白い足跡は終わらない悪夢を彷徨う
うなぎ358
第1話
スマホの、待ち受け画面を見て溜息をつく。昼休みの終わりを告げるベルが鳴り響き、再び仕事の為にパソコンを立ち上げる。17年間、一度も休む事なく働いた会社。家には眠りに帰るだけの忙しすぎる毎日だ。はっきり言ってウンザリだ。
「よ! 黒木! なにシケた顔してんの? あんた、ちゃんと寝てる? クマ出来てるよ!」
突然、後ろから肩をポンと叩かれて、椅子に座ったまま振り返ると、同僚の浅木加奈江(アサギカナエ)が、書類片手に立っていた。長い黒髪を後ろで緩く一つに結んで、縁の赤い眼鏡がよく似合う色白美人だ。明るい性格の彼女は、社内でも人気者だ。そんな彼女が毎日のように、それこそ1分でも時間があればオレに絡んでくる。
「浅木、お前いつも元気すぎるだろ……」
「元気だけが取り柄だもん! って言うか、本当に大丈夫? 顔色も悪いよ?」
「そうか?」
「そうよ! もしかして黒木って有給も取って無いんじゃない?」
「タイミングが分からないんだよ」
「そんなの、いつでも良いじゃない! いっそ明日から温泉とかどうよ?」
「温泉かぁ……」
そこまで言ってから、浅木はオレの耳元で小さく呟いた。
「犬榧くんの事で眠れてないんでしょ」
「まぁ……そんな所。仕方ないとは分かってんだけどな」
「結婚の相手は社長令嬢だっけ?」
「そ。しかも、この会社の上の立場のってなると、犬榧も断れなかったって……」
「そっかぁ……」
2人で飲みに行った時、オレは酔っ払って浅木に、2年先輩の犬榧蓮(イヌガヤレン)が、気になって仕方ないと言う事を話してしまったらしい。そんな感じに気軽に色々話せて、いつでも明るく優しい彼女の事は大切な友人だと思っている。
浅木に心配されるほど、オレが頭を悩ませているのは、犬榧が大企業の社長令嬢と結婚してしまう事だ。同じ会社の先輩だから、どうしても毎日のように顔を合わせてしまう。浅木には気になるとだけ言ったけど、この気持ちは恋に近くて、胸の内がモヤモヤするのだ。確かに、このままじゃいけない気がするし、気分転換は必要だ思い、1週間の有給を無理矢理もぎ取った。上司は渋い顔をしていたが、そんな事を気にしていたら休みなど、この先も無いだろう。
連休を取った初日の朝、毎日の習慣で早朝5時に目が覚めてしまった。なのでベッドに転がったまま、枕元に置いてあったスマホを手にとり宿を検索する。出来たら日常を忘れられる、山に囲まれた自然の中でゆっくり過ごしたい。一つ一つ宿を、タップしては溜息をつく。有名な宿ばかりで自分の求めるものは、なかなか見つからない。
「春子に聞いてみるか……」
幼い頃に、一度だけ行った事のある父方の実家。そして一緒に遊んだ従兄妹の春子の事を思い出して電話をかける事にした。
RRR……RRR……
「はいはい! どなた?」
「春子? オレ黒木だけど、えっと小さい頃に一度だけ遊んだ事があるんだけど覚えているかな?」
「黒木くん? トンボ嫌いの?」
「そうそう!」
「ふふふ! 懐かしいわね! 元気だった?」
「普通に社畜だけど元気だよ! 春子は?」
「トンボ怖がってた黒木くんが会社員かぁ! 私は父さんの田んぼ手伝ってるわ」
「トンボのあの目が怖いんだよ! 田んぼかぁ! 新米美味そうだな」
「ふふふ! 新米出来たら送るわ。で何か用があるんでしょ?」
「ちょっと、のんびりしようと思って1週間休み取ったんだけど、これぞ秘境って感じのオススメの宿はないか?」
「う〜ん……宿じゃ無いけど、あるにはあるわよ」
「この際、都会と会社を忘れられるなら何処でも良い教えて欲しい」
「分かったわ。同じ市内にある私の祖父の家なんだけど、雑木林の中に一軒だけ建ってて回りには何も無い所とかどう?」
「いいね! でも突然行って迷惑なんじゃないか?」
「今は誰も住んで無いはずだから大丈夫だと思うわ。鍵と住所は……」
「今からそっちに行く! 昼過ぎには駅に着く」
「分かった。じゃ迎えに行くわ」
電話を切ると早速、縦1メートルはありそうな大きな黒いトランクを、物置きから引っ張り出して準備を始める。とりあえず1週間分の着替えに、歯ブラシなどの身の回りの物を詰め込む。
「回りに何にも無いって言ってたな。途中で食料品と本でも買うかな!」
買い物したものを入れる為用に、もう一つ旅行カバンを出してくる。結構、嵩張るけど1週間、田舎に引きこもって過ごすなら必要だろう。
「おっといけない。お守りは手放せないよな」
いつ頃からか分からないけど、持ち歩くようになった、銀色の筒型のペンダント。ちなみに、何故だか蓋は開かない。でも持っていると安心出来る。首にかけると、鍵をしてマンションの廊下を、ゴロゴロと音を立ててトランクを引いて外に出る。
呼んでおいたタクシーに乗ると、渋滞することも無く20分程で東京駅に着いた。そして買い物をする為に、百貨店の食品売り場に行って保存のきくパンや缶詰、つまみに酒といったものを買った。本屋にも立ち寄って、小説を10冊程購入した。
これだけあれば日常を忘れて、ダラダラ過ごせるだろう。買ったもの全て、旅行カバンに詰めて新幹線に乗り込んだ。座席に座ると静かに走り出した。高速で流れていく景色を見ながら、今日から始まる田舎生活に胸を躍らせる。
途中スマホが震え、メールの着信を知らせてきた。浅木と、同僚で親友の蘇芳槐(スオウカイ)からだ。
「何処の温泉に行くの? 浅木」
「お前が有給取るなんて珍しいな! 何処行くんだ? 槐」
浅木には面白おかしく秘境に引き篭もると返信して、槐には従兄妹の祖父の家に行って1週間のんびり過ごす事を伝えておいた。
2時間新幹線で移動して、駅から更にバスに乗り換える。乗客はオレ1人だ。心地よい揺れに眠気に襲われつつも、眠ってしまうのが勿体無くて、流れる景色を見ていると緑が増えていき、民家も次第にポツポツと、たまに見かけるだけになっていく。40分弱で終点の待ち合わせのバス停に着き降りる。そこはまさに秘境駅で、自販機すら無いし、バス停から少し歩くと砂利道が細く伸びているのが見えるだけだ。
パッパァ〜〜
駅周辺を歩き回っていると、後ろから大きなクラクションが聞こえ振り返る。軽トラの運転席側の窓を開けて、女性が手を振っている。
「黒木くん、久しぶり! さ! 乗って! 荷物は荷台に適当に乗せていいわよ」
「春子久しぶり! 迎えに来てくれてサンキュ!」
荷物を、ゴドゴト音を立てて荷台に乗せてから、助手席に座ってシートベルトを閉めた。
「昼ご飯はまだよね?」
「着いてから食べようと思って、と言うか酒を飲むつもりだ」
「だと思って、家から色々持って来たわ! 息子のルイが先に行って掃除してるから、着いたら3人で食べましょう」
「なんか至れり尽くせりだな」
「気にしないで! じゃ出発するわね。15分くらいで着く予定よ」
バス停を出発すると、すぐに砂利道に変わってガタガタ音をたて、激しく揺れながら軽トラは走りだす。窓を開けると、木々の爽やかな青い匂いのする風が入ってきて気持ちいい。
隣の運転席を見ると、春子のウェーブがかった明るい茶髪が、ふわふわと風にあおられて、爽やかな柑橘系のシャンプーの香りが漂ってくる。目がパッチリ二重で鼻も高くて、気さくで面倒見が良さそうな彼女はモテるに違いない。
「ふふふ! 本当に何にも無い所でしょ!」
「そんな事はない。今のオレには必要なものばかりだ」
都会とは違う、冷たさを含んだ風も、まだ昼過ぎだと言うのに山に囲まれているせいで、影が落ちて夕方のような雰囲気も何だか落ち着く。軽トラはガタガタと、更に深い林の中に入っていく。
「この上にある家よ! ちょっと歩くけど……」
「体力には自信があるから大丈夫」
ガガッという音を立て、軽トラは砂利道の端に止まった。春子が、ビニール袋いっぱいの野菜を抱えて降りる。オレも降りて、荷台のトランクと旅行カバンを下ろし、ゴロゴロガタガタとトランクを引き摺り、旅行カバンを背負って歩く。
石造りの少し凸凹した階段を5分ほどかけて上ると、今日から一週間お世話になる家が見えて来た。大きな胡桃の木が一本、玄関先に植えられているのが特徴的だ。
「思ったより大きな家だな」
「田舎の家は、大体こんな感じよ」
平屋の日本家屋は、途中で増築でもしたのか、昔からの黒い壁と、最近の白い壁がくっきり分かれて見える。
「やっぱり気になる?」
「大勢の家族が住んでたのか?」
「そうね。私も住んでた事もあるし、あと祖父が、憧れの二世帯住宅だって言って部屋を増やしまくったの」
「なるほど。楽しい家族だったんだ」
「仲は良かったと思うわ。だから黒木くんも気に入ってくれたら嬉しいわ」
「あの隣の小さな小屋は?」
「トイレよ。古い家だからボットン便所なの」
トイレが外にあるだけでも驚きだ。
春子が、玄関の引き戸を、ガラガラと開けて入る。そのあとを慌ててついていく。古い家独特の、何とも言えない懐かしいような匂いがする。玄関も広い。靴を50足は並べられそうだ。そして正面にある、大きなボンボン時計に目がいく。かなり古そうなのに未だに現役で、元気よく振り子が揺れている。多分、音も鳴るのだろう。
「リビングはこっちよ」
廊下は板張りで、歩くたびギシギシ軋む。玄関から、すぐ右手のドアを開けると、リビングになっていて大きな窓からは、雑木林が見え涼しげだ。もしも次に、ここを訪れる事があれば風鈴でも持って来よう。
「ルイただいま! お掃除ありがとね!」
「母さん、おかえりなさい。黒木さん、こんにちは」
「ルイくん初めまして! こんにちは」
息子のルイくんは、小学生くらいだろうか? ふわふわの茶髪が春子に似ていて可愛い。挨拶をすると、照れくさそうにしながらニコッと微笑んでくれた。
「そうめんと野菜しか無いけど、すぐ作るから待っててね。ルイ手伝って!」
「うん!」
「ありがとう」
リビングのテレビをつけて、チャンネルを回して、3つの放送局しか映らない事に驚く。いつも見てるドラマは、スマホで見れば良いかと思って、尻ポケットから出してみると、まさかの圏外の表示。こうなると本を買って持ってきたのは正解だったようだ。
暫くすると、長方形のオボンを両手で持った春子がリビングに戻って来た。テーブルの上にコトンコトンと音を立てて、新鮮な野菜サラダが大量に盛られた皿や、麦茶入りコップを置いていく。少し遅れてルイくんが、食べやすく小さな渦巻き状になった、そうめんが綺麗に並んだ大皿を、テーブルの中央に置いて準備は終わった。
「さ! 食べましょう! いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
3人でテーブルを囲んで食べ始める。ルイくんは食べ盛りのようで、次々と口に放り込んでいく。オレと春子は昔話に花を咲かせつつ、のんびり食べていく。
ボーン……ボーン……ボーン……
玄関から見たボンボン時計が、3時を知らせて鳴り響く。楽しい、ひとときはアッと言う間に過ぎてしまう。
「もうこんな時間だわ! そろそろ私たち帰るわね」
「今日はありがとう! 片付けはオレがやるよ」
「こちらこそありがとう! 久しぶりに話せて楽しかったわ。鍵は帰る時に、表玄関の左の植木鉢の下に、入れてくれれば良いからね!」
「オレも楽しかったよ! 鍵は了解!」
春子のあとを追いかけて、外に出ようとしたルイくんが立ち止まって振り返る。
「……思い出して」
表情の無い顔で、それだけ言うと玄関を閉めて出ていった。
2人がドタバタと帰っていくと、途端に静けさに包まれた。
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