しゅうちゃん先生

上雲楽

自慰

 しゅうちゃん先生は小太りなのを気にしていたから、余計にクラスメイトたちにからかわれてお腹を揉まれていた。僕もそれに冗談めかして参加していたけど、甘く勃起していたのを悟られないようにしていた。

 しゅうちゃん先生は誰からも好かれていたから二人きりになれる機会は少なかった。

「また雪平か……ちゃんと勉強しないとだめだよ」

と言って補習中の僕の頭を後ろからしゅうちゃん先生が小突いた。僕は、たははとはにかんで誤魔化した。しゅうちゃん先生の担当する数学の小テストで及第点を取れないと補習することになっていた。みんな補習は嫌だし、しゅうちゃん先生も最初は脅かしているだけだったんだと思う。だけど僕はわざと白紙で提出して、補習をねだった。思惑通り、補習に参加するのはほとんど自分一人だった。

 しゅうちゃん先生は回り込んで僕の前の席に座り、椅子の背もたれを肘掛けにして手を組み、顎を乗せて僕の解いているプリントを覗き込んだ。僕が顔を上げると結婚指輪が光って、その上にたるんだ二重顎が乗っている。

「うん、できているね。やればできるんだから」

としゅうちゃん先生が目尻を下げたので目をそらすと、頬に冷たいものがあたった。缶コーヒーだった。

「いつも補習頑張っているからな。たまには差し入れって思って。ただし、気を抜いちゃだめだよ」

「でも、ここがよくわからなくて……」

とプリントを反転させるとしゅうちゃん先生の顔が近づいた。しゅうちゃん先生のコーヒーの濁ったような体臭が香った。

 家に帰って食事を適当に済ませると、しゅうちゃん先生の匂いを思い出してオナニーしたくなった。トイレに行こうとしたとき、外から車が停まる音がして、父が帰ってきたのを察したので、対して興味のないテレビをつけた。

「ただいま」

「おかえり、ご飯できているから」

と目を合わさず言うと、父は

「おう」

とだけ言ってネクタイを緩め、夕食を取り出した。

「学校どうなんだ」

と父が呟いた。こちらに視線を向けていないのはわかりきっている。父は思春期を過ぎたあたりから僕にも姉にも取るべき態度を測りかねていた。まだ姉が家を出る前、テレビで同性婚に関するニュースをやっていた。父はこんなの認めたら伝統的な家族が崩れるとか漏らすと、姉が

「イマドキ、そういうのキモ」

と言ったので父は顔を赤くして

「親に向かってキモいとはどういうつもりだ」

とわざとらしく机を手で叩くと姉が鼻で笑ったので、父は近くにあったスマートフォンを姉に投げつけた。

「そういう幼稚なところ大嫌い」

姉はそう言って部屋に閉じこもり、父はしばらく怒鳴り声を上げたあと、その晩は家から出ていった。母はその日も遅番で、その話をあとから聞いて、

「放っておけばいいのに」

と言うだけだった。それがきっかけではないと思うが、姉は大学進学を機に家を出ていって、家族の会話は今だとほとんどなくなっていた。

「別に学校なんてなんともないけど」

と僕は素っ気なく返事する。それが父をイライラさせることを知っていて。

「今日も遅かったな……補習だろ?ちゃんと勉強しろよ。少しはお姉ちゃんを見習ったらどうなんだ。遊んでばかりで……」

「勉強のための補習なんだけど」

「だから、自分でやれって言っているだろ!テレビ見ているヒマがあるならやることあるだろ!俺は忙しいんだよ!お前はなんだ、遊んで、怠けて、俺の育て方が悪いって言いたいのか」

父が怒鳴りつけるのを無視した。何度も繰り返されているやりとりだった。

「そうですか……大変ですね。でも勉強はちゃんとした方がいいのはそうかもね」

父との出来事をついしゅうちゃん先生に漏らしてしまったが、しゅうちゃん先生は手慣れた哀れみの表情を作って、そう呟くとただこちらの目を見るだけだった。

「先生って娘さんとは何話すんですか?」

「うーん、まだ三歳だし全然だねー」

とニコニコしたが、それはプライベートを聞くな、という警告に見えたので僕はすぐにプリントに目を戻した。

 先生は授業中によく雑談をしていて、授業が中断されたから、それで好かれている節もあった。先生はポアンカレを尊敬していて、ホモロジー代数学について語ったとき、クラスメイトが「ホモ?」とクスクス笑った。先生はそのとき真面目な顔をして、

「そういう意味のホモじゃない。いや、ある意味そうだけど。ただ同性愛者を笑うのはよくない。差別だよ。このクラスにはいないけど人を傷つける言葉だ」

と叱った。その授業後、女子たちにしゅうちゃん先生かっこいいーと囲まれ腹を揉まれ困った顔をしていた。自分もそれに混じって尊敬しますと言いながら腹に手を伸ばすと、それは払いのけられて、先生は職員室へ帰っていった。

「昨日のことだけど、お父さんに暴力とか……大丈夫?」

と補習中に耳元で囁かれた。先生の手が耳に触れ、吐息がかかり、何を聞かれたのか一瞬わからず沈黙を作ってしまったのが、肯定と取られたらしい。先生は眼鏡を上に上げて目頭を抑えた。

「雪平、先生ができることだったら絶対協力するから……相談してほしい……」

「大丈夫ですよ、別に何もないんで」

「強がらなくていい、先生で不安なら他の先生や機関も紹介できる。だから……」

「本当になんでもないです。というか先生に関係ないですよね」

「そうかもしれない……でも心配で……お節介なのはわかっているよ。保健の山室先生を呼んでみても……」

「先生がいいです……」

つい言葉に出してしまった。先生は涙ぐむような笑顔を浮かべて立ち上がり、僕の肩を抱いた。僕はどさくさに紛れて先生の腹に頭を預けた。思ったよりも固くて、呼吸に合わせて動いて、僕は勃起していた。しばらくしてから先生はプリントに携帯電話の番号をメモした。

 それからほとんど毎日、僕は寝る前に先生に電話をかけた。話す内容なんて特にない。クラスメイトの冗談とか、見たテレビのこととかくだらないことにも先生は真面目に付き合ってくれた。

「そんなテレビばっかり見て、自習しないとずっと補習だよ」

と先生が柔和な声色で叱ったのが嬉しくて、股間を擦りながら通話していた。

「ヒマなんです。いや、勉強もしないとなんですけど」

とくすくす笑ってみせた。家族の話をするのは意図的に避けていた。それをするともう通話が終わるのはわかっていた。

「友達にテレビに、いいけどね。あ、彼女は?恋愛しない青春は暗いぞ」

と冗談っぽく先生が言ったので陰茎はすぐに萎えた。

「あんま興味ないんで」

と事実を伝えたが、先生は踏み込み過ぎたと感じたのか、すぐに話題を変えた。先生に取って自分はかわいそうな指導対象でしかないのはわかっているが、先生の憐れみを受けられることに優越感を抱いていた。先生は仕事も忙しいはずだからこんな電話なんてしたくないはずだった。その時間を自分が専有していることに所有欲を満たした。

 父との会話は完全になくなっていた。義務的に交わされていた挨拶も頻度が減り、今はなくなってしまった。その現状に父が焦っているのもわかっている。父は廊下で僕とすれ違うと何かを言おうとして口を半開きにするのだが、僕は父の頭の奥に焦点を合わせて、常に目を合わせることを避けた。父は癇癪を起こして時々自室で暴れた。止めてほしいのだろうか。もしも僕が癇癪を起こしたら先生に殴られたいと思った。

 それがしばらく続いて、先生はますます太った。たぶんストレスからだと思う。今まで来ていたワイシャツがピチピチになって動きにくそうにしていて、手が後ろに回らないので、女子たちが後ろから抱きつく遊びを思いつき出した。先生はやめなさいと言って手をジタバタさせるのだが振りほどけず、それが女子たちの笑いを誘った。先生は好かれていたが、同時に馬鹿にされていた。先生の授業をろくに聞いている人は少なく、三分の一は昼寝していた。それを優しく叱る先生に嫉妬して僕も何度か寝た振りをして、優しく肩を叩かれ起こされた。クラスメイトの笑い声は気にならなかった。

「雪平、嫌がらせのつもりならもう許してくれないか?」

 補習中、急に先生が言った。

「自分がいい教師じゃなかったのは認める。何もできなかった。だけどボイコットはやめてくれ。他の人は受験だってあるんだ」

先生がまっすぐとこちらの目を見てくる。

「そんなに嫌いだったのか?それでも構わない。でも毎日毎日電話してきて……疲れたよ」

「好きです」

僕は口に出してから何を言ったのか気がついた。

「……何が?」

先生が無表情でこちらを見てくる。

「先生のことが好きです。生徒思いで優しいところとか」

「優しい、ね。無能の言い換えとしては及第点だね。国語の成績もいいんだっけ」

「先生のおかげで数学だって好きになれたんです」

「じゃあ、なんで毎回小テストもボイコットするわけ?雪平、数学の点数いつもいいよね。こんな小テスト解けないわけがない。……いや、もしかして、誰かの指示なの?イジメとかそうなら……」

「自分が先生に会いたかったんです。ごめんなさい、先生、好きです」

先生が教壇にある椅子に座った。まっすぐこちらを見据えている。

「あの、自分は雪平の父親じゃないの。……ごめん言い方がキツかったね。人に依存するのはお互いにとってよくないと思うんだ。自分は教師で、それ以上のことはできないよ。困っているなら助けたい。でも問題を増やすのはやめてほしい」

「助けて下さい」

僕は駆け出して先生に抱きついた。先生は抱き返さず、ぶらりと手を下げていた。心拍数も呼吸もゆっくりしていてぬくもりを感じた。

「……当たっているんだけど……」

僕は急いで離れて勃起した陰茎を手で覆った。先生は表情を変えず、

「気持ち悪い」

と言った。

「でも、そういう好きなんです。しょうがないじゃないですか。助けて下さい。先生じゃなきゃ駄目なんです」

僕はすがるように両手を伸ばすが、触れることができない。触れてしまえば払いのけられることを知っていたから。

「だから、それ、お父さんが怖いからこっちに逃げてるだけだよね。どう?嫌がらせして、勃起して、気は晴れた?気持ち悪い。オナニーでもして気は晴れた?というか、そもそも誰でもよかったんでしょ、ターゲットは。たまたまデブの無能教師が側にいた。よかったね。軽蔑するよ。お前はずっとそのままだよ。誰にも何も言わないで、一人でスネて、依存できそうな相手には見下す。はっきり言って、害悪だよ。お父さんもかわいそうに」

「しゅうちゃん先生……」

「そのあだ名嫌いなんだよ。話しかけないでくれる?もう補習はしないから」

 僕はその日のうちにマッチングアプリで手頃な中年を探し、次の日にセックスした。その男は恰幅のいい髭面で自分にハンバーガーを奢ると、肛門を広げてアンアン喘いだ。僕は二回射精したが、コンドームはいつの間にか外されていた。その男は僕の腕をまくらにして、若いのにパパみたいに落ち着いていてかわいいね、と言った。その男とはもう合うことはなかった。

 補習も電話も終わって、先生と話すことは極端に減った。補習がなくなってから、クラスメイトの授業態度が改善した気がする。なるほど、自分がやはり元凶だったわけだ。

 父の部屋はすっかり荒れて、お気に入りのCDもゴルフクラブで叩き割っていた。

「馬鹿みたい」

と父に教えてあげたら鼻を殴られて血が出た。笑い声をあげると父は泣きながら自分を蹴飛ばした。哀れな自分に酔っている人は醜いな、と父を見て思った。この前寝た男と父の目尻が似ていることに気がついて嘔吐すると、暴行は止まり、父は僕を抱きしめた。

「お前、何も言わないだろうが。どうしろっていうんだよ」

「何もしないで。ウザい」

父は吐瀉物を気にせずより強く自分を抱きしめた。父子の愛を前提にした行動だった。死ねばいいと思ったが、自分はこの人に養われている。選択肢はなかった。僕は父の背中に手を伸ばし、殺すつもりで抱きしめた。

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しゅうちゃん先生 上雲楽 @dasvir

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