上海の夢

佐々木海月

1


 夢は夕暮れとともにやってきて、ひらりとマグカップの把手にとまった。今日の夢は、赤色の蝶の姿をしていた。マグカップには、朝淹れた紅茶が二口か三口ぶんだけ残っていた。

「いつまで、ここで待つつもり?」

 夢が、僕に問うた。

「君が待つ人は、もう、この世界にはいないのに?」

「待っているわけではないよ」

 僕は答える。

「行ってしまった人を追いかける方法が分からなくて、途方に暮れているだけなんだ」

「そう」

 夢は悲しげに俯き、それから、夕闇に溶けて去った。残っていた紅茶はもうとっくに冷めきって、渋くなっていた。

 同じ問答を、もう何度も繰り返している。

 そして、あの人は戻らない。

 ここは、上海旧市街にある集合住宅だ。僕が暮らしている部屋は十七階にある。昇降機エレベーターは動いていないので、できるだけ外に出ない生活をしている。

 電気も水道も、だいぶ前から止まっていた。この街は、時間そのものが止まっているのだ。風も吹かず、雨も降らない。今この街に何人が残っているのかは分からないけれど、多くの人々はすでに位相の異なる新しい世界にシフトしていった。世界はどんどん崩壊し、再構築されていく。ここも長くは持たないだろう、と二つ隣の部屋で生活しているケイが言っていた。彼は物理学者でもなければ数学者でもなく、天文学者でも地質学者でもないけれど、どういうわけかこの世界の状況に詳しかった。本人は文学者だと言っていた。ここでは、物理学者も文学者もだいたい似たようなものなのかもしれない。

 硅によれば、この街の記憶も感情も、いずれは素粒子レベルまで崩壊し、あるものは過去、あるものは遠い未来の一部になるのだという。熱を失った世界においては、時間の概念は消失する。過去も未来も等価であり、現在には観測点というくらいの意味しかなくなる。

 僕の目や脳や指や肺は、僕が見た夢をどこに運んでいくのだろうか、と。

 赤い蝶を思い出し、その行方を思った。

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