第四話 草撫づ風

「願いをひとつ叶えてやろう、ジャヤシュリー」

 意気揚々とダルシャンは言った。

 彼の前に座る女は目をぱちくりとさせている。こちらの意図を探ろうとして見上げてくる赤土色の目を、ダルシャンは憎からず思っている。


 競技会以来、民の間でのジャヤシュリーの人気は高まるばかりだった。聖なる力を駆使する妃、吉兆の体現者というだけでも申し分ないのだが、小鳥の件で彼女の優しさ、そして第一王子に反駁することも辞さぬ勇気が期せずして知られたおかげで、城下で彼女を讃えるうたを聞かぬ日はない。宮廷のうるさ型は眉をひそめるだろうが、身分の低い者たちや女子どもにも心寄せられているらしい。それに伴って、ダルシャンの衆望も読み通りに高まっている。

 ニーラパドマ王国の王位継承は必ずしも年齢や血統によるものではない。それらの要素も大きく勘案されはするが、最後の決め手となるのは臣と民からの信望の程度だ。臣の信頼は今のところアラヴィンダがおおむね掌握しているが、民となれば分からない。そして民の心が動けば、臣も揺らぐ。天秤が自分の方に大きく傾き始めていることをダルシャンは確信していた。


 なれば、妃に相応の報酬を与えるのは、彼にとって当然のことであった。


「何が欲しい? 衣装か、宝石か? それともいっそ孔雀でもやろうか。お前は鳥が好きなようだからな」

 思いつく候補をあれこれと数え上げてみる。ジャヤシュリーはしばし考えるようにしてから口を開いた。

「……里帰りをしとうございます」

「里帰り?」

「元いた森に帰らせていただけませんか。たった一日で構いませんので」

 祝福の色粉にも似た瞳が、懇願するようにこちらを見つめる。予想していなかった答えにダルシャンは大きくかぶりを振った。

「いかんいかん。あんな遠いところに行かせられるか」

 ジャヤシュリーの睫毛がぱしぱしとしばたたかれる。小さな唇がもの言いたげに薄く開く。それでもダルシャンの答えは変わらなかった。

「俺のヴァージャの脚でも丸一日かかるのだぞ。――それに、逃げられでもしたら困るからな」

 何かを言おうとしていたジャヤシュリーが一瞬、息を止めた。華奢な手が膝の上で握られた。ややあって、小さな声が唇からこぼれ出た。

「……はい」

「分かったならいい。で、何が欲しい? この際だ、遠慮なく好きなものをねだってみろ。何かあるだろう」

 部屋に沈黙が流れた。窓の外で小鳥が歌うのが聞こえる。やがてジャヤシュリーが再び口を開いた。

「――では、芒果マンゴーをひとつ」

 今度はダルシャンが目をしばたたく番だった。

「芒果? そんなものでいいのか?」

「何でも好きなものを、とおっしゃいましたのはダルシャン様です」

「それは……そうだが」

 赤土色の瞳はもうこちらを見ていない。さびしげに伏せられ、ダルシャンを避けるように傍らへと向けられている。

「申し訳ございませんが、少し頭が痛いので下がらせていただきます。では」

 そう言って立ち上がり、礼を取って去ってゆく己が妃を、ダルシャンは引き留め損ねてただ見送った。


 ※


「ジャヤシュリー様、ダルシャン殿下がお呼びです。急いでおいでになるようにとの仰せでした」

 パーヴァニーの言葉に、ジャニは顔を上げて瞬いた。

「急いで……? 何の御用なんでしょう」

「さあ……軽装で来いのことでしたが」

 パーヴァニーも首をかしげる。ジャニは眉根を寄せた。

「まさか、また競技会でもなさるのかしら」

「それはないと思うんですけどねえ……」

 ふたり、顔を見合わせる。見当はまるでつかなかった。


 パーヴァニーに着つけてもらった軽装で宮殿の前庭に出ると、ダルシャンが愛馬ヴァージャを連れて待っていた。ヴァージャの姿を見るのはここに連れてこられた日以来だ。

「待ったぞ、ジャヤシュリー」

「申し訳ございません」

 謝罪の言葉を口にした――その刹那、ひょいと抱き上げられた。驚きの声を上げる間もなくヴァージャの背に乗せられる。続いてダルシャンも鞍にまたがった。逞しい腕がジャニの腰に回される。

「お前、相変わらず軽いな。食が細すぎるのではないか?」

「……あの」

 文句を言う間も与えず、ダルシャンは馬を走らせ始める。目の前で衛士が城門を開けた。――外に出るのだ。

 思いもしなかった展開にジャニは言葉を呑み込み、前を見つめた。


 ※


 街に出るのかと思ったが、そういうわけではないらしい。門を出たヴァージャをダルシャンは城壁に沿って走らせ、城の裏手の方角へと回ってゆく。

 城の背後には山がそびえている。その急な斜面に刻まれた道をヴァージャは軽々と駆け登る。乾いた地面はやがて鬱蒼とした木立になる。何かの鳥がバサバサと翼を鳴らして飛び去るのが聞こえた。

「ダルシャン様。どこへ?」

 ジャニが問えば、背後から機嫌のよい声が返ってきた。

「そう急くな。いいところだとだけ言っておく」

 こういう声色をしているときのダルシャンには何を言っても無駄だ。ジャニは黙ってヴァージャの背に揺られることにした。

 やがて木立の向こう、斜面の終わりに光が見え始めた。木々が途切れ、視界が広がり、最後の傾斜をヴァージャが登り切った。


 ――途端、一面の明るい緑色が目を打った。


「……わあ」

 感嘆の声がこぼれた。目の前に広がっているのは小さくも美しい野原だった。青い空の下、緑の草が柔らかく生い茂り、ところどころに白い花が顔を出す。優しい風が吹き、緑野を穏やかな波のように揺らしてゆく。

 ダルシャンが馬を降り、続いてジャニを抱き降ろした。草がそっと足首をくすぐる。冷えた土が裸足に心地よい。宮廷では縁遠かった感覚に胸が躍った。

 辺りを見回し、振り返り、また息を呑む。眼下には王都の街並みが広がっていた。昼間の太陽に照らされ、白い街は一層まばゆかった。

「いい場所だろう?」

 ダルシャンが得意げに言う。夫を見返してジャニはうなずいた。

「城が嫌になったときはここへ来るに限る。静かだし眺めもいい。王都を独り占めした気分になれる」

 草を食み始めたヴァージャを置いて、ダルシャンは切り立った斜面の縁へと歩み寄る。ジャニも後に続いた。きらめく街並みを見つめれば、そよ風が優しく頬を撫でてゆく。その感覚に心が凪いだおかげか、浮かんだ疑問を自然に言葉にすることができた。

「よくここへいらっしゃるのですか?」

「まあな。餓鬼の時分から、俺の特別な場所だ」

「そんな場所になぜ私を?」

 すればダルシャンはジャニを見下ろして片眉を上げた。

「分からんのか?」

「……はい」

 ダルシャンが困ったような顔をするのを、このときジャニは初めて見た。

「全く……鈍いな、我が妃よ」

 常には傍若無人なる王子は、視線を逸らしてしばし額に手を当て、それからジャニの方に向き直った。

「お前が故郷を恋しがっていたからに決まっているだろう」

「え……?」

「森に行かせてやることはできん。遠いうえ、何かの手違いがあってお前が俺の元から消えてしまっては、これまでのすべてが水の泡だ。だからその代わりに、多少なりとも草木に触れられる場所へ連れてきてやろうと思ったのだ。ついでに我が王国の偉容も刷り込むとなれば、ここ以上に適した場所はない」


 胸の奥にじわじわと温もりが差す。ジャニは思わず両の手を握り合わせた。

 初めてだ。この王子が、自分に優しさを見せるのは。

 ――そう、これはきっと、彼なりの優しさ。養父を亡くして以来、失って久しかったものだった。


「……ありがとう、ございます」

 ジャニが礼を述べると、王子は小さく口の端を持ち上げた。

「少しは気が晴れたか?」

「はい。ここは――とても素敵ですね」

 口元がひとりでに綻ぶ。嬉しい、という感覚を忘れかけていた。

 ダルシャンがこちらをじっと見る。何かを言おうとして口を開き、閉じ、そして視線を逸らした。

 首を傾げるジャニに向かい、彼はひらりと手を振った。

「分かればいいのだ。座れ」

「……はい」

 言われるまま草の上に座す。すればダルシャンも隣に腰を下ろした。そしてごろりと身を横たえたかと思うと、ジャニの膝に頭を載せた。

「――あの、ダルシャン様!」

「うるさいうるさい。俺は妃ができたら膝枕で寝ると決めていたのだ。夫のささやかな夢を邪魔するな」

 そう言われてしまうとジャニには抵抗のしようがない。慣れぬ感覚に心臓の鼓動が強まるのを感じながら、そのまま座っていた。


 風が吹く。

 草を、花を、木立を揺らし、そっと囁くような音を立てる。


 ――この人のことを知りたい、とジャニは思った。

 何を考えているのか分からない人。自分のことをどう思っているのかも判然としない人。

 今までは分からないまま、ただ慣れぬ場で生き延び、後をついていくだけで必死だった。

 けれど今は、この人の心の奥を覗いてみたいと思う。ただ自分勝手なばかりのようで、優しさも垣間見せる人。誰にも触れさせたことのなかった膝に、温かな重みをかける人。


 少しだけ強く風が吹いた。ダルシャンの髪が一房、彼のまぶたにかぶさった。

 ジャニはそっと手を伸べ、黒く巻いた髪を指先でよけた。


 ※


 静かな時間を野原で過ごしているうちに日差しが少しずつ和らいできた。日の入りが近づいているのだ。ダルシャンがむくりと起き上がる。ジャニも立ち上がり、膝の土を払った。

「ヴァージャ!」

 ダルシャンの呼び声に、忠実なる白馬はすぐ歩み寄ってくる。主に鼻面を擦りつけ、次いでジャニを穏やかな目で見つめた。

「ほう? ジャヤシュリーが気になるか。俺の妃だ、存分に懐いておけよ」

 大きな畜獣にジャニは慣れていない。だが動物には動物の考えがあること、みだりに触れるなど敬意を欠いた扱いをしてはならないことは養父に教わっている。

「よろしくお願いします」

 そっと話しかけると、ヴァージャは静かにまばたいた。

「馬にも敬意を払うか。いい心がけだ。こいつは最高の血統の駿馬だからな」

 言いながらダルシャンはジャニを抱き上げ、鞍に乗せる。そして視線を合わせ、得意げに宣した。

「侍女に芒果マンゴーを準備させている。帰ったら食すがいいぞ」

 その言葉にジャニは目をしばたたいた。

「芒果?」

「お前、自分で言っておいて忘れたのか? 欲しいと言っていたではないか」

 言われてしばし考え、思い出す。里帰りをさせないと言い切った夫に、適当な要求をして中座したのだった。

 さては、とダルシャンが片眉を上げた。

「出まかせを言っていたわけか。お前、拗ねると面倒な部類だな?」

「そうでしょうか……初めて言われましたが」

「まあそうだろうな。他の輩に言われていては俺も困る。――ともかく、芒果は食え。帰るぞ、ジャヤシュリー」

 ダルシャンが鞍にまたがり、手綱を握る。ヴァージャは軽やかに斜面を下り始めた。


 背に触れるダルシャンの体から温度が伝わってくる。冷え始めた空気に、それはどこか心地よい。

 揺れる鞍の上、頬と指先にほのかな熱がともるのを、ジャニはただ黙って感じていた。

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蒼き炎のジャヤシュリー:横暴王子と森の魔女 ナサト @sato_nasato

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