。逗留と言えば聞こえは良いが、早い話が監禁だ。日も差し込まない村奥の座敷牢に留め置かれた旅人は、そのうち気がふれてしまう。それを贄として土地神様に捧げていたというから業の深い話だ。

 ある新緑の頃、ひとりの旅の者がこの村を訪れた。村人はいつもの手筈でひとしきりその男をもてなすと、常の通り座敷牢に監禁した。男は村の者に従順で、薄ら笑いを浮かべたまま座敷牢に居着いた。特に反抗する様子も見せず、帰りたいとも出して欲しいとも言い出さず、村の者も終いには気味悪がって座敷牢への扉を閉ざしてしまった。

 夏の頃、村人が様子を伺うと男は相変わらずへらりと笑ったままだった。再び扉は閉ざされた。冬、さすがにくたばっただろうと牢を覗けば、やはり男は薄ら笑いのまま。さすがにこれは妖の仕業だと気付いた村人たちは、持ち回りで当番を決めて数年毎に座敷牢の様子を伺う事にした。


 ……村人は身勝手やと? そりゃほうよ。貧しい時代やと言うたかて、ほんな自分らの都合のえいようにばかりしとったら、土地神様かて怒りゆう。わかるじゃろ?


 村人は座敷牢を覗く。その男は村人の父の顔で、声で、話した。恐ろしくなって扉を閉じて、しばらくしてまた覗きに行く。すると今度は自分と同じ顔で、同じ声で喋りかけてくる。

 じゃけえ、そん妖に会う時には、声を出したらいけんのよ。ほうじゃなけりゃ、同じ顔、同じ声で、どちらが本物かようわからんくなるからのぅ。それからなぁ、なんで短い蝋燭を使いゆうか、わかるがか? 長居すればする程、酷似するからじゃ。ほうよ、おまんと俺がなぁ。はははは。ほぅれ、灯ぃが消えんうちに戻らな。あははははは。



✳︎


 それから僕は無我夢中でその座敷牢のある蔵から抜け出て、母屋の客間に飛び込んだ。正確には、布団の中に。もう怖くて怖くて仕方がなくて。今にもあの男がすぐ側に立っていて、あの薄ら笑いで僕を見下ろしているんじゃないかと、不安で堪らなかった。

 ようやく落ち着いてきた頃には、東の端からぼんやりと空が明るくなっていた。その時になってやっと僕は自分の失態に気がつく。守れてないんだ、言いつけを。そう、最後。施錠をして、新しい札で封をする。施錠をしたかは怪しいし、新しい札に至っては確実に貼れていない。何故なら、僕の服のポケットからそれらが出てきたのだから。

 それで僕はいま、情けないけど君にメールを打っている。どうか、僕によく似た顔の男が君を訪ねても、そいつの言うことを信用しないで欲しい。もしそいつが土佐弁のような言葉を喋っていたら、必ず、速やかに、そいつから距離を取ってくれ。頼む。



✳︎


 という趣旨のメールが届いたと言ったら、そいつは顔の前でぴらぴらと手を振った。何しろ、メールの差出人、張本人だ。

 ははは。

 乾いた笑いが俺の喉からまろび出る。まさか、まさかな。悪い冗談。はははは。ははは。


「ほうよ、悪か冗談じゃ」

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