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毎朝、僕は紅茶を淹れてベランダに出る。触れれば崩れそうなくらい錆びた手すり越しに、この街の風景を一望できる。無秩序に増殖し、行き場を失い、崩壊しつつある巨大都市だ。コンクリートと硝子の、硬く脆い無機質な建物が、この世界の果てまで並んでいる。その壁には、赤や黄色や青色の看板と、不吉な運命のような黒い電線が、ぎっしりとへばりついている。乗り捨てられた自動車と、自転車と、リヤカーが、ひび割れたままの道路に放置されている。
煙草に火を点けて、僕はその彩度の低い風景をぼうっと眺める。
夕方になると、
「あまり高いものではなさそうだ。うちには茶器がないからな、今度飲ませてくれ」
そんなことを言っていた。紅茶の缶は、青地に白い花が描かれたものだった。花なんて久しぶりに見た気がした。たとえ絵に描かれたものであっても。僕は随分長い間、そんなものがこの世界のどこかに存在していたことさえ忘れていたのだ。
「祁門紅茶だよ、知らないか?」
硅は笑った。缶をじっと見ていたのが滑稽だったのかもしれない。
「紅茶のことは、よく分からないんだ」
「これは独特の香りがするんだ。好き嫌いはあるだろうが、まあ飲んでみてくれ。気に入らなければ、俺のために淹れてくれればいいよ」
その日の晩にさっそく淹れて、二人で飲んだ。
「三大銘茶と言われていたんだ。最高級品は、こんな焦げたような香りじゃなく、蘭の花のような香りがする、らしい」
「僕はこの匂いが好きだけど」
「それならよかった」
その日から、朝と晩に、僕は紅茶を淹れるようになった。朝は僕のために、晩は硅のために。
さて。
ここで話はようやく初めに戻るのだけれど、ある頃から、時折この部屋に「夢」がやって来るようになった。
それは蝶の姿をしていたり、かまきりの姿をしていたり、ねずみであったり、蜘蛛であったりもした。朝晩を問わず、気がつくとそこに居る。何かするわけではない。こちらが話しかければ答える。話しかけなければ、ただそこに居るだけだ。鳥の姿で現れることはない。鳥は、夢が纏うには自由すぎる。
「この街は、まだ夢を見ているんだ」
あるとき、まだら模様のねずみが言った。
「君だって、『夢』じゃないか」
「まあね。でも、じきにこの街の夢は終わるさ」
またある時は、青い蝶が言った。
「皆、旅立ったよ。お前は行かないのかい」
鱗粉がガスランプの明かりを反射して、深い輝きを放っていた。
「仕方がないんだ、僕はまだ行けない」
僕はそう答えた。
夢は訪れ、去る。
そして夢はいつも、僕にある種の甘美な感情を想起させる。
「お前も、さっさとこっちに来ればいいのに」
幻覚ではない。蝶の姿は蝶の姿のままに、懐かしい人の姿と認識されることがある。
「あなたは僕を置いて行ってしまったのだし、失われたものは二度と存在しえない」
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