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「でも、日本は沈んだよ」

 それを聞いて、ケイはやんわりと否定するように、小さく首を横に振った。

「違う、あの小さな小さな島は、自ら再構築を望んだんだ」

「なぜ」

 さあね、と硅は言う。

「それはお前の方が分かるんじゃないのか。あれはお前の故郷だろ。お前の故郷で、お前自身だった」

「ねえ、君は僕の知っている人によく似ているよ。日本で沈んだ人だけど」

 その人は数学者で、僕の師で、日本とともに沈んだ。あらゆる言葉は崩壊し、海に零れ、やがて何もなくなった。そういう最後を見届けて、僕はこの街に逃げ込んだ。そして、僕はその人を待っている。いつまでも、ここで。

 硅は言う。

「そりゃ、誰かには似ているだろう。ここは夢だからな」

 そのとおりだ。

 けれども一度意識してしまうと、考えずにはいられない。僕は目の前にいる硅が、いなくなったその人に思えて仕方なかった。目の前にいる硅もまた夢なのかもしれない。硅が硅という一人の人間であることと、この街においては何も矛盾しない。

「似ていると言ったのはね、その人と、最後に話をしたことを思い出したからなんだ」

「どんな」

 僕は、記憶の中の彼の言葉を再生する。

「生命には、言葉と同じ欠陥がある、って」

 彼の言葉が、彼の声で頭の中に再生された。

「正しく並んでいなければならない。遺伝情報は、並びが異なればきっと別の生き物になってしまう。ばらばらになれば、生命ですらない」

 元どおりにすることは出来ないのかと、そのとき僕は問うた。

「やり直せばいいさ、別の生命を」

 あの人はそう笑った。僕には、想像もできない。でも、そんな話をしたのだ。

 そして、僕はまだ夢を見ている。

「僕らの夢はどうなるんだろう」

「バラバラになるさ」

「それは知っているよ。でも、バラバラになって、再構築されたとして、その部品も言葉なら、新しい世界だって言葉なんだ」

 でも僕はそれが嫌だった。

「もう、それは違うものだよ」

 どこか別の、僕がいない世界で、あの人だったものは夢から覚めて呼吸をする。硅だったものも、そうだ。そしてそれは、とても恐ろしいことだった。

「残したいならば、書き留めることだ。諦めずに。香りくらいは、残るだろう」

 何も言えずにいる僕に、諦めずに書き留めること、と、硅はもう一度、ゆっくりと言った。

「そうすれば、どこかの世界のどこかの隙間に言葉が届く」

「そうかなあ」

「そうだよ」

 そうしているうちに、彼は静かに、ゆっくりと、崩れていった。石と土と風に、音と光と小さな影に。それらは彼の残した感情と記憶がそっとまとわりついたまま砂のように零れた。

 僕は、消えていく硅に託す言葉を探す。どこかの世界に、できればあの人がいる世界にするりと入り込める言葉であってほしいと僕は願った。

 この世界の終わりに僕がここにいたこと、終わりゆく夢と、この街、硅のこと、失った人と、失えなかった悲しみと、最後に残った紅茶の香りと。今、こうして書いてきたことがきっと、すべて――

 今、君がいる世界ができる前に、どこかに存在した世界の終わりの景色だった。


<了>

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上海の夢 佐々木海月 @k_tsukudani

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