最終話 春の雪



 私には、世界よりも大事な人がいた。

 そんな気がする。

 気がするだけで、何も確証は無い。

 でも心にはいつも何かが足りないと、そんな予感があった。


 なにせこの、延々と続く雪景色の中に独りでずーっと生きて居るのだから、心がそういう『期待』を生み出してしまうのかも知れない。


 未来への期待というか。望みというか。

 生きる術というか……そんな、感じの。


 あれだけずっと降り続いていた雪が、ここ五十年くらいはとても穏やかで……きっと、世界は今、少しだけ、滅びを踏みとどまっている。

 その変化の原因……何があったのかは、知らない。


 私はただの番人に過ぎないから。


 でもある日、〈世界識あのこ〉から伝わる感情がふっと、軽くなったので……きっと彼女にとって良いことがあったのかもしれない。


 分からない。

 私は『あの子』自身ではないから。

 でもきっと、良いことがあったのだろう。


 死にたがりの世界が、もう少しだけ生きようと思えるような……そんな一筋の希望がきっと、降り注いだのだろう。

 ……多分。



「でも、いつまで、こんな日が続くかなぁ」

 呟きながら雪を踏みしめ、私は歩く。

「平和だけど……退屈、なんて言ったら贅沢かな……」

 丘の上に立つ小さな家と、飽き飽きしてしまう雪景色。

 この【魔女の庭】にある物は、たったそれだけ。

 世界の感情が楽になったせいか、【獣】とも最近はすっかりご無沙汰で。

 

 私はたった一人で、穏やかな日々を過ごしている。


 本当は、ここと『外』を隔てる檻も、少しだけ鍵を緩めている。

 だから私には、外の世界に出る事だって選べたけれど……人間が嫌いなので、出ない。

 向こう百年くらいはまだ、引きこもりたいな。


 一応、迷い込んできた人間は、適当に世話をして適当に逃がしてあげている。

 でもそれも、本当にたまに……五回くらい、あったかどうか。


 来訪者はもうずっと、見ていない。

 世界が穏やかになって、【魔女】の悪い噂も少しずつ、薄れていったのだろう。

 もしかすると、『外』に返してあげた人間が、良い噂を流してくれたのかもしれない。

 そうだとありがたいので、そういうことにしておこう。



 そう――――――だからこれは、久しぶりのお客さんだ。



 さく、さく、と柔らかい雪が鳴る。

 今日は天気が良いから……もう少しするとこの雪がべちゃべちゃになって、靴下を冷たくさせてしまうかも知れない。


「やだな……早く人間拾って帰ろ……」


 一人分の気配しかしないので、お客さんだろうし。


 そうやって私は、小高い雪の丘を足早に登った。

 頂上に立って、ふぅとひとつ、息を吐く。

 白い息がキラキラと、陽の光を浴びて輝きながら、消えていった。



 その時――――ふわり、と。



 穏やかな風が、髪に結んだ白いリボンを攫っていった。

「あっ…………」

 声を上げて振り返る。

 けれどもそれは、花弁のようにヒラヒラと舞いながら、風に流され……やがて、空気に溶けるようにして、消えてしまった。

 その後にはきらきらと輝く、透明な光だけが僅かに残り……それもやがて、消えてしまう。


「…………」


 私は暫く、言葉も無くそこに立ち尽くしていた。

 それから。

「わ」――と、大きな声が、飛び出した。

 しん、とした冷たい空気に、私の声がリン、と響く。


 それから。


「わたしは――」

 胸に手を当て強く押さえ、何度も転びそうになりながら、私は駆けだしていた。

 そうして私は、雪の上に座るその人の前に立ち……見下ろす。


 それから。


 荒くなった息を整えもせず、私は息の合間、途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。

「わたし、は……ツバキ。春の木と書いて、椿……」


 そしてその子に――彼に。

 懐かしい、とても懐かしい、問いかけを。



「きみの、名前は?」

「……俺、は」


 ずっと耳にしていなかったのに、ずっと耳にし続けてきたような、声。

 その人が、過去に一度も聞いたことのない調子で、私に応える。



「俺はシュウ。冬の木と書いて、柊――だったと思う?」



 ボロボロと涙が零れて、それなのにおかしくておかしくて、もうたまらない。

 笑いながら泣きながら、溢れ出る涙を乱暴に拭って私は、もう一度問う。



「ねぇ、どうして曖昧なの?」



「だって」と、その人が笑う。

 笑顔で、応える。





「――――――きっと、貴女が笑ってくれるので」





〈完〉

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死に往く冬と芽吹く春、終わる世界に恋文を。 灰羽アクト @Ash_enACT611

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