御伽草子に簪を添えて
藍染三月
御伽草子に簪を添えて
悄然とした夜道で
足元が見えるほど明るいのはこの大通りくらいで、一歩
黒み渡った道へ
うらさびれた道でいくつもの音が鳴る。雨の
閑道の
「……運がいいな。今日はアタリの仕事か」
独り言ちるも呼応する者はいない。妖異は猫を取り落として僕をめかりうつ。そうしてまなじりを裂いた形貌は、真に化物。
利刀を鞘から引き抜いた。左手首を右脇に引きつけて腰骨の上へのせる。突きの型に構えた切っ先が狙うのは奴の
刀尖が雨粒を
骨を削り砕いた手ごたえがありありと腕を震わせる。妖異は貫かれたまま身動ぎしていたが、刃を引き抜いてやればすぐに事切れていた。
刀を鞘に収め、赤々とした水たまりを踏み付ける。
内臓を喰い千切られた猫の亡骸にそっと触れた。小さな体は余喘さえ漏らすことなく、ただ静かに瞑目していた。それを抱き上げると、自身の着物が猩紅で絵取られていく。冷雨のせいでその血の温度は分からなかった。
「
寂び返った道に、場違いなほど明朗な声が響く。駆け寄ってくる少女を
「
「そうそう! 呉服屋で毎晩着物が一着ずつなくなってるやつ、やっぱり妖異の仕業だった。朔は猫探しだったけど、猫ちゃん……」
「もう喰われてた。遺体をこのまま飼い主に渡すのもどうかと思うし、せめて傷を覆い隠してから受け渡すつもりだ。もう遅い時間だから、明日になるが」
澪は着物を丁寧に畳みながら、こくこくと頭を動かして
雨下で濡れそぼった柳髪をちらと見て、彼女の袖を引っ張った。
「今日はもう帰るぞ。そっちは
「でも、お寺の方で最近子供が行方不明になってるって。それも妖異のせいじゃないかな」
「それは巡査に任せておけばいいんだ。僕達の店に依頼が来てるわけじゃないんだから、金にならない」
角灯の明かりが水溜まりを色付けて明滅する。揺動する光を蹴り飛ばし、
「お金かぁ……依頼、どんどん減っていっているもんね。瓦斯燈とか電気燈が増え始めてるから、夜でも街が明るくなってて妖異自体も減ってる気がするし」
「そもそも、妖異が見える人間すら年々いなくなってるって噂もあるんだ。時代が進むにつれて妖異退治店なんていらなくなるさ」
普通の人間は妖異を視認することが出来ない。幼子や、死期の近い者は妖異を
木造りの戸を引き開けて土間に踏み入る。澪は式台に角灯を置いてから、濡れた着物の水を払っていた。
「ちょっと朔、そんなこと言わないでよ。父さんと母さんの代には繁盛してたのに、このままじゃ私の代で終わりだよ……」
「仕方ないだろ。そもそも、妖異に悩まされる人間がいなくなるのは良いことなんだから」
「まあそうだけど……そういえば、依頼の手紙、もう一通あったよ」
「内容は?」
「えっとね……流行り病は妖異のせいだと思うって」
「ないだろ。ハズレの依頼だ、ほっとけ。いいから着替えて寝ろ」
近頃流行している病。熱が出て悪夢に魘される、程度の症状を聞く限り、それは
土間に荷物を置き去りにしたまま、座敷へ上がっていった澪の刀を見下ろす。短刀ほど短くはないが、打刀ほど長くもない脇差。もともとそれを使っていたのは彼女の母親だ。そして、僕の腰に在る打刀は彼女の父のものだった。
実の両親の顔は思い出せない。それゆえ僕にとって、澪の両親が親のような存在であり、店を潰したくないという気持ちは、彼女の意念と同じほどの熱を帯びて、この胸臆で揺らめいていた。
*
血と脂と泥を拭い去った猫の亡骸は、今頃飼い主たる女性の手で埋葬されているのだろう。彼女の
気色ばんだまま意味もなく街を歩き、光風に遊ばれた髪を片手で払う。店を出たのは朝だと言うのに、気付けば陽が赤らびいていた。ぶらぶらと
妖異退治店の戸を潜って室内に上がると、帯刀した澪とぶつかりかける。
「朔、ちょうど良かった。お寺で子供が行方不明になってる事件、親御さんから依頼が来てたの。行こう」
「今からか? まだ日が落ちてないぞ」
「ゆっくり行けばその間に夜になるよ。弱い妖異なら子供を怖がらせているだけだろうけど、強い妖異だと臓器を食べようとするから早い方がいいでしょ。ほら刀持って」
元来、人の恐怖や思い込みが実体化した、とも言われる妖異は、その姿やその名に向けられる嫌悪と恐怖を力にする。矮小で名もない妖異はたいてい力も弱く、人を襲えずに動物を喰らう。今回子供を攫っている妖異が小物であることを願って
差し出された刀を腰に収め、足を踏み出す。と、澪に腕をぐいと引かれて
「待って、今日はまだ朔におまじないかけてない」
「またアレか……毎日毎日、よく飽きないな」
「飽きる飽きないの問題じゃないんだよ。いいから目瞑って」
少女のしなやかな繊手が額に触れる。促されるままに
満足したらしい澪の、熱い体温が遠ざかり、目を開ける。彼女はというと、既に外へ踏み出していた。彼女の自由奔放な性質に溜息を吐いてから、僕も陽射しを浴びに行く。
晩景を駆けていく夕烏が淡い夜を引き連れていた。茜空が少しずつ桔梗色で賦色されていく。頭上を
兄弟か、はたまた友人か。仲の良さそうな少年の、遠ざかる影を一瞥してから瞬目する。自分も、幼い頃はあんな風に駆け回っていただろうか。
思惟に沈み始めた意識を、澪のかわらかな声が引き上げた。
「少し暗くなり始めてきたけど、やっぱり瓦斯燈があるから明るいね。昔はこの時間でもだいぶ暗かったのに」
「何百年とか過ぎたら、夜中でも昼間みたいに明るいんだろうな」
「そんな世界でさ、妖異はどこに行っちゃうんだろう」
「……澪は、妖異退治をしているくせに、妙に妖異を気にかけるよな」
「だって、悪さをしない妖異だっているもの。私、昔は妖異と文通をしてたんだよ」
「文通? 喋れる妖異もたまに見かけるが、それなら普通に話せば良かったんじゃないか?」
「幼い頃は、妖異を見ることが出来てもその声が聞こえなかったから」
行路の先を
「ねえ見て、あの簪すごく綺麗……! 朔、買って、誕生日の贈り物ってことで買って」
「お前の誕生日は冬だろ。というか簪、持ってなかったか?」
「この前壊れちゃったんだ。大事な人にもらったものだったんだけど」
ふうん、と適当に相槌を打ちながら、簪をちらと
「ねぇ、人と妖異が恋に落ちたら、どうなると思う?」
「なんだそれ。……文通してたやつの話か?」
「んー、まあ、そんなところ」
値札を一見した澪が、苦笑して簪を元の位置に戻す。跫然となびいた翡翠の
僕にとって彼女は、仕事仲間で、相方のような、それだけの存在だ。それでも共に過ごしてきた彼女が、他人を、まして妖異を特別視しているのは、あまり良い気はしなかった。ふつふつと浮いてくる苛立ちを飲み込んで、
「澪。この時代で妖異に恋なんて、するべきじゃない。人が妖異のことを見えなくなる可能性が高いし、明るくなる世界に妖異が耐え切れないかもしれないしな」
「うん……そうだよね。昔だったら、人と妖異の恋物語とかあったのに」
「そんな話があるのか?」
「あるよ。えっとね、この街に伝わってる御伽草子。人間の女性と、妖異の男性が出会って恋に落ちて、子供と一緒にしばらく仲良く暮らしてたんだって」
「子供……その場合、子供は人間と妖異のどっちになるんだ?」
「半分半分。初めは人間と妖異の要素が半分でもさ、成長していくにつれて、妖力ってどんどん強くなっていくみたいだから。どんどん、人じゃなくなっていくみたい」
それは、澪が恋をしていた、文通をしていた妖異の話なのだろうか。彼女は、妖力が強くなった思い人を、その手で殺めてしまったのだろうか。それとも、その妖異を探しているのだろうか。
少しばかり俯いた澪の、その心を映し出すように、夜の気配が空を搔き暗す。店や民家の多い繁華な道を抜け、寺に近付けば近付くほど、冷たい夜風が皮膚をすべる。傾いていた日輪が地平線に喰われると、空は夜を吐き出した。人通りの疎らな通りがじわじわと濃藍で満ちていく。
「その御伽草子、どこにあるんだ?」
「読んでみたい? けど……うーん、どこにやっちゃったかなぁ」
「じゃあ結末だけ教えてくれ」
「……その子の父親が、電気の明るさから逃げるように消えちゃって。母親と子供は、父親を捜しているうちに崖から落ちちゃった」
「そう、か」
慮外にも悲劇だった御伽草子に、眉を顰めつつ胸を撫で下ろした。澪が、大切な人をその手にかけていなかったことに、安堵した。ふ、と息を吐き出すと、鞘から秋霜を引き抜いた。僕達は寺の門を潜る前に、足を止めていた。
子供の欷泣が聞こえる。声の出処は門の先だ。空気が膨張するように、大きな硝子玉を置いたみたいに、景色が歪んで膨らんだ。月気が虚空を色付けて異形の輪郭を辿る。その妖異は、
「朔、あれ……」
「あいつが子供を攫ったんだろうな。子供の泣き声はまだ遠い。多分、寺の中か、或いは建物の裏だ。妖異は僕が倒すから、澪は子供を頼む」
視界の隅で、澪が寺の講堂の方へ駆け出していく。その気配はすぐに気づかれたらしい。大塊の、鬼のような妖異が、太い腕を振り上げていた。
歯切りしながら地を転がって引き退く。妖異の手は砲声じみた地響きを轟かせ、大地を揺るがす。奴の攻撃は終わらない。羽虫でも払うようにこちらへ腕を振るってくる。後退して避け、躱し、刀で受け止める。
かち落とされる力を上から下へ受け流すように、防御の形に構えて防いだ。右足を擦り鳴らして後退するとともに、柄を右頭上へ引きつけ切っ先を下げる。それを右に左にと繰り返す砂利の音と、弾かれる金属の
子供の泣き声が、奴の背後で上がった時。奴は僕に背を向けて、自身の背よりも低い講堂を見下ろした。
その、
閃いた太刀影。そこには迷いも擬議もない。打ち放った矢のごとく、真っ直ぐに、
化物の皮膚を裂き、肉に沈む刀。骨の繋ぎ目さえも穿孔して皮下組織をくぐり抜けた鋭刃は、僅少の沈黙ののちに月光を浴びていた。
けざやかな赤が溢れる。妖異は首を垂れたまま、膝を突いて俯伏する。転がった頭部も、残された躯幹も、雲霧に紛るように崩れていった。
剣先を鞘に収め、寺を顧望する。講堂の端、木暗がりの下では、澪が二人の子供と手を繋いでこちらを見ていた。口を開けたままポカンとしている、その気抜けた顔様に思わず片笑みを浮かべてしまった。
「何してるんだ澪。妖異はもう倒した。早く子供達を送り届けるぞ」
「朔すっごい……! どうやってあんな高さの首を落としたの!? 飛んだの!?」
「飛べるわけないだろ、人間なんだから。あいつの背中を伝っただけ──」
子供から手を離し、駆け寄ってきた澪がたたらを踏んで転びそうになる。ひらめいた袖を手繰り寄せてどうにか抱き留めれば、苦し気な片息が首をかすめ、戸惑った。
「どうした、大丈夫か?」
「ごめん……なんかずっとフラフラしてて……限界かも」
「っ、おい!?」
辛うじて立っていた彼女が、脱力して僕に身を委ねる。布越しに染みてくる体温がやけに熱い。思えば、おまじないをかけてくれた時も彼女の手は熱を帯びていた。
煩憂の赴くままに彼女を抱きあげた
*
澪が患ったのは、例の流行病だった。医者は、僕達が妖異退治店の人間だと知ると、流行病の変わった症状を教えてくれた。なんでも、患者はみな妖異を見たことがある人間で、熱に浮かされるなか、妖異の夢を見ていたらしい。
けれど病が治ってから、いわゆる霊感や第六感のようなものが失せてしまって、妖異を感じることすら出来なくなった、という患者が多くいたという。
魘されながら眠り続ける澪も、妖異の夢を見ているのだろうか。日常と変わらず妖異を退治する夢か、それとも、文通をしていた相手の、夢か。
濡らした手拭いを絞って、彼女の赤らんだ額にそっとかける。枕に横たわった花貌を憂わしげに眺め、頭蓋から響いてくる鈍痛に眉根を寄せた。
僕も病に罹ったのかもしれない。内側から額を喰い破るような痛みに、そう思い込んで
「朔……? どこか痛いの……?」
「……僕はなんともない。お前、昨日は丸一日寝てたんだぞ。何か食べるか?」
「ねえ、疲れてるでしょ。いつも以上に声ちっさくて聞こえなかった」
「いつも声が小さくて悪かったな。飯でも食うかって聞いたんだ。でもまぁ、とりあえず水でも持って──」
「待って、おまじない!」
まだ残夢に浸かっていたような澪が、出し抜けに叫んだものだから瞠若した。立ち上がろうとした腰を下ろすと、向かい合う彼女は上半身を起こしていた。暗影がその面持ちを覆っていく。深刻な顔をする理由には見当もつかず、首を傾げた。
「昨日……おまじない、かけられなかった」
「別に、妖異退治には出掛けてないしいいんじゃないか」
「よくない。かけるから。お願い、今すぐおまじないをさせて」
震え声で哀願されては、その手を払って
だが、あからさまに避けた方今の態度は不審だったろう。
「ご、めん。寝ぼけてるのかな。おまじないの言葉が……思い出せなくて」
「……疲れてるんじゃないか。お前、流行病に罹ったみたいだぞ。どうやらあの病、過去に妖異を見たことがある者ばかり罹ってるらしい。完治後に妖異を視認出来なくなるって」
「なに、それ……普通じゃない人間を普通にする病、みたいな感じなの? それじゃあ、私はもうおまじないを使えないし、妖異退治も出来ないし、私……」
「別に、お前が戦わずに生きたっていいんじゃ──」
「よくないよ……! 朔と一緒にいられなくなっちゃうのに!」
澄んだ硝子玉のような明眸が、濡れた眼差しで僕を射る。水面のごとく揺らぐ虹彩は容易く僕を縛り付けた。顔を背けられないまま、虚像の僕が彼女の涙に溺れていく。
彼女の言葉を脳裏で
案出される答えは、どんなに思考を巡らせてもただ一つ。否定しようがないほどに、この身に走る痛みが正答を突き付けてくる。
無感情に吐いた息は、感情的にひどく揺れていた。
「それは、僕が妖異になるからか?」
緘黙は、言葉よりも雄弁だ。澪の表情で、真実を悟ってしまった。痛む額に手を当てて、苦笑した。今に至るまで何度もソレに触れ、錯覚だと否定し続けた感触。前髪の下で浮き上がっているものは、紛れもなく、妖異の角だった。
「澪は、知ってたんだな。僕は……何も知らなかった」
「うん……私達、親同士の仲が良かったの。昔は私の両親が、朔の妖力を抑えるためにずっとおまじないをかけてた。でも、貴方は街からいなくなったお父さんを探して、お母さんと一緒に崖から落ちて。全部忘れちゃった」
眼裏で回視したのは、簪を見ていた彼女。思い
「……あの御伽草子は、僕のことだったのか」
「うん。……ねえ、朔の人生が悲劇になるなんて私は嫌だ。私はもっと、朔のそばで、もっとたくさん、貴方が笑うのを見ていたいよ」
大粒の涙を零してしゃくり上げる彼女の、乱れた髪をそっと撫でた。梳いてやる程度の弱さで、体温を伝えられるほどの強さで、撫でてやった。
「いいから、寝てろ」
「っでも、寝て起きたら見えなくなっちゃうかもしれないのに……!」
「そうしたら、手紙を書き合えばいいだろ。お前の想い人みたいに、良い文は綴れないと思うけどな」
面食らったように、泣き顔がとたんに呆けていく。それがおかしくて笑みを向ければ、澪も破顔していた。涙痕を両手で拭った彼女が
僕の肩に顎をのせて、凭れかかったまま、澪は笑声を吹きこぼしていた。
「朔、もしかして私の文通相手に嫉妬してるの?」
「してない。茶化すな」
「だっておかしくって。私と文通してくれてたのは、貴方なのに」
今度は、僕が目を瞠るほうだった。思い出せない過去の中で、言葉を交わせなくとも、妖異の血が流れていると知っていても、幼い彼女も僕と関わろうとしてくれたのだろう。昔を思い描くだけで、頬が緩んでいく。
僕達はそのまま褥に倒れ込んで、他愛ない思い出話を交わし合い、眠りについた。
次に目覚めた時、澪は僕の姿が見えなくなっていた。声を上げて泣き、憂き音に沈む彼女に手紙を差し出して、僕達の文通が始まる。綴られていくのは単なる無駄話や下手な絵が多い。一日に一通、と決めても結局何通も送り合うことばかりで、次第に筆談じみてくる。けれどもそれが楽しかった。
いつの間にか立派になった角に触れて、文面に悩む。文字を見つめて微笑む澪に手を伸ばし、空を撫でて苦り笑う。
そんな日々を送り、空から
簪が欲しい、と言っていたことを思い出して、澪が寝ている間に探しに行った。勁雪で覆われた地面に、いくつもの白片が溶けていく。銀世界が朝影を反射するものだから眩しさに目を細めた。
開店したばかりの小間物屋を眺めていく。妖異に近い肉体が人に認められることはなく、店主が所在無げに欠伸をしていた。店先から店の奥までぐるりと見て回り、小棚の上で咲き誇る月下美人の
澪の喜ぶ顔が見たくて、柄にもなく
取り落とした簪の琅琅とした音色と、拾い上げた紙の擦過音だけが、虚しく響いていた。
『見えることも、触れることも出来ない私が、貴方を縛り続けるのは間違ってる。だから、これで終わりにしたい。貴方はどうか、貴方の人生を生きてほしいの。だけど、一つだけ忘れないでほしい。絶対に人間の血を口にしないで。貴方が人の血を口にすれば、理性を失くして心まで鬼になってしまうから。どうか、貴方の綺麗な心を、失くさないでいて。私は、優しい貴方が大好きでした』
*
自分の人生など、僕には分からなかった。大切なものなど、この店にしかない。彼女と関わりのない道を選ぶことなど、出来なかった。
少しだけ、恨み言を紡ぎたくなる。一人で何度も月の
無人の店を壊そうとする人間を、幽霊さながらに脅かして追い払い、気まぐれに妖異退治をする日々。何百、何千も朝を見て、見飽きた満開の桜を、店の屋根の上から眺めた。無為に佇んで、やがて夜になる。
頭上では
洋装を纏った男が通り過ぎ、和装の女が歩き去る。真っ白な髪の老女が緩慢に石畳を踏んで、ふと立ち止まった。おもむろに、満天の星空を、僕を、見上げた。
──普通の人間は妖異を視認することが出来ない。幼子や、死期の近い者は、妖異を目睹することが出来る。
僕は、老女の前に降り立った。からん、と
「どうして、ここにいるの……」
「良かった。見えてるんだな。お前なら、死ぬ前には帰ってくると思ってたんだ」
「私が、分かるの? こんな、おばあちゃんになっちゃったのに」
「分かるに決まってるだろ。何年お前を見てきたと思ってるんだ」
夜燈に溶かされてしまう幻想のような、かつての少女のような、あだない微笑みが実体を持って現前に在る。その事実が喜びとなって肺を満たし、僕を息衝かせる。澪の掠れ声が夜風に運ばれた。
「私……朔と過ごした日々が、全部夢みたいだった。何も、持ち出さなかったから」
「……それなら、今日のことは、夢にしないでくれ」
懐から取り出した簪が、街燈と月明りに濡れて煌めく。簪の花弁に似た白らかな柳髪を、指先ですくった。
あの日より、ざらついた髪の感触。あの日より、低くなった背丈。あの日の面影を残したまま、月日を物語る一つ一つの変化を見つめて、微笑んだ。
「これは、お前が姿を消した日に渡すつもりだったものだ。付けてやる」
「そ、そんな可愛らしいもの、今の私じゃ似合わないでしょう……」
「そんなことない。いいから、後ろ向いてくれ」
促すと、彼女はしとやかに口元を隠し、照れくさそうに眉を寄せながらも、後ろを向いてくれた。長い髪をまとめて、簪をさしこむ。そのまま捻って固定してやれば、終わりを感じて振り向いた彼女が、静かに一笑してくれた。
僕は月下美人の花にそっと触れ、紅燭で色付いた頬を包み込む。柔らかな双眸が僕だけを見ていた。その瞳に僕が映っているのを確かめたくて、互いの睫毛が触れるほど近付いた。そうして耳元でささめく。この声が、しかと届いていることを感じ取りたかった。
「澪。お前と会えるのは、この時しかないと思った。だから、ここでずっと待ってたんだ。どうしても、もう一度だけお前に会いたかったから」
掻き抱いた体は、花物のようにか細い。けれど抱き竦めた彼女は、冷え切った僕に熱を思い出させてくれた。震えながらも、僕の名前を絞り出した彼女の音吐。それが、胸郭を暖かく染めていった。
人は、この温度を幸せと呼ぶのだろう。
御伽草子に簪を添えて 藍染三月 @parantica_sita
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