あたしはまだここにいる
木口まこと
全1話
カーテンの隙間から差し込む日差しが眩しくて目を覚ました。あたしは枕元に置いたはずのスマートフォンを右手で探り当てた。七時半。
体を起こし、両手を上に大きく伸ばしてあくびをした。「ふああ」と少し間の抜けた声が出たのを覚えている。
「おはよう」と裕一に声をかけた。いつもと変わらない朝だ。
あたしは今日からこの手記を書く。誰にも読まれない可能性が高いのはわかってる。でも、何かを書き残さなくてはならない気がする。あたしだけじゃなく、みんなが自分の体験を書き残せばいい。万にひとつ、誰かの目に触れないとも限らない。その誰かが何ものなのか、想像もつかないけど。
あたし、わたし、私、いっそ僕。一人称は難しい。あたしと書いたらどういう女を想像するだろう。こんにちは、それともこんばんは。あたしは遥と書いて「はるか」。これを書いてる今は生まれて三十五年め。いつまで書けるかわからない。三十六年めを迎えられるかどうかもわからない。
この手記はあたしからあなたに宛てた手紙、それともものがたり。万にひとつ、あなたがこれを読む時、地球の環境はどうなってるだろう。生命は存在してるだろうか。生命はたくましいから、気候変動も生き抜くんじゃないかな。地球はあたしが知らない生きものであふれてるかもしれないね。
ベッドの横にバスケットが置いてあって、ひと抱えほどある卵のような物体が鎮座している。もっと正確に書くほうがいいな。いちばん長いところが五十センチくらいで、胴のいちばん太いところは三十センチくらい。くらいもなにも、ほんとうは正確なサイズを知ってる。五十二センチと三十三センチだ。少し平べったい。色は濃い茶色。ほとんど黒に近い。裕一が好きだったブーツの色に似てる。
表面はざらざらしていて、硬い。叩けば鈍い音がするのを知ってるけど、あたしは叩かない。ていうか、叩けない。表面に手のひらを当てると、なじみ深いひんやりとした感触が伝わる。
今朝もそうしていたら、ちょっと何かがこみあげてきて、泣きそうになった。朝食を食べてコーヒーをもう一杯飲んでから出かけた。
「行ってきます」玄関を出るとき、あたしはちょっと大きな声でそう言った。
「ねえ、遥」研究所に着くなり、荷物を置く暇も与えてくれずに由香が声をかけてきた。「最近スラジットから連絡あった?」
「わたしにはないよ」答えながらロッカーを開けて、そして、あっと思った。「何かあったの?」って由香に訊いた。
「分からないの。二日連絡が取れないだけなんだけど、でも二日も連絡がないなんてなかったから」由香の声には不安が滲んでいた。
由香はあたしより三つ下だ。妹みたいに思ってるけど、実はあたしより全然しっかりしてる。研究だってばりばりだ。飛び級して博士号を取って、アメリカでポスドクを三年やってからここに来たうちのホープ。そんな由香が今日は心細げに見えた。
「あっちの研究所の人に聞いてごらんよ」とあたしは言った。
あたしがスラジットと最後に話したのは一週間くらい前だ。その時の様子だと、インドの状況は日本とそんなに変わらない感じだった。データの上では世界中どこも似たようなものだ。
一時は世界中がパニックだった。あたしたちは必死で研究してるのに、研究所がウイルスを作ったという噂が流れて、人々が押しかけてきたこともある。でも、近ごろはそんなこともなくなった。みんなもうそれどころじゃないんだ。
あたしたちはとにかくベストを尽くしてる。だってそれしかできることはないもの。
ある意味で不安は当たってた。今朝、スラジットから由香に連絡があった。研究所に入ろうとしたところで暴漢に襲われて、今朝まで意識がなかったらしい。
「生きててよかった」由香がちょっと涙声になってたから、あたしは抱きしめてあげた。
由香とスラジットは愛し合ってる。ポスドク時代に出会って、今は遠距離恋愛中だ。会うに会えない状況だったふたりは一緒に大きな研究成果を挙げてきた。昼は共同研究をして、夜は愛を語り合っていたんだ。たぶん。
「今日はもう帰ったら?」由香を気づかって林田さんが言った。
うちの体制ももうぐちゃぐちゃ。林田さんは副所長だったけど、所長がいない今は事実上のトップだ。もともとはウエットのチームが五つとドライのチームがふたつあったのに、人数が半分になったから、誰がどのグループとか言ってられない。みんなできることをやってる。ウエットの人たちは林田さんが束ねてなんとか回ってる。
ドライのほうはね、実はあたしがリーダーだ。順番でそうなった。ウエットとドライって分かるかな。ドライは情報と数学。
「帰ってもしかたないから」って由香は言って、その午後もコンピュータに向かってた。ふたりの数理モデルだ。由香とスラジットが作った数理モデル。
あたしはいつかふたりが会えることを願った。
三日前にああ書いたけど、今日になって事態は急変した。由香はあたしに抱きついてずっと泣いた。あたしには由香の気持ちがわかる。だって、あたしも同じだったもの。
スラジットは死んでない。眠ってるだけだ。そう、そういう言いかたはできる。できるけど、それが何かのなぐさめになるわけじゃない。スラジットにはもう会えない。ていうか、会ったって意味がない。意味がないと書いてみて、涙が出そうになった。意味はあると思いたいのに、ほんとうは意味がないと知ってる自分が悲しかった。
あたしはただ悲しかった。悲しいあたしが泣いてる由香を抱きしめてた。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。言ってもしかたないのはわかってるけど。
夕べ由香はうちに泊まった。だって誰かがついてないとつらすぎる。
はじめは失踪事件だった。それが続けざまに起きてるとわかるまでにしばらくかかった。あれからまだ一年も経ってないなんて信じられないよ。もう何年も経ったような気がするな。あまりにもいろんなことが起きた。研究所のみんなにも、町の人々にも。政府は次々と人が入れ替わってる。首相が女性だったのはせめてもの幸いだったのかもだ。
ひと晩じゅう泣いて、由香はスラジットが種になったことを受け入れた。だってあたしたちは種子化を研究する最前線にいる。種子化のことなら日本でいちばん詳しいのがあたしたちだ。受け入れるしかないことはわかってるんだ。
「もしこれがおさまる時がきたら」って由香が言った。「スラジットを日本に連れてこようと思う。わたしが見守るしかないから」由香はベッドの横の裕一を見た。
種子化。シュシカ。ちょっと発音しづらい。あたしはときどき「しゅしゅか」って言ってしまって、その時だけちょっとくすっと笑う。
三か月前、裕一が種になった。こっちは、「しゅ」じゃなくて「たね」。誰が読むかわからないから、説明しとかないとね。どうしてひとつの字にいくつも読みかたがあるんだろう。
あの夜、あたしたちは愛し合って、抱き合って眠ったはずだった。朝になって目が覚めたとき、あたしの隣には種になった裕一がいた。
いつかその日がくるとわかってたんだ。そう、毎晩、これが最後の夜かもしれないと思って眠りについてた。眠るのが怖くなかったわけじゃないけど、人間は眠らなくちゃ生きていけない。覚悟じゃないんだ。あたしは、あたしと裕一はそこまで強くないから。いちばん近い感情は諦めだと思う。だって、諦める以外にどうしようもないじゃない。
あたしは、とうとう裕一も種になっちゃったんだなって思った。起きて、クロゼットから大きめのバスケットを出してきて、ベッドの横に置いた。
裕一は見た目から想像するよりは重かった。持ち上げたらベッドがぐっしょり濡れていたので、タオルがいるなと思った。だから、いったん裕一をベッドに戻して、洗面所からバスタオルを持ってきた。
裕一を抱えて丁寧にタオルで拭いて、バスケットに置いた。その横に腰をおろして、裕一だったものを見つめた。
それから、あたしは泣いた。何時間泣いたかわからない。あたしは泣き続けた。あの日、あたしは一生分泣いた。
昨日、一生分泣いたって書いたのに、あれを書いてからまた泣いてしまった。ほんとはわかってるんだ。人は一生分泣き切るなんてできない。涙はいくらでも作られるから。
裕一と一緒に必死になって研究していた頃を思い出した。もちろん由香もスラジットもそうだし、世界中の研究者という研究者がそれまでの仕事を投げ出して、種子化に取り組んできた。原因の究明と治療法とワクチンの開発。
ワクチンって言ってるのは、感染症だと思われてた頃の名残り。だって、普通はまず感染症を疑うよね。すごく奇妙な現象だけど、世界中で起きてたから。種子化のメカニズムが少しずつ解明されてきて、わかればわかるほど予防策なんかない気がしてくる。
治療法か。正直な話、あたしたち研究者は治療を諦めてる。種を調べれば、治療なんてできないのがわかる。だって、種になっちゃったんだもの。政府はまだ治療法って言ってる。でも、あれは世間に向けた嘘だ。治療法がないなんて言えないから。
日本では男性の九十パーセントくらいが種になったと思う。もう誰も数えてないからほんとうのことは分かんないけど、たぶんそんな感じ。どうして男ばかりが種子化するのかはわかってない。女だけが残っても絶滅するしかないんだから、人類絶滅は時間の問題なのにね。
裕一が種になっちゃった頃には研究所ももうほとんど女ばかりだった。裕一は遅いほうだったんだ。林田さんがみんなに声をかけてグループを再編成してくれたから研究所はなんとか回ってた。だって、他でもないあたしたちが研究しなくちゃならないんだもの。
林田さんのパートナーはとっくに種になってた。林田さんが泣くのを見たのはあの日だけだ。
種子化は必ず睡眠中に起きる。初めて種子化の過程が記録されたのはイギリスの病院だった。寝たきりの患者が種子化するところがたまたまカメラにとらえられたんだ。あたしたちもその映像を見て、ほんとにびっくりした。種が身近にある今だって、この過程は信じられない。
頭のてっぺんから急速に硬化が進む。映像ではパジャマが邪魔でよく見えなかったけど、からだが縮んでいくのはわかった。組織が吸収される過程だ。やがて、硬化したからだがパジャマを裂いて、平べったい卵型をした種子全体が現れた。
種子化が完了するまで一時間もかからない。あたしたちはしばらく言葉を見つけられなかった。
「相当な量の水分が放出されてるはずだよね」まだ種じゃなかった裕一が言った。たしかにそれはそうだろうけど、第一声でそれを言うかな。それくらいあたしたちは打ちのめされてたんだ。
このビデオはすぐに研究者に共有されて、そのあと大ニュースとして世界に伝えられた。パニックはそこから始まったんだった。それからのできごとについては、もうあんまり記憶がはっきりしない。前後関係とか、よく覚えてない。あたしたちはただ研究を続けた。
今日は研究でちょっとした発見があった。大脳新皮質の例の場所で遺伝子発現プロファイルが種子化前にどう変化するか、不明だった穴が少し埋まった。それだけあたしたちの知識が増えたってことだ。アメリカのチームが公開したデータをあたしたちが解析した。結果はすぐに世界中の研究者に確認されて、種子化のメカニズムが昨日よりもちょっとだけはっきりした。でも、これがなんの役に立つかはわかんない。なんの役にも立たないかもだ。
知るのはいいこと。知って何かが解決するならすばらしいけど、何も解決しなくたって知らないよりは知るほうがいい。あしたは今日よりもあたしたちの知識が増えているはずだ。だから、あしたも研究するんだ。だって、ほかに何ができる?
種子化についてはもう大量のレポートが出てるから、今さらあたしがここに書かなくてもいい気がしてた。でも、万が一、あたしのこの文章だけが誰かの目に触れることになったらって思うと、簡単にでもまとめておくのはだいじなのかもしれない。わかんないけど。
ケラチンの異常増殖が種の表面を作ることはすぐにわかった。表面くらいなら削ってもいいだろうって、世界中で調べた。でも、どうしてそうなるのか、そこんとこのメカニズムは実は今になってもそれほど明らかじゃない。解明される日はもうこないかもしれない。
種の中の様子はCTで調べられた。衝撃だったな。種って呼ばれるようになったのは見かけが似てるからってだけじゃないんだ。中身が本当に種なんだ。人間だった痕跡はどこにも見られない。組織らしい組織はなくて、何にいちばん近いかと言われたら種子だ。
人間だった頃の意識とか記憶とかはどこに行ってしまったんだろうね。生きた証はどこかに残っているのかな。悲しかったこととか楽しかったこととか。
裕一だったものを眺めて、あのどこかにあたしとの思い出がしまわれているのかもしれないと思う。でも、研究者のあたしは知ってるんだ。人間だった頃の記憶はあの中にはない。構造は何もない。
あれから由香は自分の家に戻っている。「もう大丈夫だから」って由香は言った。大丈夫じゃないと思うけど、でも本人は大丈夫だって言う。
由香はたくさんのアイデアを持ってる。毎日新しいアイデアがわくらしい。それを聞くのもずっと前からあたしの仕事だ。
休眠について由香が話したのは、裕一が種になるよりずっと前だった。たしか、種のCTデータが公開されてからそんなに経ってない頃だったと思う。
「あれがほんとうに種子だと仮定してみるの」由香が言った。「植物のライフサイクルの中に種子があるでしょ。あれは休眠状態なの。活動を止めて、いつまでだってあの状態でいられる」
「植物の種はライフサイクルに完全に組み込まれてるよ」とあたしは言った。「活動してる状態がリミットサイクルになってて、そこをぐるぐる回ってから、外部環境の変化がトリガーになって飛ばされる。飛んだ先が固定点だったら、大きな摂動がない限りもう動かない。それが種でしょ。そして環境が戻ればまたリミットサイクルに戻る。その繰り返し」
「でも、環境が変わらなかったら、いつまででも種のままでいられるじゃない。固定点って、つまりは眠ってるってことよ」と由香。
「あるいは死んでるかね」あたしはまぜっかえした。
「もう、分かってるくせに」由香がじれったそうに言った。
「植物の場合はリミットサイクルから固定点に移る経路とトリガーがあるから種になるんでしょう?」とあたし。
「だからね」由香が続ける。「人間の遺伝子制御ネットワークにも実はその経路があるんじゃないかな」
「動物なのに?」
「でも、そう仮定してみて。何かのシグナルでリミットサイクルから叩き出されて、休眠状態にはいるの。それが種子」
「だって、そんなのおかしいよ」あたしは抵抗した。
「人間の遺伝子制御ネットワークのアトラクターを網羅的に調べた人なんていないし、そんなの不可能だし」由香はなおも言った。「だから、使われていないアトラクターなんか、いくらでもあるはずなんだ。ただ、そこには普通の経路では到達できないだけ。すごく特殊なトリガーでそういうアトラクターに飛ばされる可能性はあると思う」
「たしかに使われてないアトラクターはいくらでもあるはずだね」あたしは認めた。「その中に休眠状態もあるのか」
つまりさ、毎晩眠ってるのはあれはほんとうの眠りじゃなくて、種子こそが人間のほんとうの意味での休眠状態じゃないかってこと。活動状態から休眠状態への転移がなんらかのシグナルで起動される。
「シグナルの候補は?」とあたしは訊いた。
「まったく想像もつかないよ」と由香は言った。
文字通りの種子だっていう仮説は研究者の間に激論を巻き起こした。休眠仮説を考えていた研究者は由香だけじゃなかった。短期間にものすごい数のメールが飛び交って、仮説の支持者は増えていった。
病院で意識不明の患者にありとあらゆる計測器をつないでひたすら待つという研究が世界中で行われた。だって、何がきっかけで種子化するのか、まるで見当もつかなかったから。ケラチンの異常増殖が起きるのは分かっていたから、体表付近の細胞での遺伝子発現プロファイルも調べられたけど、それは種子化の本質ではないなあとあたしは思ってた。
結論を言えばシグナルは脳波だった。種子化の一時間ほど前に特徴的な脳波が発生していることが明らかになった。
それは一見ランダムな波形だったけれども、AIに解析させてみたら、たった三次元の空間に埋め込まれたカオスだった。でたらめに見えた脳波パターンが、同じカオス系の存在を示していた。世界中のデータが一致した。生データで見ると全然違うのに、三次元に埋め込んでストレンジアトラクターを見るとぴったり一致したんだ。これがシグナルだ。
このカオスを見つけたのが由香とスラジットのチームだったんだよ。あれには世界中が驚いた。遺伝子発現が脳波でトリガーされるなんて、誰も考えてなかった。人間だけが種子化する理由もこれで分かった。この脳波は大脳新皮質の人間だけが持つ部分から出てたから。
ふたりはきっと愛を語り合いながらデータ処理をしたんだ。あたしはそうにらんでる。それが成功の秘訣。それを思うと、また悲しくなった。
今日は恐れていたことが起きた。ついに女性の種子化が確認された。台湾からの報告だった。
そうだな、恐れていたというのは違うかもだな。予期していたって言うべきかも。だって、これまでの研究で男だけが種子化する理由は見つかってなかったんだもの。女だって種子化するんじゃないかって考えてた研究者は多い。なんらかの理由でシグナルの発生が遅れてるだけじゃないかって、みんな考えてた。ホルモンと関係あるのかもしれない。
しばらくこれを書く気になれなかった。たぶん世界中にもう男性は残ってないんだと思う。それでも、あたしたちは毎日研究を続けてる。
「ジェインのメールは読んだ?」研究所のロビーでソファに座ってコーヒーを飲んでたら、ウェット・チームのチャンに声をかけられた。彼女も中国に戻れないまま、ここで研究を続けている。ジェインはオーストラリアの研究者。あたしはまだ彼女のメールを読んでなかった。
「種子って、植物が生きていける環境じゃない時期をやり過ごすためのものでしょ。冬とかさ」チャンが隣に腰をおろして続けた。「人間の種子化も環境変化をやり過ごすためじゃないかって、ジェインが言ってる」
「環境変化って」とあたし。
「わかってるでしょ。気候変動」チャンが答えた。
あたしはしばらく考えこんだ。気候変動が閾値を超えたら、それがトリガーになって人間が休眠状態に入る。休眠に目的があるとしたら、それはもっともらしい仮説のようにも聞こえたけど。
「大胆すぎるかもしれないね」とあたしは言った。
「大胆だね。でも、ほんとうにそうなのかもしれないよ」とチャンが応じた。
あたしはコーヒーを口に運んだ。
昨日のことを書かなくちゃならない。昨日はそれどころじゃなかったから。
午後になっても由香は研究所に姿を見せなかった。電話してみたけど応答はなかった。あたしは不安でいっぱいになった。
女性の種子化は世界中で急速に進んでる。研究所の女性研究員ももう何人も種子化してしまった。気候変動がトリガーだと言ったジェインからのメールもとっくに途絶えてる。いったい世界中に何人の生きた人間が残っているんだろう。
「研究はもうおしまい」と林田さんがついに言ったのは三日前だ。今から何かがわかったって、人類の絶滅は止められない。そんなことはみんなずっと前から知ってたけど、それでもあたしたちが研究所に集まっていたのは仲間に会いたかったから。みんな不安なんだ。
裕一が種になっちゃったあと、あたしと由香は何かあった時のためにお互いの部屋の鍵を預かってた、だから、あたしは研究所を出て、由香の部屋に向かった。
ベッドに由香だったものがいたよ。あたしは由香だったものを抱きしめて泣いた。自分でもびっくりするくらい泣いた。裕一が種になったときと同じくらい泣いた。
しばらく由香の部屋にいて、それから由香を連れてあたしの、あたしと裕一の部屋に戻った。
由香は裕一よりちょっと小さかった。同じバスケットに並べて入れたよ。ごめんね、スラジットと一緒じゃなくて。
ジェインの仮説を話したとき、由香が椅子から立ち上がって、「そんなのおかしい」って叫んだのを覚えてる。
「でも、なんのために休眠するのか考えたら、あながち間違いともいえない気もするよ」とあたしは言った。
「そうじゃなくて」由香がまた叫んだ。それから、腰をおろして今度は穏やかな声で「そうじゃなくて」と繰り返した。
「わたしはジェインが正しいと思う」由香が続けた。「種子化は環境変化を休眠状態で乗り切るために人間が備えてた仕組みなんだ。きっとその通りなんだ。気候変動がトリガーになって、人々は次々に種になった。休眠のシステムが正しく働いたんだよ」
「あなたもそう考えるのね」とあたしは言った。「だとしたら、何がおかしいの?」
「だって、ありえないじゃない」由香が言った。「人類が生まれてから、この仕組みは一度も使われなかった。しかも、人間しか持ってない仕組みなんだよ。そんなものが進化するはずがないじゃない」由香は両手で顔を覆った。「ありえないよ……」泣きそうな声でつぶやいた。
ああ、とあたしは思った。あたしがなんとなく違和感を覚えてたのはそれだ。人類が地球に現れてから百万年以上経った今になって初めて発動するようなシステムが進化で生まれるはずはない。そんなことは絶対にありえない。
はろーはろー、これを読んでるあなた。あなたたちがあたしたちの遺伝子にこれを仕組んだのですか。あたしには知りたいことがたくさんあるんだ。あなたは誰なのかとか、どうして人間を選んだのかとか。でもね、いちばん知りたいのはこれ。あたしたちの種から、いったい何が生まれるの?
人間じゃないと思うの。だって、もう人間を再構成できるとは思えないもの。休眠の固定点で次のトリガーが働いたら、今度は別のリミットサイクルに行くと思うんだ。種だから植物になるのかな。あたしたちが森になって、地球を覆うんだろうか。それならそれで美しいよ。それもいいな。
はろーはろー、あたしはまだここにいる。ここがあたしの帰る場所だから。裕一と由香がいるから。ここにスラジットがいないのは残念だな。
世界にはまだいくらかは人間が残ってる。でも、もうじきみんな種になってしまうんだ。明日のことはわからないよ。怖いのとは違うな。怖くはないよ。裕一と由香がいるから。
はろーはろー、あたしの言葉は届いてるかな。あなたがこれを読んでくれてるならうれしい。
あたしは明日目覚めるかもしれないし、目覚めないかもしれない。今夜このまま種になって眠り続けるかもしれない。だから、これから毎晩最後の言葉を書くよ。最後の言葉の数だけ、あたしは人間でい続けるんだ。
そうして人類は永遠の眠りについた。これが最後の言葉。だって種になっちゃうんだし、種から何が生まれるかわからないんだから。あたしは人類が、っていうかあたしたちが生きた記録を書き残してる。あたしたちが今まで懸命に生きてきた記録。おやすみ、世界。あたしはまだここにいるよ。
はろーはろー、あたしはまだ人間だ。今朝も裕一と由香におはようを言った。それから残ってる水で洗濯をした。
公園に行ってみたら、高校生の女の子がブランコを漕いでた。家族はみんな種になったって言うから、うちにおいでって誘った。家族が増えたよ。美知子っていうんだ。あたしの新しい妹だ。あなたが読んでくれてると期待して、今夜も書いてるよ。おやすみ世界。あたしはまだここにいるよ。
はろーはろー、今朝起きたら美知子が種になってた。せっかく昨日家族になったばかりなのに残念だな。バスケットをもうひとつ出してきて美知子を入れた。涙は出なかった。あたしはもう泣かない。あたしはもう誰のためにも泣かない。
おやすみ世界。あたしはまだここにいるよ。
あたしはまだここにいる 木口まこと @kikumaco
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます