3

 ある日、ケイはいつもより早い時刻に現れた。西日は眩しいけれど、暮れるまでにはまだ少しだけ時間がある。そんな時刻だ。

「この街はまだ夢を見ているんだよ、遠い夢を。昔から、ずっと変わらない」

 そんなことを言いながら、どこかで見つけてきたという焼き菓子の缶を取り出した。紅茶を淹れろ、ということらしい。

「五輪だっけ」

「違う、万博だ」

 僕は歴史には弱い。五輪も万博も、一体どういう種類の祭りだったのか知らない。

「そろそろ限界だな、ここも」

 硅は、レーズンの入ったクッキーをかじりながら、外を見ていた。窓は広く、いつも開け放されている。夢を迎えるためだ。ここにはもう雨もなく雪もなく風も吹かないから、何も不都合はない。夢はいつも唐突に迷い込んでくるし、彼らがいつまでもここを訪れてくれるわけではない。

「皆、今頃は新しい世界で再構築されている。俺もぼちぼち考えているんだよ」

 それが、今日の本題らしい。ここを去るつもりなのだと、僕は静かに理解した。

「この世界は、どんな最後を迎えると思う?」

 僕は問う。淹れたての紅茶を硅の前に置く。

「バラバラになるのさ。意味のない言葉のように」

 そして彼は紅茶を一口飲む。

 僕は彼の言葉について少し考える。

 祁門キームン紅茶の古木を焚いたような独特の香りは、考えごとをするのに適している。それは古い宗教のようであり、宗教が存在しなかった時代の信仰のようでもあり、信仰が失われたあとに残る意志のようにも思われた。香りは感情と直接結びつく。言葉の介在を必要としない。

「ここは上海だよ。欧羅巴ヨーロッパとは違う」

 僕は言う。

 硅は頷く。

「そう、だからこの街は最後まで残ったんだろうな。英語も仏語もアルファベットだ。アルファベットは表音文字だ。意味を持たない。大昔はあったのかもしれないが、まあ普通は意味を持たない。文字はただの文字だ。バラバラになればそれまでだ。けれど漢字は表意文字だ。それ自体が意味を持つが故に、バラバラになっても形を失わない」

 僕は頷く。それから、少し迷って、言った。

「でも、日本は沈んだよ」

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