敬意を示す男

「       」

 声が聞こえる。それが声であるとはっきり分かるが、目覚める準備をしている頭はそれを言語として処理できなかった。何かが背中を暖めながら、かなり早いペースで縦に揺れている。穏やかでいて縦笛のように高い声が、私を覚醒へと誘う。

「う。」

 胸の奥で息巻く、未踏の洞穴のような緊迫した冷たさに嗚咽を出してしまった。息を吸うほど膨らんでいくようだ。

 未だに眼球から送られてくる情報がぼやけていて、部屋の様子を窺うことができない。声の主は私を抱えているということだけが、知り得ることだ。

「目覚めたのね。」

 それは酷く揺れてはいたが、私が最も焦がれた声質だった。

「ロウ。」

 その人を見上げようと視線を動かせば、霧がかっていても分かった。美しい輪郭だ。ああ、嬉しいよ。あなたの存在感は、私の苦しみを糸に変えて、奇麗さっぱりどこかへやってしまう。そうして、彼女の手で解放された体は、元の通りに波打ち始め、汚れていた水晶体も鮮やかな色を通すようになった。

「ありがとう。あなたは、私を追ってきてくれた。そして、ごめんなさい。」

 謝罪を口にする声が、一層上擦っている。

「謝ることなんてない。ロウと供にいつまでも居る。覚悟の言葉を何度呟いたことか。これが私の生きる道なんだ。」

「ありがとう。ありがとう。」

 彼女が、私の胸に零す一片はあまりにも大きく、心の中に危機感という変化を覚えさせた。

「ここは、どこだい。」

「ここは。ここは。」

 答えられる状態ではなかった。妻の背中へ手を伸ばし、宝石を手入れするようにさする。その様子を落ち着いて眺め、辺りも観察する。どうやらガラスを積み上げた処刑場ではない。しかしその内壁は継ぎ接ぎで出来ているように色がまちまちだ。温かみの無い金属でできている。また、微かにではあるが粘っこく鼻に残りそうな油の臭いを感じ取れる。そして、驚くべきことに白髪の男性と目が合った。

「こんにちは。」

 楽器を奏でる音色に感じるような、非常によい心地がする。では、彼は正しく。素早く立ち上がろうとしたが、ロウに阻まれてしまった。床に座り込む彼女は、私が上体を動かそうとした直後に一層強く抱き締めたのだった。弱ったな。無理に引きはがして怪我をさせたくない。ただ、しゃくる声が辺りに広がっていくようになってから、男が言葉を続けた。

「彼女が落ち着きになられたのは、あなたのおかげです。」

 妙な口調でつらつらと喋っている。

「あなたを発見させていただくまで、彼女は私たちを害することに必死になっていらっしゃいました。」

 どうやら、彼は敬意を表し続けるつもりらしい。実際はそうせざるを得ないのだろう。

「あなたたちを除染させていただきました。ここに居る限り、汚染に苦しむ必要はありません。」

 私はそこで、自身の頭を守っていたマスクが存在しないことに気が付いた。やつに、外に出る手段を潰された。

「帰れない代わりに、私たちを道連れにするのか。」

 自分でも、どうしてこんなにあたりの強い態度をとったのか分からなかった。大悪手になりかねない。それに、相手は滑らかな声を乱さず答えた。

「道連れにはなりません。代わりに人質になっていただきたいと考えております。」

 それは恐ろしい考えだ。災害を脅して生存しようと言っているらしい。神をも震えさせる、頭の出来具合だ。未曽有の事態に、この世の全てに意識があるという眉唾に縋りたくなったのか。

「とにかく二人にしてくれるか。こう。分かるだろ。」

「承知いたしました。では、時間になりましたら、お呼びさせていただきます。」

 来るな。そう願いながら、視界の隅にあるドアにそいつが消えていくのを確かめた。その頃には、流れ出していた光る雫も止まっていた。ほんの幽かな嗚咽が聞こえるが、きっと妻と話ができる。後ろを見れば、立派な鼻を赤くしてしまっているロウの相好が見えた。やっと抱き返すべきと気づいた私は、そうして身を寄せ、できる限り落ち着いた風に話し始めた。


「ロウ、私の言葉はわかるかい。」

「うん。もう大丈夫。」

 まだ心に余裕のなさそうな、上擦った返事だ。どうしようかと私は勘案して、一つの話題を出すことにした。

「私のパルクールをまだ覚えているかい。ドイツの街はずれでよくやっていたことを。」

「ええ。ええ、勿論。あなたはいつもコース外の街灯に登るところから始めていた。そこから勢いよく下りるパフォーマンスを最初見た時は、怖くて声が出なかった。でもあなたは華麗に着地して、その勢いのまま障害物を気持ちよさそうに躱していったわ。あの過ごしやすい曇りの日から、あなたを眺めるのが日課になったわ。」

「私がロウの存在に気づいたのは、よく太陽の照っていた日だった。水分を取ろうと休憩していたら、白くてつばの広い帽子のあなたと目が合った。お互いどうしたらいいのか分かんないで見つめ合っていたら。奇麗な人だと気付いたんだ。それからは、ずっと痒いような視線を覚えながら練習していたよ。心音が聞こえるようだった。一週間はそのままだったね。」

 私たちの関係は、気づけば心の深くまで液体が隙間に染み込むように根付いていた。存在感もより強まっていく。私はとても心地が良く、気づけばすんなり話しかけられる心持ちに変わっていた。

「初めてのお茶まで、随分長かったね。だからなのか分からないけど、とてもとても快適な時間だった。提供された物に二人とも全然手を付けないままで、ゆったりと喋り続けていた。」

「不思議だったよ。無言の時間も多かったのに、より惹かれあった感じがしたんだ。」

 あの日、私たちは互いに酔っていた。それなのに時間の流れはゆったりしていた。きっと夢の中で過ごすより素敵な体験だった。

「あなたとこの時のことを思い出し続けては口に出して過ごしてきた。今みたいに。」

 そう、出会いに思いを馳せることで、不安を掻き消してきた。まさに、二人が雨風を遮る時に使う非常口に違いない。緑色の光に手を引いてもらって、安全圏へと逃げ込んできたのだ。

 落ち着きを取り戻したロウの顔を見やると、たてがみの整ったライオンのような高貴さを呈していた。最後をより良い感情に満たされながら、歓迎できるだろう。ドアを開け放ち、無防備に受け入れる。きっとそれでいいんだ。


「ロウ。もっと強く抱いてくれ。痛みを感じれるほどに。」

「いいよ。」

 たった一言零して、一気に私を締め上げる。直接押さえつけられている腕の関節から刺激が走った。かかとが床から浮き上がり、背筋が伸びる。圧迫されている感覚が強くなるごとに、鼓動が応えた。和やかな時間が居なくなる瞬間を私は気に入っていて。愛する人に捕縛され、苦しめられる長い時間は後になるほど暖かくて素敵だと錯覚させてくれるのだった。

 そのうち、呼吸が浅くなる。追い詰められて、胸も絞められて、新たな空気を貯めることができなくなる。背中を染める熱が一層心地よく思えてきて、ただ好きだと胸中で唱え続けてしまう。心の内側に手を突っ込んでかき乱されているような、そんな気がするのだ。その手に、私の全てを差し出しておかしくなってしまいたい。

 ロウの横腹を、軽く叩く。これが彼女による支配を終わらせる合図だった。そして、いつもそう簡単に離してはくれないので、そのうちに服からでる音が乱暴そうに変わっていく。渋々ロウが私を解放するまでは、辛い。だが、私が自身の意思に反する行動に一層惹かれてしまうことも分かっていた。これが終わった後は、唇を長く重ねたくなる。自身の厄介な性分を、期待以上に握りしめてくれるのがロウなのだ。

 酸素が取り入れられず、頭が熱く重くなってきた。どれだけ平手を打ち付けても、反応が返ってこない。いつの間にか私は喋れなくなっていた。早くやめてくれ。伝わっているはずなのにロウは止まらない。力を入れ直す時だけ深くに空気が入り込めるが、そのせいでいつまでも体が悲鳴を上げ続けた。足先にまで、痛みは伝播しているように思えた。私は、ロウに殺されようとしていた。これに気づいた本能が必死にもがけと命令する。もちろんここに辿り着くまでに消耗しきっているので、数秒と続かず押し返すことはままならなかった。

 それでも力を入れようとして、死期を早めたらしい。ロウの腕の中で、視界が完全に闇に染まった。もはや、抱かれている感覚が消え失せ、宙を舞っていると感じられた。そして、目とは違う器官によって新たな光が与えられた。それは、ロウが今までどんな風に過ごしていたかを描き出す。ロウは、よく椅子に座っていた。私たちの家の中の、そんな光景ばかりが映る。読書、マッサージ、昼寝、なぜかどこを切り取っても座ったままだ。記憶を覗きながら、もう戻れないのだと悟ると眼球の周りが熱くなる気がした。ついぞ、二人は分かたれる。最後の一瞬まで居たかった。そうして私は、下の方へ引きずり込まれた。後悔とも願いとも知れない言葉が、脳裏を通り抜けていくのを見送って。

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