怪物の見える穴

海沈生物

第1話

 不眠症で眠れない夜に箱で買ったドーナツを暴飲暴食していたら、中心の穴の向こう側に「怪物」が見えた。「いや、そんなことはあり得ない」と頭を振り、手元にあった目薬を両目に二、三粒ほど点眼して、もう一度穴の向こう側を覗いた。―――――いた。部屋の中心に、一応人型ではあるが、真っ赤な目を三つ付けた見た目の怪物が鎮座していた。


 その怪物はドーナツの「穴」を通さなければ、観測することができなかった。ドーナツの穴から目を逸らして、裸眼で見ようとしても、そこにあるのはただの虚空のみである。怪物の姿を観測することはできない。


 怪物は私の存在に気付いていないらしく、悠々自適に空を舞い、部屋の上にあるフラスコ型の電球を「じぃー」と三つ目で見つめていた。一体、電球なんて見つめて何が面白いのだろうか。今時はLED電球が普及しているため、私の部屋の旧式の電球がもの珍しいのだろうか。人間である私には理解できない価値観であるが、多分大正時代の文化を「大正ロマン」と言って持て囃すようなもの、なのだろう。確信は持てないが。声をかけて、実際に聞いてみようか。そっと手を伸ばして聞いてみようとする。


 だがちょうどその時、お腹が「きゅー」と鳴った。今朝から水以外何も飲み食いしていなかったので、かなりお腹が空いているようだった。その怪物がこれからどうするのかという動向がとても気になったが、これが原因の飢餓で死んだのなら、シャレにもクソにもならない。それに、向こう側から「会話」することを「拒絶」されたのならメンタルの弱い私は立ち直れる気がしない。仕方なく、穴を覗いていたドーナツを一口で食べてしまう。その日はもう、その三つ目の怪物の姿を見ることはなかった。


 しかし翌日の夜のことだ。相変わらず不眠症で眠れない夜を過ごしていた。昨日ドーナツを暴飲暴食したせいかお腹の調子が悪かった私は、ぎゅるぎゅると鳴るお腹を抱えながら「最悪……」と負の声を漏らしていた。


 その時ふと、昨夜のことを思い出した。あの怪物はまだ、この部屋にいるのだろうか。昨夜はドーナツの「穴」越しに怪物が見えたことを思い出す。穴。穴を作れば、またあの怪物を見ることができるのだろうか。見た所でどうするんだと思いつつ、身体は勝手に親指と人差し指で「穴」を作って覗いていた。そこにはなんと、まだ怪物の姿があった。


 彼女は私の机の上にあるデスクトップパソコンを眺めていた。給料数か月分を貯めて購入した総額数十万の品である。パソコンの「パ」の字も知らないような会社の古びた頭の老人たちや恋愛至上主義で生きている友人たちに紹介する理由もなく、フォロワー数の少ないSNSに「ついに買ったぜ!」と写真を自慢する程度にしかできなかった代物である。そんな価値あるモノを、三つ目の怪物にジロジロと興味深そうに見られていた。昨日は古臭い電球を見ていたので「古いモノ」に興味があるのかと思ったが、それと同様に「新しいモノ」にも興味があるらしい。


 ともかく、リアルで自分の趣味を共有できる相手のいない私にとって―――――それが人間ではない"怪物"であったとしても―――――現実の"誰か"に「私」の趣味に……「私」に興味を持って貰えたという事実は、自制心のくさびがぶっ壊れてしまうぐらいには嬉しいことであった。


 できるのなら、がそんなに気になったのかを聞いてみたい。人間ではない怪物にとって、この黒い箱のに興味を持ったのかを尋ねたい。それは別に専門的な話ではなくてもいい。ただ「この箱、なに?」みたいなざっくばらんで抽象的な質問でもいい。ただ彼女と目を突き合わして、言葉を会話かわしてみたい。


 まるで知らない誰かにポンッと背中を押されたように、私は一歩、前に進む。緊張からむやみやたらに高鳴るコミュ障の心臓に「陰キャの人間がよ……」と自嘲する。けれど、そういう内面的なことはどうでもいいのである。今大事なのは「怪物の彼女と"会話"したい」という目的を達成することのみである。ねちゃねちゃした気持ち悪い内省など、言い終わった後にすればいい。大きく深呼吸すると、私は三つ目の怪物に目を向ける。


「―――――あ、あの。そんなに……あっ、その。私のデスクトップパソコンを見て、何が楽しいんですか? ……いいいいや別に責めているわけではなく、単純な知的好奇心と言いますか、くだらない探求心と言いますか……そういうアレで気になっている、のですか……」


 ついつい早口になってしまったのに、死にたくなる。何を勝手な事を言って、勝手にテンパって、変な訂正をしているのか。私はどうして、こんなにも言葉を上手く伝えることができないのだろうか。水槽の酸素ポンプから発生する泡沫のようにぽつぽつと思い浮かぶ内省の言葉たちに、今すぐ舌を嚙み切って死にたい気持ちになる。


 もう死のう。あぁ、今死のう。ここで首を切って、死んでしまおう。そんな希死念慮の嵐が私の思考を覆い、どうか時よ戻ってくれと何度も胸の内で繰り返した。


 そんな私の気持ち悪い内省の一方、目の前の怪物はぽかんと三つ目を開けて私を見ているだけだった。その目は電球やデスクトップパソコンを見ていた時と同じ、あの興味深そうな目であった。


(み、見られている……っ!? 私を? 電球やパソコンみたいに新しくも古くもない、ただの量産型みたいにいる人間たちの内、ただ一人の私を……!?)


 困惑と共に奇妙な喜びが私を包み込んでいた。沢山いる人間の中で、私の趣味だけではなく、私までを観測してくれている。もしかすると、この部屋に来て電球やパソコンを見ていたのも「古い」とか「新しい」とかそういうのではなく、「私」という人間に興味があったからこそ見ていたのではないか。それが自惚れかもしれないと自覚しながらも、自制心の楔が外れてしまった私にはもう自分の感情の衝動を止めることはできなかった。今までの人生の中において「"誰か"からされる」ということが生まれた瞬間ぐらいしかなかった私にとって、それはとても、信じられないほど嬉しいことであった。


 私は背中にぐっしょりと汗をかきながら、彼女の目に映る自分がどのようなものであるのかということについて頭を悩ませた。「なんか慌てふためいていて、かわいい!」だろうか、それとも「奇妙な言葉を話す生き物だ……」だろうか。はたまた、「オタクみたいな喋り方をしていて、きしょい」だろうか。そのどれにしても、良かった。ただ、彼女が私を見てくれているという事実だけで、それだけでもう胸がいっぱいだった。


 だからつい、私はもう一歩踏み出してしまった。穴の向こう側にいる彼女に、親指と人差し指の穴越しの彼女に左手の人差し指を伸ばした。それは自制心を失い身勝手なモノとなった「期待」から来る行動だった。きっと、私の方から歩み寄れば、彼女はもっと「注目」してくれる。そういう類の、気持ちが悪い「期待」からの行動だった。


―――――そんな期待があったからこそ、私の左手の人差し指が一瞬の内にした事実を理解できなかった。あったはずの場所に指はなく、ただ時間差で多量の血と共に信じられないほどの痛みが襲い掛かってきた。


「どうして」

「なぜ」

「私に"注目"してくれていたんじゃなかったのか」

「私を"好き"になってくれたのではなかったのか」


 そういった言葉を発する隙はなかった。怪物は人差し指を食べたのをきっかけに、左手首、左腕、左肩とバリボリと身体を食していった。骨が砕かれる度に嗚咽のような絶叫を響かせ、響かせ、響かせた。

 せっかく、私を見てくれたと思ったのに。どうして、こんな、こんな。これは、あまりにも酷すぎる行いだ。あまりにも酷薄な裏切りだ。誠に遺憾だ。などと心中でお気持ちを表明している内に、今度は右脚が骨ごと丸呑みされた。このあたりから、もはや人間的な感覚というものがなくなってきた。身体の感覚は完全に喪失し、ただそこには「数秒後に死ぬ」という事実だけがあった。


 音もしない、血の匂いもしない、触れた感触もない。そんな「死」という現象に最も近い状況に陥る中、私はまだ食べられていない右手の人差し指と親指の「穴」から怪物の姿を見る。せめて……せめてこんな理不尽な殺人カニバリズムをするのなら、私を見ていてほしい。私の最期を「注目」していてほしい。


 だが、そんな淡い「期待」をよそに、「穴」の向こう側にはもう誰もいなかった。あの怪物の姿はどこにも見当たらず、ただ虚空だけが無意味な顔をして広がっていた。私は最早出すことの叶わない嗚咽を上げながら、左半身だけ喰われて放置されてしまった自分の悲境に、ただただ狂いそうになっていた。

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