真夜中の強奪
真花
真夜中の強奪
電気を一つだけつけたら、薄暗い部屋になる。居間をそうして、ソファに転がって、天井の灯りより強い光を放つスマートフォンを凝視する。何か目当てがあって見ている訳ではない。眠気が来ないからここで夫が帰って来るのを待ってみている。眠気の方が先に来るかも知れないし、画面の光が睡魔を払い続けるかも知れない。猫の動画。うちでは飼わない。だから本当は動画にほっこりする権利はないのかも知れない。それでもいくつも猫を見る。ただじゃれているだけなのに動画として成立するのがズルい。
コチコチ時計が鳴っている。私が使っている時間は、今日の余りなのか、明日の前借りなのか。少し眠い。
玄関の鍵を開ける音。予想よりずっと早い。
「ただいま。起きてたんだ」
「なんとなく」
「何か用があるの?」
「ない」
「そう」
夫は風呂に入る。私はまたスマートフォンをいじる。コロナは流行っているらしい。五類になったからってウイルスが善良に変異することはない。水を飲みに立って、全く同じ姿勢でソファに収まる。友達のフェイスブックを見る。私はしない。プライベートを晒すことに快感を得られないと思う。だが私は覗く。どうでもいい話ばかりがたくさん摂取出来る。
夫が風呂から上がり、ドライヤーの音。
「あれ、まだ起きてたんだ」
「まあね」
「俺は俺のことするから」
「うん」
夫は服を着たらパソコンをいじり始める。私のことは一瞥もしない。夫がパソコンで何をしているのか知らない。夫は伝えるつもりはないようだし、私も訊くつもりもない。私がスマートフォンで何を見ているのかも訊かれない。夫は私のことを尋ねることはない。
いつからだろう。息子が小学校に上がったときには既にそうだった。
生活同盟。育児同盟。私達は戦友だ。必要最低限のことしか話さない。
愛しているなんて言うことはない。
私はいつしかパサパサになっていて、オアシスのような言葉を待っている。
今も待っている。
夫はパソコンに向かって真剣な表情をしている。私はその顔をじっと見る。スマートフォンを置いて、見る。
「何?」
夫は怪訝で機嫌を軽く損ねた顔と声をする。
「何か、私に言って欲しい」
夫の顔に『面倒臭い』と炙り出された。気の七割はパソコンに向いたままだ。
「何かって?」
「私を喜ばせるようなこと」
ふん、と夫は鼻息を荒ぶらせる。
「何で?」
「面倒臭いことをちゃんとする、が家訓でしょ?」
夫はなおさら面倒っぽく眉間に皺を寄せる。私に使う時間も労力も、あらゆるコストをカットしたいのだろう。だが、手は止まっている。
「そうだね。自覚があるんだ」
「あるよ。嫌だもんこんな面倒臭い女」
「じゃあやめなよ」
「それでも、欲しいものがあるから手に入るまでは続けるつもり」
夫は返事をしなかった。私達は黙って、視線を交差させる。夫はパソコンを少し操作して、パタンと閉じる。早く終わらせるための予備動作のように見えた。だが、夫は何も言わない。私が喜ぶことなんてないのかも知れない。
「何もないの?」
「どうしてそんなことを求めるのか、分からない」
「変かな。少しは――」
私に興味を持ってくれてもいいのに。だが、言葉に出来ない。私はむっつりと黙る。夫も何も言わないで、私のことを見ている。夫がコップで麦茶を飲む。
夫は私のことが嫌いなのかも知れない。少なくとも興味はなさそうだ。これからずっと、夫婦を続けていくのに、こんなに隙間風が吹いていていいのだろうか。私から言うんじゃない。夫から言ってくれないと、この寒さは取れない。
私は夫をじっと見る。きっと早く終わらせたいと思いながら、適当なことを言うのは嫌だと考えている顔だ。そう言うところの誠実さにこれまでも私は何度も助けられて来たし、夫の時間を大量に奪っても来た。それは当然の権利だ。
「あのさ」
夫が声を出す。
「何か困っているの?」
「別に」
ただ足りないだけ。
「じゃあ、何なんだ?」
私は答えない。言葉にしてしまったら意味がなくなる。夫の声に苛立ちが混じっている。だが、それを夫は凪させる。見た目上は。
動画の猫みたいに出来たらいいのに。
下らない日常の中に、夫が私を労る言葉が含まれればいいのに。それは自発的でなくてはならない。限りなく言わせようとしているが、最後の一歩を夫が踏み出さなければ意味ない。私はいくらでも待とうと思う。夜はどんどん更けて行く。
夫は座った姿勢のまま、視線を切った。そっちに何がある訳でもないだろうけど、私を見たくなくなったのだろう。高速で頭が回っているようだ。同時に今夜の時間を諦めたようにも見える。
コチコチと時計が鳴っている。息子は夢の中だ。夫は悪夢の中だろうか。それともそろそろまとまって来ただろうか。私はどうして私が今ここに座って夫の時間を奪っているのかを理解したから、後は待つだけだ。ぐっと詰まっていた自分が少し緩んだ。
夫が私を再び見る。私も夫を見る。
私を見た夫は、少し力を抜いた。もうちょっとで微笑んでしまいそうなくらい。だが、対決の姿勢を保つ。
私が言葉を発そうとしたとき、夫が声を出す。
「あのさ」
「うん」
「喜ばせることって、何があるか考えたんだけど、嘘はつけないと思った」
「それで?」
夫は黙る。だが、この沈黙は硬くなかった。私は次の言葉への期待を膨らませることが出来た。空間がやわらかくなった。
「日頃のことしかない。生活をちゃんとやってくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
「以上」
「分かった。ありがとう。寝るね」
夫は引き止めなかった。
布団に入る。特に楽しい空想とか、瑞々しい気持ちとかはない。時間を奪ってやったという喜びもない。夫は体の一部を引っこ抜かれたような鈍い痛みを抱えているはずだ。それなのに私にその分のプラスはなくて、少し整頓されただけ。
大きなため息をつく。
もう少し、眠れなそうだ。
(了)
真夜中の強奪 真花 @kawapsyc
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