浮遊

「メイヤーさん。例のヒューマニティについてですが。」

 私を引き留めたのは、日焼けのない日本人の部下だった。

「資料がまとまりました。確認をお願いします。」

「助かるわ。」

 彼のタブレットに表示されている一枚目を見て、すぐに気が付いた。

「最初期に作られていて、やはり様々な安全装置を取り外し可能にしてあるわね。」

「はい。元は資産家の使用人として買われ、家主の意向で自由にさせていたようです。そして木星にも同行させていました。」

「可哀そうに。」

 部下がきょとんとした目を向けてくる。きっと分からないのだろう。

「それで、張りぼてのロケットを組み上げてガニメデに逃げ果せたのよね。」

「はい。」

「彼は、フィッシャー夫妻の名前を出したわね。スポット13で、会ったのね。」

「そしてヒューマニティは、二人がロケットの中で生きていると言っていますが、証拠がありませんし観測でも居ないと結論付けられました。」

「止めてほしいわ。」

 

 グリー・フィッシャーは大気維持員の現場監督者であった。その役職に見合わない性格は笑い種で、それがチームの緊張を緩めていた。彼の声は、雑踏の中でもよく通る。そしてほんの少し低いと思えた。いつもストライプ柄のよれたシャツと、水色のジーパンを着ていた。鳶色の宝石を絶えず輝かせる人で、眉毛の処理が甘く、目を細める癖と合わせて嫌味な感じが出てしまう。鼻は彫りが深く見た目より大きく見えていて、口元はせわしく動く。そんな人だった。

「彼らが木星内で一体何をしていたのか、見当がつかないのが歯痒いわ。とりあえず、ヒューマニティは情勢的に電車に乗れないから自力脱出したと。それと彼らが接触するなんて。おかしいわ。」

「チーフが脱出しない理由なら、間違いなく奥さんにあるでしょう。それ以上にチーフを突き動かすものは想像できません。」

「なおさら意味が分からない。彼女は一般人同然の居住者じゃない。なんの技術も関わりも持っていないはずよ。」

 ロウとは、何度か会社で喋ったことがある。彼女はとにかくチーフに熱心で、それでいてジョークを笑って見過ごせる人であった。そして、口元がそれ単体で生きているかのように動くので、感情が分かりやすいという印象がある。チーフも語っていたが、配給の時しか家を空けないと思えるくらい外出が少なかったらしい。更には、自身の連絡先に名前がほとんど無いのを自慢にしていたらしい。特殊な繋がりを持っているとは考えづらい。


 今になって、木星地上化及び移住の計画に不備があったのだとつつかれ始めた。世間からではない、計画に賛同していた科学者の面々が、掌を返しているのだ。大変長らく、記憶の隅に閉じこもっていた青い空をじっと見据えて、鼻の奥につんとした不快感が残るのを感じていた。責任がそこにあったはずなのに、私たちは浮かれて、見落としたのだ。彼方に、灰色の衛星が見える。彼らはきっと数多のそれを眺めることしかできず、異界で散ることを大いに後悔しただろう。もしかしたら、向こうの重力が弱い関係であの場所に届きやすいのかも。チーフ、ここには何にも無さそうです。

 霧を裂くような、金属の擦れる音がする。私の居る古い屋上への道を、誰かが開いたのだ。と思ったのだが、そちらを見てもドアが開いた様子が無い。しかし、はっきりと耳に残っている情報とどうしてか合わないな。思いつめすぎたのだろう。誰かが独りを邪魔しに来る妄想なのだ。ああ、今もそうだ。何やら体が浮き始めたようだが、地に足はついている。もう、ベッドに入った方がいい。




 ちょっとこれ見て、なんだろう。コンピューターがよく分からない結果を吐いてるんだけど。

 そうそう。何も映ってないんだけど、あるはずのない炭素を示してるんだ。

 修正しておけばいい。そうだね。

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覚醒 おきしま 幻魚 @okisima____

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