今はもう誰も【実験作5】

カイ.智水

今はもう誰も

 誰しも数えきれない思い出とともに、忘れたくない人がいる。


 高木誠也は日が暮れるのをコーヒーチェーン店の窓際の席からぼんやりと眺めている。

 すると、今まで曇ってぐずついていた空からにわかに雨のしずくがパラパラとひさしに当たる音が聞こえてきた。

 天気予報によれば、今日は夕方から大荒れになるとのことだった。


 その音に気づいたのか、店の出入り口に向かう人がやにわに増えていく。

 振り返ってその様子を見つめているうちにみるみる雨音は強まり、大半の客が帰って小さなBGMをはっきりと聞き取れるまでに静かになった。


 あいにく今日は傘を持ち忘れていて、雨宿りのつもりでこのまま腰を落ち着けようか。しかし深夜にかけて雨は強くなる予報だったはずだ。

 雨があがるのを待っていたら、おそらく日をまたいでしまうだろう。となれば、いつかは雨に打たれて帰宅しなければならない。

 そんな境遇に陥ったとき、ふと懐かしい記憶が蘇った。



「いつかは別れなきゃいけないのなら、今でいいかな」


 大学生だったあの日、国松まさみから突然切り出された言葉を、今でも鮮明に憶えている。

 誠也は結婚まで意識して真剣にお付き合いをしていたのだが、彼女から突きつけられたのは最後通告だった。


「いや、僕にはまさみしかいないんだ。これまでもそうだし、これからだってずっとそうだ」


 しかしまさみが別離を求めてきた事実は変えようがない。

 これまで少しでも別れたいという気持ちがにじみ出ていれば、こんなに急な申し出に戸惑うこともなかっただろう。彼女のセリフはあまりにも急すぎた。


「私、誠也と一緒にいるべきじゃないの。もっと前から気づいていたんだけど、今まで言い出せなくて」

「前からって。そんなに僕と一緒にいるのが嫌だったのか」

 まさみの言葉で声にトゲが立つのを抑えられなかった。


「あなたは皆に優しすぎるのよ。私だけを守ってくれるのなら安心できるんだけど」

 彼女から優しいだなんて今まで一度も言われたことはない。そこに嘘を嗅ぎとってしまった。

 他の誰かを好きになったのだろうか。だから別れるなんて切り出したのか。


「まさみは他に好きなやつでもできたのか」

 誠也は探りを入れてみた。


「まあ、そんなところ。あなたとはここで別れたほうがいい。それがふたりのためなのよ」


 そういうことか。せっかく婚約指輪も予約してあったのに、どうやらふいになりそうだ。

 だが、今までそんな素振りもいっさい見せなかっただけに、突然の申し出には驚きを隠せなかった。


「僕のどこが悪かったのかな」

 すがるようにまさみと目を合わせて、ゆっくりと口を開く。彼女は慌てて視線を外し、横を向いた。


「あなたが悪いわけじゃないの。ただ怖かった。私はあなたからそんなに優しくされるようなことはしていないし」

「好きな人に優しくしてはダメなのか」

 その言葉にまさみは気まずそうにうつむいた。


 そう。好きな人をたいせつに思ってなにが悪いのだろうか。

 人見知りする性格であることは知っているが、だから馴れ馴れしいと感じていたとか。だからもう少し距離感が欲しかったとか。


 恋の駆け引きなんて知らないから、彼女との付き合いも最初から結婚を前提にしていた。結婚するならまさみしかいない、と。

 それが重すぎた。遠回しに伝えようとしているのではないか。だとすれば。


「僕はまさみとの付き合いをやめるなんて、すぐには受け入れられないな。まさみはもう割り切れているのかもしれないけれど。だから、別れるのではなく、いったん距離をとらないかな。しばらく離れてみて、まさみは僕と別れたい決意が変わらないのか。僕はまさみ無しで生きていけるのか」


 まさみはずっと目を逸したままだ。体がわずかに震えているような気もする。なにか踏ん切りをつけようとする素振りに見えた。


「そ、それじゃあ、一か月間会わないっていうことにしましょう」

 思いついたようにまさみが切り出した。


「一か月間か。長すぎるような気もするけど、もう一度君の隣を歩ける可能性があるのなら、待ってもいい。でももしまさみが会いたくなったら一か月と言わず、明日にでも連絡をくれていいよ。僕はまだ君のことを愛したままで変わらないから。いつまでも待っているから」


 こんな言葉が彼女に重くのしかかっているのではないか。

 口を突いて出たなにげない言葉を冷静に判断するとそんな気がした。


 彼女はぎこちない笑顔を浮かべて歩き去った。



 それから二週間後、彼女のスマートフォンから電話が入った。まさみの母親が誠也に連絡をくれたのだ。

 難しい手術が失敗して余命幾ばくもないのだという。なにかあったら誠也に伝えて欲しいと託されていたそうだ。


 篠突く雨のなか急いで大学病院へ向かうと、集中治療室前にまさみとよく似た年かさの女性が座っている。緊張しながら静かに声をかけた。


「あの、国松まさみさんのお母様でしょうか」


 その後、なぜまさみが唐突に別れを切り出したのかが判明した。

 成功率の低い難しい手術を前に弱気になっていたのだという。精神的に追い詰められ、誠也に迷惑がかからないように別れを告げた。

 しかし誠也があきらめないで食い下がったことで、彼女は将来への希望を抱いたまま手術に挑むことができたのだという。

 それなのに、手術は失敗してしまった。

 そうして誠也は術後に意識の戻ったまさみと話をすることができた。


「誠也には必ずいい人が現れるから。その人のことを全力で愛してください。私のぶんまで幸せになってください。私はもう疲れました。もし生まれ変わったら、またあなたと会えたらいいな」


 それがまさみの最後の言葉となった。



 猛烈な雨が降る中、誠也はカフェオレを飲み終えた。さて、大雨に濡れながら帰宅しようか、それとももう一杯カフェオレを注文しようか。


 忘れられない人を思い出せたこの豪雨に感謝して、もうひととき過去と向き合うのもよいのかもしれないな。





 ─了─




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