漫ろ(そぞろ)
トム
漫ろ(そぞろ)
――君が教えてくれた事。
靴は脱いでから屈んで揃える事。
箸でお皿を引っ張っちゃイケない。
寝る前には一杯のお水を常温で飲む。
――そして。
――『愛してる』は声に出してきちんと伝えること――。
日々の殆どを無言で過ごすようになって5年。買い物で店員と対話する時などは、つい声が裏返ってしまい、それすらも億劫に感じるほど。中古で購入した自転車がそろそろギアに油を差せと泣き言のようにキィキィ抗議しているが、既に錆が回ったコイツにメンテをする気は起きなかった。夕闇迫る狭い路地を、前かごに入れた買い物袋を、ガサガサ言わせて進んでいくと、やがて、古ぼけた二階建てのアパートが見えてくる。
外階段の下に愛車を停め、小さな鈴をつけた鍵を引き抜くと、チリと乾いた音が聴こえ、それをポケットに突っ込む。塗装が剥げ、手触りの悪い手すりを握りながら、鉄の階段を昇っていると、遂に日は落ちたのか、階段に備えた外灯が、黄色く煤けたカバーを白く光らせた。共用部になっている狭い通路を奥に進み、一番端の自宅に着くと、鍵を開けてドアを潜る。
――お帰りなさい。
「……ただいま」
真っ暗な部屋に一人、そう呟いて、台所にぶら下がった、傘付きペンダントライトの紐を引く。チカチカと安定器の点滅の後、うすぼやけの明かりを点けると、買い物袋の惣菜類を引っ張り出す。感の発泡酒を冷蔵庫に入れ、続きになった居間の電灯も点けて、テーブル代わりのコタツに
Tシャツと下着だけでコタツの前に腰を下ろす。バスタオルは首に掛けたまま、乾ききっていない髪から雫が垂れない様、偶に流れる汗と一緒に拭いていると、不意に耐え難い寂しさに襲われる。
君を傷つけたのは俺なのに――。
君から離れたのも俺なのに……。
今になって、気がつくなんて。
二人で歩いた散歩道、目的地なんていつも無かった。君がそう言って、決めなかったから……。
――目的のために歩くんじゃなくて、歩く事が目的だもの。アナタと一緒に歩く事、それが私の目的なんだよ。
二人で歩く
君の言う事はいつも目的に『俺』が居て……。俺はそれに気づけなかった。
――そんな君を俺は。
惣菜を全て平らげ、発泡酒を持って部屋の窓を開ける。見上げた空には、大きく月だけが浮かんでいる。星も見えてはいるんだろうが、空が澄んでいないこの場所では見つけることは叶わない。
「……ふぅ、やはり緊張すると酔うに酔えないものだな」
そう呟いて振り返った先には、小さなボストンバッグが一つ。視線をずらせばコタツの上には新幹線のチケットと、預金通帳が置かれている。
「……5年ぶりか」
それは長かったのか、短かったのか。
フラフラすることはもう辞めた。勇気を振り絞って掛けた電話に、君はちゃんと出てくれたのだから。
――今度は俺の目的が君だ。
完
漫ろ(そぞろ) トム @tompsun50
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます